没後200年 亜欧堂田善
江戸の洋風画家・創造の軌跡
2023年1月13日〜2月26日
千葉市美術館
亜欧堂田善(あおうどうでんぜん・1748〜1822、本名:永田善吉)は、司馬江漢(1747〜1818)と並んで、江戸時代後期に活躍した洋風画家。
現在の福島県須賀川市の裕福な染物屋の次男として生まれる。兄に絵を学び、38歳のとき伊勢国の画僧・月僊(1741〜1809)に師事したこともあるようだが、兄が営む家業の手伝いが主で、絵は余業にとどまっていた。
田善に転機が訪れたのは47歳のとき。
白河藩主松平定信(1759〜1829)に取り立てられたのである。
幕府老中職を辞した定信が領内巡視の途中に須賀川に立ち寄り、田善の「江戸芝愛宕図屏風」を見てその出来ばえに感心してのこと、との伝がある。その命により、御用絵師であった谷文晁(1763〜1841)に入門する。
その後、須賀川と江戸を行き来しながら制作したようだ。
主君の庇護のもと、試行錯誤の末、腐食銅版画技法の当時最高峰の技術を身につけ、日本初の銅版画による解剖図『医範提鋼内象銅版図』や、幕府が初めて公刊した世界地図『新訂万国全図』などの大仕事を手掛ける。一方で、版画や肉筆の油彩画にも取り組み、洋風画史に残る作品を生み出す。
亜欧堂の画号は、田善の銅版画を見た定信が、アジア(亜)とヨーロッパ(欧)を眼前に見るかのようだと賞賛して、彼に与えたものと伝えられている。田善は、本名の姓と名から号した。
没後200年を記念する本展は、福島県立美術館からの巡回で、首都圏では、2006年の府中市美術館「亜欧堂田善の時代」展以来、17年ぶりとなる個展。
【本展の構成】
第一章:画業の始まり
第二章:西洋版画との出会い
第三章:新たな表現を求めて-洋風画の諸相
第四章:銅版画総覧
第五章:田善の横顔-山水と人物
第六章:田善インパクト
第七章:田善再発見
亜欧堂田善をはじめとする江戸時代の洋風画家の名前や作品を私が知ったのは、府中市美術館の「春の江戸絵画まつり」による。
その洋風画の不思議な感じに興味を持った。
これまでに見て特に印象に残る田善の作品を3点挙げると、次のとおり。いずれも本展に出品される。
亜欧堂田善
重文《浅間山図屏風》
1804〜18年頃、東京国立博物館
東博の総合文化展にて何度か見ている(画像は東博にて撮影)。
浅間山の雄大でシュールな景観。江戸時代最大級の油絵。師の谷文晁が描いた『名山図譜』の浅間山図をもとに、画面構成を練って本図を作成した。近年発見の下絵には、斧で木を割る人と炭焼き窯の番人がみられたが、本絵では転がる木材と炭焼きの煙だけが残り、実にシュールな景となった。
本展では、後期限りの出品。
私が見た前期では、画像パネルとともに、個人蔵の本作の稿本が展示されていて、完成作にて省略されたものを見ることができる。
亜欧堂田善
《海浜アイヌ図》
1800年、個人蔵
府中市美術館の春の江戸絵画まつりにて、(本ブログを確認した限り)少なくとも2回、直近は2018年に見ている。
激しく波立つ海辺にいる、若いアイヌ人夫婦。
女性は、岩に腰掛け、背に魚の入った篭を負い、煙管を逆さに持った手を前に突き出している。男性は、弓を構えようとしている。二人の視線の先には何か獲物でもいるのか。
本展では、前期限りの出品。
絵までの距離があるのが残念。
亜欧堂田善
《少女愛犬図》
1804〜22年頃、立花家史料館
2018年の府中市美術館の江戸絵画まつりで初めて見た作品。
119.5×81.5cmの大画面の「水墨画の掛軸」に描かれるのは、不思議な容貌をした少女と犬。
英国の銅版画「ミス・ラッセルズ」(1760年代後半制作、50.5×35.4cm)を写したもの。
原作は、ごく普通の少女と犬を描いたもので、不思議なところはなく、ありふれた図像。
田善はそれを拡大して写すのだが、少女の顔の大きさ、目、口元、鼻、眉、被り物。犬の胴体部分。どうしてこんな不思議な作品になってしまうのか。
本展では、本作は通期展示。
素晴らしいことに、原作である英国の銅版画「ミス・ラッセルズ」も隣に展示している。
さらに素晴らしいことに、この不思議な作品を至近距離にて鑑賞することができる。
口元が不思議なのは、下唇にあてた光を究極に強調したからなのか。鼻が不思議なのは、陰影の問題だったのか。
本展では、撮影可能な作品が若干用意されているが、うち2点の画像を掲載する。
亜欧堂田善
《江戸城辺風景図》
1795〜1811年頃、東京藝術大学
堀沿いに湾曲する道に沿って針葉樹が整然と並ぶ光景は、神田橋付近から一橋・雉子橋一帯にかってあった護持院ヶ原付近の景色。
享保年間(1716~36)に護持院が移転した後は防火のため空地となった。冬〜春の間将軍家が特に用いたが、夏〜秋の間は庶民に開放されたという。両面右手、騎馬の人物がいる空地がその一部で、向かいに江戸城の石垣と堀が見える。
田善が育った須賀川にはない都市ならではの景観は、透視図法を用いるにうってつけの題材だ。並木の影が土手にぐにゃりと落ちる様も面白く、過か遠くに見える急峻な九段坂、そして美しい木々の緑。1図の中に田善の絵心をくすぐった要素が詰め込まれている。(会場内作品解説より)
亜欧堂田善
重文《銅版画東都名所図》
1804〜09年頃、須賀川市立博物館
2012年に重要文化財指定。全25図のうち、前期が13図、後期が12図展示される。
上記画像は、前期展示の13図。
第四章は、本作を含む田善の版画が多数展示されている。
本作のような風景画や、風景に人物を置いて風俗画要素を加えた作品も楽しい。
また、西洋のモチーフをかき集めて一つにしたような作品(《イスパニア女帝コロンブス引見図》など)もおもしろい。
田善は、幸運なことに、早くから画業が再評価された。
きっかけは、1876年の明治天皇の東北巡幸。
須賀川の行在所に田善の《水辺牽馬之図》が掛けられ、買い上げとなったのである。
明治初期の激動の時代に散逸・廃棄の危機にあったなか、多くの作品や道具までもが保存されることにつながり、現在も須賀川の偉人として大切にされているようだ。
須賀川出身の特撮監督の円谷英二(1901〜70)は、新聞の寄稿において、自分の母方の祖先に田善がいると聞かされており、「私がいま、こんな仕事ができるのも、田善という器用な先祖の余慶かな、と思うこともあります」と記しているという。