昭和が戦後であったころ ⑤ お米屋さん
昔は半径数百メートルくらいを商圏としてお米屋さんがあった。お米屋さんは町の中心であった。時々、米俵を積んだトラックが横づけされて、頭から肩にかけて黒い布をかぶった男の人が二人くらいで米俵を運び込んでいた。一人一俵を肩に担ぐのは難しそうだけど、歩く距離はそんなに長くない。米屋の裏にある蔵までせいぜいが20メートルくらいだろう。米屋の主人は、毎日米俵を店先に戻してから精米機に移して精米するが、どういう構造なのかずいぶん上の方から米を入れねばならないから、主人の方が重労働に見える。精米機は一日中動いていた。ただ、精米の質は悪く当時のお米には小石が混ざっていることが多かった。
カラになった米俵は、店先でポンポンと叩いてくっついていた米粒を落とす。そうすると雀が一斉に飛び降りてくる。この米粒が目当てかどうか知らないがつばめも店先に巣作りする。よくつばめが巣作りするのとその家は栄えるというが、どうも因果関係がさかさまではないか。栄えている家の余慶を狙って、つばめが巣作りするように見える。このことから推察するに、家の前に時々米粒を撒くとつばめが巣を作ってくれそうである。しかし、それはすでに家が栄えている証拠であってこれからさらに栄えるという保証はない。しかし、それだけの余裕があってさらに家業に精をだすと繁栄を持続することは可能だろうから、この昔からの言い伝えは本当と思われる。昔の人の観察は正確だけど因果関係が逆になっていることもありそうだな。
精米されたコメは、近所のおばさんが空になった米櫃(といっても20リットルくらいの何の変哲もない蓋つきの缶)を持って行ってそこに半分強入れてもらって持ち帰る。主人は大きな多分一升は入るかと思われるマスに米を入れて、棒で擦り切れ一杯にしてから米櫃に移す。帰りは、おばさんが持ち帰ることもあるが、米屋の息子が担いで各家まで配達することもある。米屋の奥さんは、ボールペンのない時代なので万年筆ではなくインク壺に浸したペンで台帳にそれを記入する。奥さんの机には、インク壺を置くための場所が丸く削り取ってある。ちょうど飛行機や新幹線のテーブルのようにである。米屋の支払いは、多分年2回であったと予想される。事実上の金融の仕事もしていたのと同じに見える。米屋の奥さんは町内の各家の経済状態も知っていたに相違ない。さらに買う際には米穀手帳を持って行くことが必要であったらしいが、詳しくは知らない。
きっと江戸時代もその前も同じであったろう。市中に現金が無くても人々は生活できた。
どこの米屋さんの店先にも同じ政治家のポスターが張られていた。やがてスーパーができて、街の八百屋や魚屋が皆お客を取られて廃業しても米屋さんだけはスーパーが米を扱わないので安泰であった。しかし、そのポスターの政治家が引退をしたころ、スーパーが米を扱いだして街のあちこちにあった米屋さんの多くは姿を消した。このことは新聞に載らなかったが、ことが終わってからそういうことかと納得した。頑張っても十年二十年なんだなと分かった。
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