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津田青楓《出雲崎の女》&《婦人と金絲雀鳥》-2023年6月のMOMATコレクション(東京国立近代美術館)

2023年06月09日 | 東京国立近代美術館常設展
 今期(2023/5/23〜9/10)の「MOMATコレクション」展示より。  
 
 
2室「関東大震災から100年 1923年の美術
 
 今年は、関東大震災から100年目の節目に当たります。1923年9月1日11時58分、相模湾沖で発生したマグニチュード7.9の巨大地震が関東地方を襲いました。
 前夜からの豪雨がやみ、激しい風が吹く秋の土曜日、上野公園の竹之台陳列館では、いずれも第10回の再興院展と二科展が初日を迎え、朝から大勢の人で賑わっていました。
 ちょうど作家たちが集まってきた頃に激しい揺れが起こり、展示は即時中止されます。
 陳列館は倒壊を免れましたが、いずれの会場でも、台から落下した彫刻が壊れて散乱し、絵画は傾いたり、額が歪んだりといった惨状だったようです。
 二科展を訪れていたある人物は、「立体派の絵をグルグル廻し乍ら見て居る様だ」と述懐しています。
 両展ともに、無事だった作品を集めて10月から大阪で開催され、その後再興院展は法政大学で、二科展は京都、福岡を巡回しました。
 ここでは、当館のコレクションから、当時これらの展覧会に出品されていた作品をご紹介します。
 
 
 東京国立近代美術館所蔵の、第10回二科展出品作品が5名6点、第10回再興院展出品作品が3名6点(前後期で展示替えあり)が展示される。
 
 以下、第10回二科展出品の津田青楓(1880-1978)の2点を見る。
 
 津田は、図案家であり、洋画家であり、日本画(南画)家。二科会の創設メンバーの一人。夏目漱石と交友し、河上肇と交友し、良寛に私淑する。2020年に練馬区立美術館で回顧展が開催されている。
 
 
津田青楓
《出雲崎の女》
1923年、96.5×146.5、作者寄贈
東京国立近代美術館
 
 出雲崎は、新潟県のほぼ中央に位置する日本海に面した町です。
 1922(大正11)年にこの地を訪れた津田青楓は、投宿した旅館の娘の容貌に惹かれ、モデルになってくれるよう頼みこんでこの作品を描いたそうです。
 
 良寛の出身地・新潟県出雲崎の良寛堂の開堂式に招かれた青楓。
 「田舎者に似合はず言語動作がはきはきしてゐる」「顔かたちにとても特殊的な感覚をもつてゐる」「何も彼も一人してきりまはしてゐる」旅館の娘に惹かれ、モデルを依頼する。
 
 1920年代という時代に、地方の町で、芸術や芸術家とは縁がなかったであろう一般女性をヌードにするなんて、よく口説き落とせたものだ。
 
 本人のほか、保護者であった伯母さんの了承も得て、道具を取りに一度出直し、1週間ほどで描きあげる。
 
 装飾的なソファやモデルの持つ扇子、開きかけの本、黒猫など、手の込んだ構成からは津田の力の入れ様がうかがわれます(窓の手すりの向こうに見えるのは佐渡島です)。
 
・身長が相当に高く、脚が長い。
・顔の色が青味を帯び、眼が凹んでいる。
・眼鼻だちが凡て大きく、口が殊に大きい。
・顔は面長で、凹凸が彫刻的にはっきりしている。
 
 津田は、そんな新潟県出雲崎の女性に、ゴーギャンのタヒチ風の女性を見出したのか。
 
 寺田寅彦の「震災日記より」によると、震災当日、寺田と津田が二科展会場の喫茶室で話題にしていたのが、まさにこの絵でした。
 
 
「震災日記より」 九月一日(土曜) 
 
 朝はしけ模様で時々暴雨が襲って来た。
 非常な強度で降っていると思うと、まるで断ち切ったようにぱたりと止む、そうかと思うとまた急に降り出す実に珍しい断続的な降り方であった。
 
 雨が収まったので上野二科会展招待日の見物に行く。会場に入ったのが十時半頃。蒸暑かった。フランス展の影響が著しく眼についた。
 
 津田は、11時頃に到着。
 会場で画家仲間の山下に会い、モデルの女性の夫から、《出雲崎の女》の撤回要求を受けていることについて相談する。
 山下からは、そんなに君のように怒ってしまっては駄目だから、まあ向こうから言ってきた条件をなるだけきいてやって出品だけはどうしても止まないことにしないと仕様がない、というような穏健な話で、なぐさめられる。
 
 モデルとなった1922年秋には未婚であった女性は、翌1923年春に結婚したようだ。
 
 展覧会開幕の2日前にやってきた「三十くらいの」「医学士」の夫からの要求は、次のとおりであったが、すべて拒否した、と津田は語っている。
・展覧会への出品を取りやめること。
・でなければ、《出雲崎の女》という題名をやめること。
・でなければ、絵葉書の発行を見合わせること。
 
 山下との立ち話後、寺田と会い、喫茶店に誘う。
 
 T君と喫茶店で紅茶を呑みながら同君の出品画「I崎の女」に対するそのモデルの良人からの撤回要求問題の話を聞いているうちに
 
11:58、関東大震災発生。
 
 
 
津田青楓
《婦人と金絲雀鳥》
1920年、116.7×73.0cm、作者寄贈
東京国立近代美術館
 
 装飾的な金の衝立を背景に、黄色の鳥のいる中国製?の鳥かごを足元に、椅子に座る目鼻口が大きめな女性。
 
 モデルは、津田の妻である山脇敏子(1887-1960)。
 
 山脇も画家として活動し、1922年に農商務省の委嘱による婦人副業視察のため、単身でフランスに渡る。関東大震災時もフランスに滞在中。帰国は1924年のこと。
 その間、津田は新しい女性との付き合いを始める。
 その女性の妊娠がきっかけか、1926年に離婚が成立し、その半年後に津田は再婚する。
 山脇は、傷心のまま画家を諦め、服飾の道に活路を求める。結果、大成する。
 
 
 
 結果として、《出雲崎の女》の1923年の東京での一般公開はできなくなる。
 しかし、巡回先には出品されたようである。
 なお、その後、モデルの夫からの連絡はなかった、と津田は語っている。


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