隠れ家-かけらの世界-

今日感じたこと、出会った人のこと、好きなこと、忘れたくないこと…。気ままに残していけたらいい。

『桜の樹の下には』 本当に…。

2010年01月23日 00時44分19秒 | プチエッセイ
■『桜の樹の下には』
 久しぶりに目にした一文、「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」。
 10代の頃、学校の図書館の隅っこの特等席で読んだ梶井基次郎。「檸檬」やこの「桜の樹の下には」からの痛いくらいのキラキラがどんよりと鈍った私の心を突き刺したっけ。そう、まったくもって、そういう才能に触れたにもかかわらず、私の文章は何年たっても何十年たっても、きっと何億年たっても、「突き刺した」なんて陳腐きわまりないのだけど。
 散文というより、決まり事をすべて捨て去った「詩」のような。そう「散文詩」といってたっけ。
 あれから私は、桜の樹がただ美しいものだなんて思えなくなった。とくに夜の闇に、灯りの力なんて借りずにあの薄桃色の花びらの力だけで匂うように凛と立つ桜が、自然界の無機質な栄養だけで生きているなんて、信じられるわけない…。
 桜の樹の下には、「生きたい、生きたい」「愛されたい、愛されたい」と呻きながら叶わずに命を落とした人間が埋まっている。そう思えば、桜が生き急ぐように咲いて散っていくいつもの春のくり返しも、ただの自然現象ではなくなる。
 怖くて悲しくて、艶やかで淫らな桜…。


■千の風にはならないで
 久しぶりに『桜の樹の下には』を思い出したのは、実は「天声人語」のおかげ。
 「樹木葬」について書かれていた。墓石に代えて木を植える弔い方とか。「故人の使い残した精気のようなものが……花や実をつける」と書いてある。「夭折の墓ほど樹勢は強かろう」、そう思えば、たとえ残された者たちの悲しみが癒えることはなくても、育つ木々に幼子への思いを馳せることができるようになるかもしれない。
 そう、弔い方はそれぞれでいいのだ。通夜の席や告別式に出向くことではなく、一人しのぶこともできる。自分のいちばん大切に思う人には、そうやって私を見送ってほしい気もする。
 暗い土の下に入ることは望まないけれど、「千の風」になって愛する人のまわりを舞い踊ることも望まない。まして、亡くなった人が私の耳元を通り過ぎる風になるなんて、絶対にイヤだ。
 愛する人には、どこか遠くのその人が望む理想郷で、優雅に優しい日々をおくっていてほしい。どうしているだろうか、元気にやっているだろうか、とたまに思い出してくれたら、それで十分だ。
 私は大丈夫。


 菅家利和さんの再審第5回公判
 尋問の内容は新聞で読んだだけだけれど、あれはシロウトから見ても「誘導」ではないのか。
 菅谷さんは本当はもっと怒ってもいい。失われた時だからこそ、もっと怒ってもいい。ただ、本当は誰に向かって何に向かって怒ればいいのか。それをご本人が感じているとしたら、どんなにむなしいだろう。
 無罪は当たり前のことで、どんなふうに冤罪が生まれたのか、きっちりと追求してほしい。

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