岸田劉生
《麗子肖像(麗子五歳之像)》
1918年10月8日、東京国立近代美術館
劉生は、1916年に肺結核と診断されたことを受け、代々木から駒沢へ移る。そして1917年、静養を兼ねて、神奈川県藤沢町鵠沼に移り住む。
翌年、5歳の娘・麗子の肖像を描く。東京国立近代美術館が所蔵するこの《麗子肖像(麗子五歳之像)》は、その後繰り返し描かれる「麗子像」の一番最初の作品である。
岸田劉生《晩夏午后》
1923年8月31日、ポーラ美術館
1923年8月下旬、劉生は、自宅の2階の窓から見える風景を描いていた。
この自宅から見える風景はお気に入りだったのかお手軽だったのか、何作か制作しているようである。
9月1日。11時58分。
その日、劉生は仕事にはかからず、家族団欒の時間を過ごしていた。娘・麗子は、近所の友達の家に遊びに行こうと外に出て数歩進んだところであった。
以下、『岸田劉生全集』所収の劉生日記より。
九月一日(土) 雨後晴、
今日といふ日は実に稀有の日である。恐らく安政以来の大地震とも云ふ可き大地震があつて、湘南、横浜東京を一もみにつぶしたのである。この日は、朝の中仕事にかゝらず、蓁と茶の間で花合せなどしてゐて余がまけて、少しかんしやくなどおこしてゐるところであつた。十二時少し前かと思ふ、ドドドンといふ下からつきあげる様な震動を感じたのでこれはいけないと立ちあがり、蓁もつゞいて立つて玄関から逃れやうとした時は大地がゆれて中々出られず蓁などは倒れてしまつた由、とも角外へ出るとつなみの不安で、松本さんの方へかけ出さうとすると照子が大地になげつけられ松の樹で眼をやられたとて蓁がかゝへて血が流れてゐる。あゝ何たる事かと胸もはりさける様である。家はもうその時はひどくかしいでしまつた。もう鵠沼にもゐられないと思つたがすぐ、これでは東京も駄目か、大へんな事になつてしまつたと思ふ。つなみの不安でとも角も海岸から遠い高いところへ逃れやうと傷ついた照子を蓁かゝへて麗子は小林がおぶつて一時購買屋のところで落ちついたが不安なので山へ逃れや(ママ)と行く。横堀があとから来たのには助かった。横堀に照子をまかせて逃れる。田の中に腹迄つかつて、逃れくる。地面がゆれ、われて、あぶない。電線が、ひくゝなつてゐて電気が通つてゐるかもしれない。実に不安である。やつとのがれて、藤沢の遊行寺か、武相へ行かうとしたら途中石上の御百姓家へ呼びこまれる。非常に親切な家で、実に助かった。(後略)
九月七日(金)晴強雨あり、
◯朝の中片瀬の写真屋が通つて購買組合を開いたのでそれと分り、こわれた宅の前と二宮さんの仮居の前と、写真二枚づゝ写してもらつた。
全壊した自宅の屋根に上って記念撮影する家族の集合写真
東京国立近代美術館が所蔵する劉生資料のうちの一つである。
前列右端の浴衣姿の男性が劉生。
その背後の女性が妻・蓁。
前列左端の少女が娘・麗子。
後列左端が劉生の妹・照子。9月2日に藤沢の医院に診てもらったところ、「眉毛のところを切つたゞけであとは打撲のあざがあるのみ眼は安全の由」。
なお、小林は、後列右端の半裸の男性である。
自宅の母屋は全壊するが、1度目の揺れでは幸いにも持ち堪え、家族は逃げることができた。
また、2階建ての洋館のアトリエは倒壊を免れている。
火災もなかったようだ。
制作途上の《晩夏午后》は、打ち切りという形で完成させる。
同作には本来風景にあるはずの電信柱が描かれていない。後から描くつもりだったのか、最初から描くつもりがなかったのか。
【参考:電信柱のある風景】
岸田劉生《窓外夏景》
1921年7月20日、茨城県近代美術館
そして、9月16日、劉生一家は鵠沼を去る。劉生の晩年がスタートする。
上記の3作品・1写真は、次の展覧会で見ることができる。
没後90年記念 岸田劉生展
2019年8月31日〜10月20日
東京ステーションギャラリー
【本展章立て】
第一章 「第二の誕生」まで:1907〜1913
第二章 「近代的傾向...離れ」から「クラシックの感化」まで:1913〜1915
第三章 「実在の神秘」を超えて:1915〜1918
第四章 「東洋の美」への目覚め:1919〜1921
第五章 「卑近美」と「写実の欠除」を巡って:1922〜1926
第六章 「新しい余の道」へ:1926〜1929