【教育を巡る論争…延々と繰り返されてきた「経験主義」vs「系統主義」】
一般人が<教育>と聞いて、先ず頭に浮かぶのは「教える」ことだが、これは人類の知識を伝える、という意味のことだろう。しかし、教育現場に携わってきた者から見ると、現在の日本の学校で実際に行われている教育は、似て非なるものという気がする。
教員は常に子どもたちの「教育的効果」を評価しながら業務に取り組んでいる。分かりやすいところでは、教室で「この問題分かる人」と尋ねて挙手する子の割合を見たり、与えた課題にどう取り組むかという姿勢や態度、発言、表情など観察したりして、常にその授業全体を柔軟に組み立てようとしている。少しでも気を抜けば、5分も経たないうちに教室はざわめき、程なく「学級崩壊」する。
学校、特に公教育に対して全くと言ってよいほどに権威を失っている教室では、子どもたちは授業の意義・意味に納得しなければ、立ち歩き、教室から飛び出す。保護者も、教育内容・方法に理不尽な「強制」を感ずれば、躊躇なく抗議してくる。そうした現実を踏まえず、空想的理想主義に冒された「せんせい」が教育現場を失意のうちに去っていくのは、見慣れた風景だ。
小学生の通知表を見る機会があれば、覗いてほしい。どの教科も最初に「興味・関心・意欲」項目が評価の一丁目一番地であることはすぐ分かる。これは、教育現場では何が重要視され、子どもたちの何を育てることに力が注がれているかということを如実に物語っている。となると、冒頭に記した教育現場の実態が浮き彫りになってくるはずだ。
戦後間もない時の「経験主義教育」、バブル期の「ゆとり教育」、そして今流行りの「アクティブ・ラーニング」など少しずつ形を変えてはいるが、古くから「教育」は子どもたちの「生きる力」を育むことを目指してきた。しかし、今は人によって「生きる力」をどう解釈するかが異なっているのに、各自が自分の“常識”が絶対だ、と思い込んでいる。ここに教育を巡る争いが生じ、政治が介入する。その結果、子どもたちの「生きる力」の未来が権力闘争によって左右されているとしたら残念な話だ。現場から離れた教育論は、現場に届かない。
一般人が<教育>と聞いて、先ず頭に浮かぶのは「教える」ことだが、これは人類の知識を伝える、という意味のことだろう。しかし、教育現場に携わってきた者から見ると、現在の日本の学校で実際に行われている教育は、似て非なるものという気がする。
教員は常に子どもたちの「教育的効果」を評価しながら業務に取り組んでいる。分かりやすいところでは、教室で「この問題分かる人」と尋ねて挙手する子の割合を見たり、与えた課題にどう取り組むかという姿勢や態度、発言、表情など観察したりして、常にその授業全体を柔軟に組み立てようとしている。少しでも気を抜けば、5分も経たないうちに教室はざわめき、程なく「学級崩壊」する。
学校、特に公教育に対して全くと言ってよいほどに権威を失っている教室では、子どもたちは授業の意義・意味に納得しなければ、立ち歩き、教室から飛び出す。保護者も、教育内容・方法に理不尽な「強制」を感ずれば、躊躇なく抗議してくる。そうした現実を踏まえず、空想的理想主義に冒された「せんせい」が教育現場を失意のうちに去っていくのは、見慣れた風景だ。
小学生の通知表を見る機会があれば、覗いてほしい。どの教科も最初に「興味・関心・意欲」項目が評価の一丁目一番地であることはすぐ分かる。これは、教育現場では何が重要視され、子どもたちの何を育てることに力が注がれているかということを如実に物語っている。となると、冒頭に記した教育現場の実態が浮き彫りになってくるはずだ。
戦後間もない時の「経験主義教育」、バブル期の「ゆとり教育」、そして今流行りの「アクティブ・ラーニング」など少しずつ形を変えてはいるが、古くから「教育」は子どもたちの「生きる力」を育むことを目指してきた。しかし、今は人によって「生きる力」をどう解釈するかが異なっているのに、各自が自分の“常識”が絶対だ、と思い込んでいる。ここに教育を巡る争いが生じ、政治が介入する。その結果、子どもたちの「生きる力」の未来が権力闘争によって左右されているとしたら残念な話だ。現場から離れた教育論は、現場に届かない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます