情熱親父の心晴天!Part2

風景・イベント・ポートレイト・花・・・etc 何でも好きに撮ります。気ままな中年オヤジです。

首里城 Part1

2012-05-09 00:00:00 | 沖縄旅行シリーズ 風景編

今日は、3日に行った首里城の風景をお送りします。体調が戻らなくて困っています。 あまりのギャップのせいです。暑い所から帰って来たんで、

寒さを感じています。こりゃ、時間がかかるかもです。(笑)

                           階段を上って行きますと、首里城の門があります。 冊封七碑と言います。

 

                           上がってから、一枚。最高のパノラマです。これこそ絶景ですね。

 

                            御覧頂いています通り、小さな瓦屋根の建物から入って行きます。

                            広福門と言います。

 

 正殿(せいでん)は言うまでもなく首里城で最も中心的な建物である。

木造の三階建で、一階は「下庫理(しちゃぐい)」と呼ばれ、主に国王自ら政治や儀式を執り行う場、二階は「大庫理(うふぐい)」と呼ばれ、国王と親族・女官らが儀式を行う場であった。三階は通気を目的とした屋根裏部屋である。

上の写真は、首里森御嶽です。

<首里城>

今年で、復元から20年目を迎える首里城。鮮やかな朱塗りの正殿に代表される絢爛な姿は。琉球王国の華麗なる歴史を今に伝える

象徴です。「本土復帰直後から首里城復元を切望する有志団体【首里城復元期成会】があり、当時から熱心に政府に働きかけしてました。

戦前の首里城を見て育ったお年寄り達の熱い思いから、いかに首里城が県民の誇りの象徴であったかが伝わりましたね」と復元の背景を

話す、首里城復元の時代考証ディレクターで、琉球大学教授の高倉倉吉さん。戦後は守礼門などがすでに復元されてましたが、琉球大学の

西原へのキャンパス移転に伴い、沖縄県が跡地利用の検討を始めた際に「王国の中心、首里全体を風格のある街作りで再現し、その

中核となる首里城を歴史公園として復元する」と決まりました。

 

 

復元の最大のテーマは「いつの時代の首里城を復元するか?」でした。首里城の変遷や古い写真・資料などを検討し、1709年の焼失後、

1712年~15年に再建され首里城が最も栄華を極めた18世紀いこうの首里城をモデルにすると決定。つまり、、誰も直接見た事がない

首里城を復元すると言う難題に挑むことに。そこで二つの大きな手がかりが見つかります。

 

「一つは染色家の鎌倉芳太郎氏が保管していた首里城当時の図面(百浦添御殿普請付御絵図井御材木寸法記)。正殿の柱の数や大きさ

瓦や階段の数などを、当時の役人や絵師が忠実に記したもので、正殿の間取りや王が座る王座の詳細が初めてわかりました。もう一つは、

尚家に残る首里城修繕の際の資料で、使用する木材の種類や大きさ、管理や調達方法も記されていました。」これが大きな自信となり

復元は大きく前進。

 

 

 首里城復元では資料を、様々な角度から検証し、幾つもの謎を解明しながら作業を進行。正殿2階の国王の王座、御差床(うさすか)の手すりが、

実は楕円形だったことや、正殿の鮮やかな朱色が実は約30行程の塗りを重ねていたことなども、縮尺模型の製作や当時と同じ行程を実際に

行って確証を得て来ました。「根拠がないものは復元はしない。」 それが首里城復元における最も重要なルールとなっています。

 

 18ヘクタールの広大な敷地のうち、城壁に囲まれた約5ヘクタールを国営公園とし、それ以外は県営公園として復元された首里城。

 

 「御庭(うなー)」は首里城の中心部である。正面が「正殿」、向かって左(北側)が「南殿・番所(なんでん・ばんどころ)」、右(南側)が「北殿(ほくでん)」で、これらに囲まれた中庭広場の空間を「御庭」という。

年間を通じて様々な儀式が行われた広場である。御庭には磚(せん)【敷き瓦】というタイル状のものが敷かれているが、この色違いの列は、儀式のさいに諸官が位の順に立ち並ぶ目印の役割をもっていた。

中央の道を「浮道(うきみち)」といい、国王や中国皇帝の使者【冊封使(さっぽうし)】等限られた人だけが通ることを許された。

 2000年12月には「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として、世界文化遺産に登録されました。 この事を高良さんは、「復元は新しい観光

スポットとして成功であり、城が蘇る事で城を持つ王国の歴史が物語として解りやすくなり、特に若い世代にアピール出来る。歴史を学びたい

と、思う人も増え、それだけで大きな意義がある。」と語り。県内外の城跡の復元やアジア各国の戦災で失われた文化財復興のモデルケースにも

なると示唆します。

 

  「復元は、単なる入口。資料や儀式に向き合う度に、琉球王国の技術や知識水準の高さ、奥深さに驚かれ、新たな

謎や宿題が次々と生まれる」 琉球王国の壮大なロマンは首里城復元20年経ても序章に過ぎないのかもしれません。

                          以上、「美ら島 沖縄」から首里城の歴史をお送り致しました。

 

       しばらくは沖縄大使の使命をかって出て、沖縄広報を多くの方々に提供して、沖縄観光の一躍を任えれば嬉しいですね。

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