ベトナムに関して、知識がなかったのですが、意外な面を知りえた。
ちょっとベトナムの歴史を覗いてみましょう。
ベトナムと聞いて、思い出すのは、ベトナム戦争のことでしょう。しかし、振り返ってみると、ベトナムの歴史は、中国、現在のラオス、カンボジアと国境を接している為に、古来から中国やその他の国との対立と交渉の関係史でもあると考えられます。つまり、常に中国からの侵略におびえ抵抗した歴史であり、ヨーロッパ勢力、インドシナ勢力、中国勢力などとバランスを取って海洋交易にのりだし、国力を発展させた歴史です。
そして、フランス植民地時代を経て、激動の時代に突入している。
日本の進駐(1940年)、日本の無条件降伏後のホーチミンによるベトナム民主共和国独立宣言(1945年)、インドシナ戦争(1946年ー1954年)、ベトナム戦争(1960年ー1975年)、サイゴン陥落(1975年)、ベトナム社会主義共和国樹立(1976年)、カンボジア侵攻(1978年ー1979年)、中越戦争(1979年)と続きます。
また、1986年の第6回党大会で、ベトナム語でドイモイ(刷新)と言われる改革が、政治と経済の改革をめざし、スタートした。
ホーチミン:生誕111年を記念して日本・ベトナム情報交流会から送られた肖像板
現在のベトナムはインドシナ半島に位置する南北に細長いS字型の国で、北緯23度から赤道近くの北緯8度までにおよび、ほぼ山脈と高原地帯からなり、人口(約8,000万人@2002年)は三つの平地地帯に集中しています。
①フォン川(紅河)を中心にした北部の中心都市はハノイ=亜熱帯気候に属し、冬は10℃を下回ることもあるが、夏は30℃以上にもなる。
②アンナン山脈に沿ったハイヴァン峠一帯の中部の中心都市はフエやダナン=気候は北部と似ているが、夏は非常に暑く、また、台風の襲来で洪水などの水害が多い。
③南部の中心はサイゴン=現在はホーチミンであり、その南側にメコンデルタが広がる。熱帯サバンナ気候に属し、年間を通して平均気温は27度前後で、米やトロピカルフルーツと言った農産物生産の中心です。気候の多様性はベトナムの人や物の多様さと共に地域性を豊かにしています。
遠い昔にさかのぼってみよう。->こちらの歴史比較表を参照
ハノイの北西のフート省に雄王廟があり、旧暦3月10日の祭りには50万人以上の人でにぎわいます。雄王廟はベトナムの建国の王、フン・ヴォン(雄王)を祀った廟です。伝承によると、昔、龍と仙女が結婚して100人の息子をもうけた。50人の息子は母の仙女に従い山へ、50人の息子は父に従い平地に残った。平地に残った息子のうち長男が帝位につき、フン・ヴォン(雄王)となった。これがベトナム建国神話の国「ヴァンラン(文朗)国」です。歴代の王はいずれも雄王とよばれ、18代続いた。雄王に関する説は他にも、数々あります(物語ヴェトナムの歴史 小倉貞夫著 中央公論社)。歴代フン・ヴォンに関する物語は、ベトナムの人にとってなじみ深いもので、フン・ヴォンはベトナム建国の王とベトナム人はそう信じ込んでいます。
その文郎国を前257年に甌貉(アウラック)国のアン・ズオン(安陽)王が破り、古螺城を築いたといわれる。その古螺城こそがコロア城であると現在考えられています。コロア城は、ハノイ市内からノイバイ空港へ向かう3号線沿いにあるベトナム初期金属器時代のドンソン文化に属する遺跡です。
フン・ヴォンの伝説は史書から始まるのですが、文朗国は日本の邪馬台国のように、位置も含めて正確なことはよくわかっていない国なのです。その起源は紀元前2880年や、紀元前6世紀頃とかいろいろの説がありますが、18代の歴代王から計算すると紀元前2880年ではつじつまが合わないですね。中国ではよく「中国4000年の歴史」と言われます。その起源は中国史上はじめて黄河を治めた禹が、舜の後をついで、王位につき、「夏」を建国した頃と思われます。紀元前2880年とするとベトナムは中国の歴史より古い国となってしまいます。ベトナム政府がかって、「ベトナム民族4000年の歴史」と言う言葉を謳った時がありました。4000年あまり前に「雄王」が統治する最初の王朝が成立した神話を、大筋で事実を反映したものとみなしたわけです。紀元前2000年紀から北部ベトナムで金属器文化が独自に発生を遂げていたことが考古学の成果により証明されたのを、拡大解釈したことによります。これはかって「日本は神の国」という人々の主張と同じではないかと疑いたくなります。
甌貉国は前208年に南越国に滅ぼされたといわれています。南越国は史書にも出てくる国です。中国では秦の始皇帝が紀元前221年に中国を統一しました。秦は天下統一した後、南越の地を平定し、そこに桂林・南海・象郡の三郡を設置し、統治しました。
その時、南海郡の竜川県県令に赴任して来たのがチョウ・タ(趙佗)でした。勿論、かれは漢人です。
その始皇帝がなくなり、中央では劉邦・項羽が秦を倒し、ついには項羽が覇王(前漢)になったが、まだまだ中国は混乱していました。趙佗は中央の混乱をよそに、桂林と象郡を攻撃し、併合した。これで南越の地はすべて趙佗の支配下に入り、彼は南越の武王と名乗り、勝手に即位しました。南越とは、「臥薪嘗胆」などの言葉で有名な呉越戦争の当事者=越の南に位置する国と言う意味なんでしょうね。広大な国です。
南越国は漢の長沙王といさかいを起こしており、漢兵とも戦っている。その歴史を証明するものが、1973年末、中国湖南省長沙市にある馬王堆三号漢墓より出土しました。また、1983年、中国・広東省広州市で前漢時代の石室墓が発見されました。豊富な出土品が発掘され、調査によって南越国2代君主・趙眛(チョウマイ)の王墓であることがわかりました。出土品の絲縷玉衣(2000年に東京で催された中国国宝展でも展示された)で有名ですね。史書の記述が発掘品などから明らかになってくるのは興味深いです。
南越国は 紀元前111年に漢により滅び、これから939年にゴー・クエン(呉権)の呉朝設立まで約1000年に渡り、中国の支配下に入るわけです。
中部ベトナムのタインホア省を流れるマー河の右岸のドンソン村で、1924年-1939年にかけて大規模な発掘調査が行われ、紀元前1世紀に同定される中国からの到来品と共にヘーガー1式銅鼓が発掘されました。ヘーガー1式銅鼓とはF.ヘーガーが1902年に東南アジア一帯から南中国にかけて発見された165個の銅鼓を4つの形式(下記注1)に分類した中で、最も古いとした形式です。その典型は紀元前5世紀頃の作品と言われているゴックルー銅鼓(下記左写真)です。ヘーガー1式銅鼓に代表される青銅器文化はドンソン文化と呼ばれることになった。ヘーガー1式銅鼓の装飾(下記右写真)の特徴は水鳥の羽をさした男達が大きな船を漕いでいる画です。ドンソン銅鼓の分布(下記中写真)はベトナムだけにとどまらず、東南アジアの川筋に沿った盆地から河岸段丘、スマトラ、ジャワ、ニューギニア、バリ島の東のアロール島、北は中国雲南省まで広がっているのは驚きです。銅鼓は現在も雲南の少数民族のお祭りなどに使われており、益々興味深いです。
銅鼓に代表されるドンソン文化は雲南盆地に発して、放射線状に南中国から東南アジア一帯に広がった説もあります。
一方、ベトナムでもドンソンに遡る青銅器文化の発見から、紀元前2000年頃からフングェン文化、ドンダウ文化、ゴードン文化の3文化が先行していたことがわかってきました。ドンソン文化は紀元前1000年紀の中期に、中国青銅器文化の強い影響のもとに生まれた独自の青銅器文化と
も言われてます。
写真左:ゴックルー銅鼓上面図:高さ63cm 直径79cm 上部には太陽が描かれ、光線が四方に飛散している。16の同心円があり、鋸歯紋が周囲をめぐっている。 BC500-BC400、ハーナム省伝世(歴史博物館パンフレットから)
写真右:ドンブイ銅鼓(ヘーゲルⅡ型):高さ47cm 直径70cm BC100-AD100、タインホア省(歴史博物館パンフレットから)
黒点が発見場所
ヘーガー1式銅鼓の装飾の特徴の例:
動物や鳥の模様,鳥の羽の頭飾りをつけた人々
ヘーガー1式銅鼓:F.ヘーガーが1902年に東南アジア一帯から南中国にかけて発見された165個の銅鼓を4つの形式に分類した中で、最も古いとした形式。
ヘーガー2式銅鼓:頭部と胴部の区別がなく、頭部に蛙の装飾がある。
ヘーガー3式銅鼓:円筒状で脚部のふくらみがない。
ヘーガー4式銅鼓:漢字の装飾があり、比較的低い
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