デ・キリコ展(東京都立美術館)
ヒトのいないか、またはいたとしても感情表情のないのっぺらぼうの顔で描いている独特の絵を見に行った。はじめ都会の憂鬱を表していてこれは都市文明に対する批判だと思っていた。美術館で初めて解説を読んで知ったことだが、この作者の絵の焦点はあちこちにあるらしい。そういえば、焦点が定まらないせいか見ていてさらに不安感が出てくる。不安なのは絵の題材だけによるのではなく、画面のあちこちを見てしまい見るところが定まらないことからくる不安定さからくるとみられる。
お金を払って不安な気分になりに行くとは怪訝である。それを大勢の人が熱心に鑑賞するのは不思議である。この絵を何らかの思想が盛られている、それは貴重なメッセージであると思って見ると疲れるだけであって、これはデザイン画であると見ると良い。焦点があちこちにあるのだから女性のブラウスやネッカチーフのデザインにぴったりで色の使い方もインパクトがある。着こなしはたいそう難しくて、大都会の中だけで有効で田舎の結婚式にこれを着てでていくのはいけないだろう。田舎なら紅葉や桜の柄の和服であろう。キリコの絵は、大都会の中で映えるデザインである。
我が国で同じ作風は、東山魁夷であろう。感情がなく憂鬱な印象を与えるが長く見ていると引き込まれるものがあってこれもまた良いんじゃないかとの気分になれる。ただ魁夷の絵は題材が緑の自然だからいいけど、キリコの絵は都会だから見慣れるまで時間がずいぶんかかる。
しかし、キリコはニーチェと親交があったというからやはりキリコの絵には何らかの思想を盛っていることは間違いないだろう。ニーチェはギリシャ美学から出発して(奇しくもキリコはギリシャのヒト)反キリストの思想を打ち立てたと理解しているが、それは普通の日本人には感覚として理解できないのではないかと思う。西洋のヒトがどっぷりつかっている文化が理解できないのであるからコトバの上での理解でしかありえない。ちょうど私が、「戎さんだけではどうも力不足である、七福神全員のお力を借りねばいけない。」との説を出したとして大抵の日本人は笑いながら感覚として理解するが、西洋のヒトには何のことやら分からないであろう。それと同じことである。私にはニーチェの言ってることが感覚として分からないから、この絵に盛られているであろう思想が感覚として理解できない。
しかし西洋文明の行き詰まりを表現したいのではないかとは推察される。ルネッサンス産業革命となかなか華々しかったが、最近は新機軸を打ち出せないままである。そりゃ空っぽの大都会ということになりますわなと嫌味を言いたくなってくる。しかし、わが日本もそのまねをしてきたのであるから空っぽの憂鬱な大都会ではないか。
この絵を見た後所用あって、東京丸の内を歩いたが道行く人が皆華やかな装いでいかにも仕事できそう、年収は二千万に近いという自信に満ち溢れた表情である。道行く人の顔を見ながら、養老孟さんなら自然がないところがいけないとおっしゃるだろうが、私は腹の底からの笑いがないところがいけないと思った。この人々はお家に帰ってもこの表情なのか。そんならあんまり楽しい人生ではないような気がする。
キリコの絵にも笑いがないのである。その笑いのないところが、文明批判になってないか?ここ丸の内に来てやっとキリコの絵が文明批判であるらしいことが推測された。
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