■羽生結弦名言集
9歳くらいのときに、本当にやめたくなって、「やめる」「じゃあやめなさい、野球でもやりなさい」となった。そのときにふと思いましたね。まだ始めて5年たってないくらいだったけど、こんなところで終わらせてしまっていいのかな、僕、もうスケートに人生かけているな、と思った。
自分を貫いていると、家族に心配されたり、本当に信じている人に裏切られたりするかもしれない。ただ、そうやって自分自身を貫くことで後悔はしない。
優勝するしかないのなら、優勝すればいい。わかりやすい。
避難所で3日間すごしました。その避難所で、沢山の人たちに助けていただいて、だから僕はその皆さんの為に何でもしたいと思っています。僕が出来ることはスケートだけですが。
被災地のために、何かしよう、元気を出してもらおう、という気持ちで滑っていたけど、僕たちは逆に支えられている、元気をもらっている立場なんだということに気づきました。僕が1人でスケートをしているんじゃない。
プレッシャーを感じても乗り越えることができれば、自分が強くなれる。
自分でも気持ちが追い付かないくらいです。まるで、ジェットコースターに乗っているようです。勝てない時は本当に勝てないし、たくさん練習してすごく調子がいいと、ケガをする。その繰り返しです。いい時と悪い時の差が激しくて、自分でも付いて行けない時があります。
人生のプラスとマイナスはバランスが取れていて、最終的には合計ゼロで終わると思っています。だけど、振れ幅が大きいか小さいかは、その人次第。僕はプラスとマイナスの差が激しいんです。
プレッシャー、大好きですから。
試合前に緊張したり、不安になったりすることもあります。でもそれは、それだけ本気だという証拠。うまくいきたいって思っていなかったら、緊張もしないし不安にもならないですから。ネガティブな気持ちも、どうしてそんな気持ちになったんだろう、って考えられたら、プラスに変えていけると思います。そう考えると、フィギュアを通じて経験したことで、無駄だったことって一つもないと思っているんです。もちろん胸を張れることばかりではありませんが、いろんな経験をしていろんな感情を知っていれば、それを表現に変えられるかもしれない。怒りとか悔しさが、力強いジャンプにつながるかもしれない。だから、ネガティブな感情からも逃げずに、一つ一つの経験を大切にしていきたいなと思っています。
氷にもすごく感謝!
芸術というのは明らかに正しい技術、徹底された基礎によって裏付けされた表現力。ジャンプ、ステップ、スピン、全てにおいて正しい技術を使い、それを芸術として見せることが一番大切なことだと思っている。
芸術は絶対的技術に基づいたもの。
できる時にできることを精一杯やる。できない時はその時にできることをやる。
以前は、フィギュアは生活そのものだった気がします。でも震災やいろいろな経験を通して、生活は生活、フィギュアはフュギュアであってイコールではないと思うようになりました。「フィギュアがなくなったら、何もなくなってしまう」ということでは困るので、意識的に切り離そうとしているのかもしれません。でもフィギュアは、羽生結弦という人間を形成している軸であることは確かだから、人生の重要な一部であることは間違いありません。
できることを出し惜しみしてやっていてもつまらない、それは一生懸命ではない。
いかなる状況においても全力を出し切ることがスケーターとしての流儀です。
いつも心を開いているんです。心を開いていなきゃ、何も吸収できないしおもしろくない。心を開く事が成長の原動力。
逆境は嫌いじゃない。それを乗り越えた先にある景色は絶対にいいはずだと信じている。
フィギュアは、努力の大切さや諦めない強さなどポジティブなことも教えてくれましたし、自分の弱さや過信など、ネガティブな面にも気づかせてもらいました。そこから学んだ多くのことは、僕の考え方や普段の言動、社会生活に影響を与えているのは事実です。でも、実はすべてが正しいとは思っていなくて…何をどう受け入れるかは自分の選択次第なのだと思っています。僕とフィギュアの関係は、学ぶというよりも「フィギュアを通して、人生のいろいろなことを経験させてもらっている」そういう感覚が一番近いです。
僕は僕。羽生結弦以上でも、以下でもない。 ありのままの自分が出来る事を、 五輪でもしっかりやりたい。
一生懸命さが大事1分1秒を大切にする。
努力はウソをつく。でも無駄にはならない!
「負けても悔いはない」は嘘。勝てない試合が楽しいわけがない。
トラブルだって、いいきっかけになるんですよ。
僕がみんなを支えるなんて間違っていた。僕がみんなに支えられていた。
自分が相手だから、負けられない。
■羽生結弦とは?
羽生結弦。
宮城県仙台市泉区出身。
コナミスポーツクラブ泉のリンク(現・アイスリンク仙台)で1999年に佐野稔が開催した子供スケート教室に姉が通い始め、この姉の影響により羽生も4歳でスケートを始めた。
都築章一郎から、小学2年から小学6年まで指導を受けることとなる。
2004年10月に初出場した全日本ノービス(Bクラス)で優勝。
9歳で初めて金メダルを獲得した。
2007年、ノービスの選手(中学1年)ながら全日本ジュニア選手権で3位となる。ノービスの選手が全日本ジュニア選手権の表彰台に上がるのは日本男子史上初。
2008年からジュニアに上がり、ISUジュニアグランプリ (JGP)に参戦。全日本ジュニア選手権で初優勝を果たし、初出場となった全日本選手権では出場選手中最年少ながら8位に入る。世界ジュニア選手権でも大会最年少ながら12位となった。
2009年初戦のJGP トルン杯でJGP初優勝。続くクロアチア杯でも優勝し、JGPファイナルでは史上最年少(14歳)で総合優勝を果たした。全日本ジュニア選手権では2連覇を達成。
世界ジュニア選手権ではフリースケーティングで大幅にパーソナルベストを更新して優勝。
2010年4月、東北高校に進学。
2010 - 2011シーズン、シニアデビュー戦となったISUグランプリシリーズのNHK杯で、フリースケーティングで自身初となる4回転トウループを成功させ4位に入賞。出場3回目の全日本選手権では4位となり、四大陸選手権の代表に選出された。
2011年2月に開催された四大陸選手権ではショート、フリーともに自己ベストを更新する演技で、初出場で銀メダルを獲得。男子選手としては四大陸選手権史上最年少のメダリストとなった。
2011年3月11日、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が発生。地震発生時は仙台市のアイスリンク仙台で、先輩スケーターと貸切状態で練習中であり、四つん這いでスケート靴を履いたまま外へ避難した。
羽生本人や家族、阿部コーチやリンクメイトは無事であったが、同リンクは被災して営業休止になり、自宅も大きな被害を受けたため避難所で4日間過ごした。
2011年初のISUグランプリファイナルでは、総合得点でパーソナルベストを更新するが、1.73点の僅差で表彰台に届かず4位となる。全日本選手権では、ショートプログラムで4位と出遅れたが、フリースケーティングで1位となり総合3位、これにより自身初となる世界選手権代表に選出された。
世界選手権は総合で3位に入り、初出場で銅メダルを獲得。
17歳3か月でワールドメダリストとなったが、これは日本男子史上における最年少記録となっている。
2012年フィンランディア杯ではフリーでトゥループとサルコウの2種類の4回転ジャンプを成功させ優勝。グランプリシリーズでは初戦のスケートアメリカ、地元・宮城県で開催された第2戦のNHK杯と、2戦続けてショートプログラムで歴代最高得点を更新、GPファイナルでは2位となる。全日本選手権では初優勝を果たした。
2013年4月に早稲田大学に進学した。
2013年7月に全日本空輸(ANA)と所属契約。
シーズンインするとフィンランディア杯で2年連続の優勝。スケートカナダとエリック・ボンパール杯はともにパトリック・チャンに次ぐ2位。福岡市で開催された2013年GPファイナルではショートプログラムの歴代最高得点を更新、フリーでは自己ベストを大幅に更新し、総合1位でGPファイナル初優勝を果たす。続く全日本選手権では2連覇を達成し、オリンピック代表に初選出された。
2014年2月、ロシアで開催のソチオリンピック本番では、同大会から新種目としてスタートした団体戦でショートプログラム1位となるが、日本代表の最終結果は総合5位に留まった。
男子シングル個人種目では、ショートプログラムの『パリの散歩道』で101.45点をマーク、公式大会世界最高得点かつ、史上初の100点超えを達成し首位に立った。
フリースケーティングで自己ベストには程遠い178.64点にとどまったが、SPで2位につけていたパトリック・チャン(カナダ)は単独の4回転トウループと3回転アクセルで手を着き、さらに終盤の2回転アクセルでもバランスを崩すなどの着氷ミスが続き、羽生のフリーの得点を上回れず銀メダルに終わった。その後に滑走した2選手もメダル圏内にはおよばず、結果羽生はフィギュアスケート男子シングルの種目において、アジア人初となる冬季オリンピックでの金メダルを獲得した。
ソチオリンピックでは日本人唯一の優勝、また平成生まれの日本人として史上初の夏季・冬季を通して五輪の金メダル獲得となり、さらに日本選手で過去冬季五輪の金メダル獲得は記念すべき10個目となった。
2014年3月、さいたま市で開催された世界選手権では、ショートの4回転トウループで転倒し3位と出遅れた。しかしフリーで、国際スケート連盟主催の大会で自身初の4回転サルコウジャンプを成功させ、逆転優勝を果たした。
2014年11月、上海開催の中国杯ではショートプログラムで2位スタート。フリースケーティング前の6分間練習で、中国の閻涵と衝突事故が起きた。
頭部と顎にテーピングと包帯を施したままの状態で演技に臨んだ。
最後までプログラムを滑りきり銀メダルを獲得した。
精密検査の結果、頭部挫創・下顎挫創・腹部挫傷・左大腿挫傷・右足関節捻挫で全治2~3週間と診断を受けた。
次戦のNHK杯は総合順位は4位となるものの、この結果、ISUグランプリシリーズポイントランキング6位となり、最下位でグランプリファイナルへと進出。
グランプリファイナルでは1番滑走で臨むことになったショートでシーズンベストを記録し首位に立ち、フリーでは2種類の4回転を成功させ自己ベストを更新。日本男子初となる大会2連覇を達成。
続く2014年12月、全日本選手権では3連覇を達成したものの、グランプリシリーズ時から断続的に続いていた腹痛の精密検査のため、エキシビションを欠場して緊急入院。「尿膜管遺残症」との診断結果により、翌12月30日に手術を受けた。
2015年GPファイナルでは、世界記録を再び塗り替え、男子史上初の3連覇を達成した。
続くNHK杯では「挑戦という意味を込めた」として、ショートに4回転サルコウと4回転トウループ - 3回転コンビネーションの4回転2本を組み込む、自身最高難度の構成に急遽変更。
ノーミスの演技で、ソチオリンピックで自身が記録した101.45点の世界最高得点を更新する106.33点をマークした。
翌日のフリーでは、演技後半の4回転 - 3回転コンビネーションを含む計3本の4回転のほか、すべてのジャンプを成功。
技術点は出来栄え評価で23.08点もの加点を獲得し、史上初の200点台となる216.07点を記録した。
トータルスコアでも史上初の300点台となる322.40点を記録し、パトリック・チャンが保持していた295.27点の世界歴代最高得点を大幅に塗り替える前人未到のスコアで優勝を果たした。
この大会で羽生はショート、フリー、トータルの全スコアで世界記録を更新。
ISUジャッジングシステムにおいて、史上初めてショートプログラムで100点、フリースケーティングで200点、トータルスコアで300点超えを達成した男子選手となった。
さらに2週間後のバルセロナで開催されたグランプリファイナルのショートプログラムにおいて、NHK杯を超える演技を披露。110.95点を叩き出し、わずか2週間で再び世界記録を塗り替えた。
一日置いたフリーでもノーミスの演技を披露。4回転サルコウ、4回転トウループともにGOE満点を獲得し、技術点は120.92点に到達。トータルで330.43点というスコアを叩き出し、再びすべての世界記録を更新した。
男子選手としてISUグランプリファイナル史上初となる3連覇を成し遂げた。
2017年3月にヘルシンキで開催された世界選手権に出場。ショートでは、109.05点で自己ベストを更新した首位のハビエル・フェルナンデスとは10.66点差の5位発進と大幅に出遅れる。
しかし最終グループ1番滑走で臨んだフリーでは、鬼門となっていた演技後半の4回転サルコウ+3回転トウループの連続ジャンプを今季初めて完璧に成功。4回転4本に加え、すべてのジャンプを加点つきで成功させるという圧巻のノーミス演技を成し遂げ、自身が持つ世界最高得点を更新する223.20点を叩き出した。
トータルスコアはシーズンベストとなる321.59点で、4位までが300点を超える空前の激戦を制し、史上初となるショート5位からの逆転優勝を飾った。世界選手権の優勝は2度目となり、3年ぶりに世界王者の座を奪還した。
平昌オリンピック2018年2月16日、江陵アイスアリーナでショートプログラムに出場。
4回転ループは回避するも、演技後半のトリプルアクセルは、審査員全員からGOE満点の評価を得るなどすべてのジャンプを完璧に決め、ブランクの不安を払拭する圧巻の演技を披露した。
自己ベストに肉薄する111.68点をマークし首位発進となる。
翌17日に行われたフリーは冒頭の4回転サルコー、続く4回転トーループでGOE満点を獲得する完璧な滑り出しで序盤のジャンプはすべて成功。
長いブランクからスタミナが懸念された演技後半も、大きなミスは1つにとどめ、フリーでは演技構成点トップ、ショートプログラムとの合計317.85点と2位以下を10点以上離し、ソチオリンピックに続き2大会連続で金メダルを獲得。
男子では1948年サンモリッツオリンピックと1952年オスロオリンピックを制したアメリカのディック・バトン以来66年ぶりとなる連覇を達成した。
冬季オリンピックの個人種目で日本人が連覇を果たしたのは史上初である。
国民栄誉賞の授与が発表。
歴代27例のうち、冬季五輪の金メダリストは史上初、また23歳での受賞は個人最年少となった。
2018年世界選手権ショートでは、3位発進となる94.87点と、トップのネイサン・チェンと12.53点も離される厳しい結果となった。逆転を狙ったフリーでは、今季は2度目の成功となる4回転ループを決め、3.45点の加点を獲得。4回転トウループは加点3.8点を、4回転トウループ - トリプルアクセルも決め3.12点の加点を獲得。ステップはレベル3となり、合計206.10をマークした。新採点方式で初めてフリーで200点を越えた最初の選手となった。トータルでは最高得点記録となる300.97点を獲得し、新採点方式で300点を超えた最初の選手となりパーソナルベストを更新。
しかし、その直後に滑走したネイサン・チェンが高難度ジャンプを組み込んだ圧巻の演技を披露し、合計323.42点と世界最高得点を更新し優勝した。日本代表選手で唯一のメダル獲得者となった羽生は銀メダルとなり、来季の世界選手権3枠獲得を自ら死守した。
2022年北京オリンピックに出場。
《COVID-19》の影響によリ、バブル方式が採用された。
今大会、羽生自身の意向によりオーサーコーチはリンクサイドに立たないと発表された。
SPは、リンクの穴にはまる不運があり、冒頭の4回転サルコウがシングルになった。
その後は4回転‐3回転の2連続トウループは、出来栄え点4.07点(GOE)を獲得、トリプルアクセルは着氷、しっかり演じきり95.15点の8位で終え、演技後には「はまった」と口にしフリー頑張りますと語った。
フリーは、冒頭に挑んだ4回転アクセル(クワッドアクセル)は回転不足、転倒で大幅減点となり、続く4回転サルコウも4分の1回転不足で転倒したが、後半で4回転トウループ+3回転のコンビネーションジャンプと4回転トウループ+オイラー+3回転サルコウの3連続ジャンプを着実に成功させるなど、次第に立て直した。
公言通り、4回転アクセルの挑戦を貫きプライドを示した。
フリーは、188.06点を記録し3位と巻き返し、合計点283.21点の4位。
94年ぶりのオリンピック三連覇及び表彰台を逃した且つ、7年ぶりに国際大会の表彰台を逃した。
しかし、自身の幼い頃からの夢でもあった4回転アクセルは、基礎点がつき国際スケート連盟の公認大会で史上初めて4回転アクセル(クワッドアクセル)として認定された。
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