東京国立博物館
「法隆寺金堂壁画と百済観音」展
2020年3月13日〜5月10日
→開幕日を3/17に変更
→開幕日未定
→4/10、「中止」を発表。
4/12のNHK日曜美術館は「法隆寺の至宝〜金堂壁画をよみがえらせた人々〜」。
準備万端、観客を迎えるだけの状態となっていながら、来たるべき開幕に向けて報道向け内覧会も開催されていながら、4/10に無念の「開催中止」が発表されたばかりの「法隆寺金堂壁画と百済観音」展を取り上げる。
展覧会会場での収録は、3/25に行われたとのこと。
「法隆寺金堂壁画の模写/再現」の歴史
1949年1月27日(番組による)午前7時頃に法隆寺金堂にて発生した火災により、飛鳥時代の仏教絵画の至宝、金堂壁画が焼損する。
失火原因は、当時実施中の金堂壁画模写事業の作業時に使用していた暖房器具の消し忘れが有力な説とされている。
金堂壁画の焼損に、戦後僅か4年の当時、日本中が悲しみと喪失感にうちひしがれたという。
番組では、明治以降の金堂壁画の模写・再生の取組みを紹介している。
1)桜井香雲(1840〜1902)による模写
・明治時代、イギリスの外交官アーネスト・サトウの依頼により、金堂壁画の第9号壁「弥勒浄土図」の模写を制作する。現在大英博物館が所蔵。
・その後、明治17(1884)年に明治政府から文化財保存の目的で模写を依頼される。全面の「現状模写」(しみや傷を含めて現状を忠実に模写)。2年をかけて完成。
2)鈴木空如(1873〜1946)による模写
・誰からの依頼でもないのに、全図の実寸大模写に、大正11年、昭和7年、昭和11年と3度も取り組む。
・「鉄線描」。同じ太さの張り詰めた線。線に意味や感情を持たせない、均一の線。
・1回目:壁の傷や汚れまで残さず忠実に写し取ろうとしている。
・2回目:損傷部分の表現が弱められている。
・3回目:背景の傷は目立たず、忠実に描いた1回目より仏が浮かび上がって見えている。顔の輪郭や鼻筋の線がくっきりと。仏を美しく表現したいとの願いが伺われる。
3)1935年の写真撮影事業
・昭和10年、文部省の国宝保存事業の一環として、京都の便利堂が壁画の原寸大写真を撮影。
・壁画の全てにピントが合うように画面を42分割して撮影。壁から90cmの距離を保ったところに足場を組む。75日をかけて撮影。撮影には、フィルムに比べて解像度、耐久性に優れるガラス乾板を使用。ガラス乾板の情報を忠実に再現できるコロタイプ印刷で複製を作成。
・また、カラー写真が確立していない当時、壁画の色も残しておきたいとの独自の判断により、4色(黒、黄、赤、青)のフィルターを使って、色のデータも記録する。後の再現模写事業に活用される。
4)1940年からの現状模写事業
・金堂の解体修理とあわせて昭和15年に国による模写事業が始まる。当時の代表的な日本画家4名が分担して担当。
・他3班と異なり、入江班だけは「あげ写し」法にこだわって制作。
・日本で初めて蛍光灯(海軍から調達)が照明として使われたことで、ロウソクのあかりのもとでの過去の模写とは異なって、背景が明るくなり、細かな描写や鮮やかな色も写し取られる。
・戦争により一時中断、戦後再開も、1949年の火災で突然の終焉。未完となる。
5)1967〜68年の壁画再現模写事業
・昭和15年撮影の原寸大写真を美濃紙にコロタイプ印刷し、下図とする。
・4班14人体制。画家の個性をなくすために、線を細かい点描でつなぐやり方で制作される。
・約1年で完成させ、金堂に収められる。
6)焼損壁画の収蔵庫
・法隆寺境内の一角、火災の2年後に建てられた収蔵庫に、焼け焦げた柱とともに、色彩を失ってわずかに仏の姿を残すばかりの壁画が、誰に見られることもなく、在りし日の配置で保存されている。
・番組ゲストのコメントでは、一般公開の方向では進んでいる、とのこと。
本展覧会は、残念ながら開催中止になってしまったけれど、近い将来再度開催して欲しいものである。
それにしても、空如という人はすごい人ですね。
コメントありがとうございます。
たいへん面白い番組でしたね。
しかし、展覧会は、準備万端にもかかわらず、一日も一般公開されることなく中止。番組を見て残念な思いが増しました。空如の3バージョンを比較鑑賞したい。近い将来、改めて企画してくれることを期待するところです。