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 ♪♪♪ H.Tokuda

僕のおばあちゃん

2017-02-01 23:20:40 | エッセイ


 僕のおばあちゃんはいかにも京女らしい古風な人で、昭和50年代になっても日本髪を結って和服を着ていたし、物の考え方もかなり封建的だった。男と女をまるで別の生き物のごとく区別して考える。また「家」とか「血筋」といったことをやたら重視した。おかげで僕は「この子は我が家の後継ぎやから大事にしとかんと」ということで、他の孫よりも特別に可愛がってもらった。
 妹は「そのうちよそへ行く子」ということで冷たいあしらい。僕ばかりが可愛がられ、妹は今もおばあちゃんのことが大嫌いだ。

 僕がインスタントラーメンを作っていると、「男はんが水屋(台所)へ入ったらあきまへん!」と怒られた。「ラーメンくらい自分で作りなさい」と言った母も一緒に怒られた。食事の作法にもうるさくて、まず最初におかずだけ食べる、ご飯は最後に漬物で食べるという、まるで宴会の席のような食べ方を教える。ご飯とおかずを一緒に食べたり、天ぷらにソースをかけたりする大阪人の母は「下品だ」と虐げられていた。その頃はよく分からなかったが、我が家の嫁姑関係はかなり難しいものだったのだろう。
 ちなみに、おばあちゃんの教育の成果あって、僕は今でもご飯は最後に食べる癖がついている。ご飯の上におかずを乗せて食べるなんてことはしない。ご飯だけ単独で食べるのでコメの味にはけっこううるさい。

 おばあちゃんは火鉢の上でいろんなものを焼いて食べるのが好きだった。干し芋とかスルメとか、いろんなものを焼くのだが、中でも酒粕をあぶって食べるのが大好きで、僕にもたくさん食べさせた。僕が風邪をひくと、アルコール成分がいっぱい残ったタマゴ酒を飲ませた。どうやら僕を酒飲みに育てたかったらしい。

 おばあちゃんは若いころ芸妓をしていて、まだお座敷もそれほど経験がないうちに遊び人の若旦那に見初められて結婚した。その後9人の子供を産んだが、僕の父がその長男である。三味線が得意で、宮川町で若い舞妓さんや芸妓さんに稽古を付けていた。浄瑠璃だか義太夫だかの演奏にも参加していた。年取ってからもお花見シーズンになると、いろんな団体に呼ばれて毎日のように疎水の桜の下で三味線を弾く。僕もよく連れられて行った。
 我が家には今も形見の三味線が3本ある。一応レッスンプロが使っていたものだから、たぶん良い物だと思うのだ。高く売れるんじゃないかと皮算用しつつ、おばあちゃんが化けて出てきたら嫌なので、なかなか手がつけられない。でも、三味線を売ったお金でギターを買うのなら、おばあちゃんも許してくれるんじゃないかと、ときどき甘い誘惑に駆られたりもしている。バンジョーなら三味線に似ているので、もっと良いかな。

 僕のおじいちゃんは江戸時代から続く扇子屋の道楽旦那だった。「店主があくせく働いているような店では信用されへんがな」と勝手な理屈を言っては祇園で遊びまくり、結局店を潰してしまった。おばあちゃん以外にも何人かの女性がいて、そこにもまた子供がいる。二号さんや三号さんが出産するとき、おばあちゃんはご祝儀(慰謝料?)を持って手伝いに行ってたらしい。今ではとても考えられない話だ。
 僕が生まれる前に亡くなっていたので、おじいちゃんとは会ったことないが、写真を見る限り、確かに遊び人らしい顔をしている。その反動か、僕の父やその弟である叔父さんたちは真面目な人ばかり。こういうのって隔世的に似るという話もあるが、どうなんでしょう? まあ、時代が違うので何とも言えないが、なんか、ちょっと憧れたりしてしまう。(笑)

 さて、この写真は僕のお宮参りの様子。我が家の跡継ぎ誕生に、おばあちゃんは大喜びだったらしい。「私が産んだのに、写真を撮る役しかさせてもらえなかった」と、母は今も怒っている。僕が着せられている衣装もおばあちゃんが用意したもの。男児の額に「大」の字を書くのは京都だけの風習だろうか。ちなみに、女児の場合は「小」と書く。
 自分で言うのもなんだが、なかなか賢そうな顔の赤ちゃんだ。(笑) 「末は博士か大臣か」とおばあちゃんは大いに期待を寄せていたらしい。現在僕がギター弾いて遊んでばかりいると知ったら、どんな顔をするだろう。
 「これは私の血筋どす」と自慢するかもしれないな。いや、おばあちゃんの血筋なら、もう少し上手く弾かなければね。ということで、三味線売ってギター買ってもいいですか? おばあちゃん。

思誠寮の思い出(6)

2017-02-01 23:00:41 | 思誠寮の思い出


 思誠寮には女子寮が併設されていた。男子寮ほどではないが、かなりのオンボロで、花の女子大生が暮らしているとはとても思えない殺風景な建物である。
 併設とは言っても少し離れた場所にあり、女子寮生たちは男子寮の食堂まで朝夕の食事をとりにやって来る。また寮祭などのイベントでは、女子寮生は3つのグループに分かれ、南・中・北のいずれかの男子寮生と一緒に活動をした。写真は寮祭での音楽会の風景。このときは女子寮生だけで合唱をしている。
 女子寮生が出入りすると、当然のごとく男子寮生は色めき立つ。特に新入生が入ってきたときには「誰それが可愛い」などといった話題で持ち切りだった。しかし、寮生同士のカップル成立といった事例は意外と少ない。僕は後輩の女子寮生と親しい関係になり、結婚までしてしまったが、こういうのはどちらかと言えば稀なケースだと思う。


 僕が3年生の時のことだ。当時新入生だった彼女は大学から「ほかほか弁当」のアルバイトに直行し、それが終わってから僕の部屋へよく遊びにやってきた。僕は同室者のT君といっしょに、彼女が持って来る残り物の弁当を楽しみに待った。特に夏季休暇中などは寮の食堂が休業となるので、自炊か外食をするしかない。タダでありつける弁当は天からの恵み物みたいに有難かった。
 僕と彼女とT君は、小さなテーブルの上に幾種類かの弁当を広げ、ままごとみたいな感じで、つつましい夕食の時を過ごした。弁当が余ったときには、近くの部屋から友人を招いてお裾分けをした。やがて僕の部屋にはハイエナのような連中が群がるようになり、僕といっしょに彼女の来訪を今か今かと待った。その光栄はまさに、給餌を待つ豚小屋みたいなものだった。

 中には「今日は遅いじゃないか。おまえ、迎えに行って来いよ」と僕に命令する者や、「なんだ、海苔弁か。から揚げとかトンカツはないのかぁ」と贅沢をいう者もいた。まったく自分の立場をわきまえていない。この部屋の主である僕でさえ「弁当屋のバイトのヒモ」という苦しい境遇なのだ。そのまたヒモの分際で偉そうなことを言うとは、誠にけしからん。(笑)
 念のために付け加えるが、僕は残り物の弁当欲しさに彼女と仲良くなったわけではない。その証拠に、彼女が弁当屋のバイトを辞めてしまったあとも、僕と彼女との関係はずっと続いていた。例のハイエナ連中は、ただ弁当だけの繋がりだから、もう僕の部屋へ顔を出すことはなかった。

 同室者のT君はたいへんよくできた人で、彼女が部屋へやってくると三人での会話を適当に楽しみ、頃合いを見計らってはどこか別の部屋へ出向いて、僕たちに二人の時間を与えてくれた。現在彼は某国立大学の教授。何年か前、大津で学会があったときに我が家へ立ち寄ってくれた。三人で食事をしていると、当時のことを思い出し、ほんとに懐かしい気持ちになった。
 思誠寮というアナクロニズムの権化みたいな硬派集団の中にして、僕はひとりの女子寮生と出会ってから、極めて個人的な生活を送るようになった。それでも仲間外れに扱われることなく、楽しい寮生活をシェアさせていただき、今なお親しく付き合ってくれる寮生の仲間たちに深く感謝している。
 今回は女子寮のことを書こうと思ったのだが、女子寮生の生活実態がよく分からず、結局は個人的な話になってしまった。あしからず。
(続く)