<今帰仁城歴史>
築城された年代は明らかになっておらず、発掘調査によって13世紀末頃から築城が始まったものと推測されている。
城の正殿【せいでん】は残存していないが、標高100mほどにある周囲は川や谷の急斜面となっており防衛上極めて優れた地勢となっている。
見応えがあるのは何と言ってもその城郭である。外周は約1500m、高さ6~10mで自然の地形に沿って巡らされた様は「万里の長城」を想像するに容易である。ここからは城郭の様子が一望できるだけでなく東シナ海と天気が良ければ伊是名島【いぜなじま】から与論島まで見渡すことができる
志慶真門郭 ここには城主に仕えた身近な人々が住んだと考えられます。発掘調査によって4つの建物があったことが解っているそうです。
美しく曲線を描く城壁
美しく曲線を描いているのが特徴です。曲線美をゆっくりとご覧ください。
曲線美と荒削りな石積み
近づくと、曲線美とは対照的に、荒削りな石積みの様子が見えてきます。山から採れる石を利用しているのですが、この石が使われている城は
今帰仁城だけなのです。
この石は、硬くて刃が立たないので、加工せずにそのまま積み上げていくしかありません。
それで隙間が多く荒削りな感じがするわけです。この石を古生代石灰岩と呼んでいます。
それに対し、今帰仁城以外の城では、琉球石灰岩が使われています。柔らかいので加工して組んでいくことができます。
グスクという要塞
琉球では、城とは言わず、グスクと呼びます。グスクに漢字をあてたので城と言うようになったのですが、本当は今帰仁グスクと言うのが正解です。
このようなグスクは琉球に200以上も造られていました。グスクを根城にして、按司と呼ばれる権力者が勢力を拡大していったのです。
その中でも、今帰仁城は最大級の規模を誇っていました。
曲線の城壁を1.5キロメートルもつなげて築いたのですから、今帰仁城の城主は按司の中で、最も力があったといえます。
総面積は甲子園球場の約2倍
今帰仁城の総面積は7万9千平方メートルで、甲子園球場の約2倍の大きさです。沖縄県内では首里城と同じくらいの面積です。
今帰仁城は別名を北山と呼びます。北の小国家の意味です。北山の勢力範囲は、北は奄美大島におよぶ広い範囲でした。
一口メモ
今帰仁城の石積みの方法を野面積み(のづらづみ)といいます。それに対し相方積みや布積みと呼ばれる、すき間のできない積み方があります。
座喜味城はアーチ門で有名ですが、琉球石灰岩は柔らかく加工ができたため、きれいなアーチを造れたわけです。
火之神の祠(ひのかんのほこら) 現在の火神の祠は戦後に改築したものを、整備事業に伴い移築し現在の位置にあります。碑は今帰仁王子朝忠(今帰仁按司十世宣謨)によって、乾隆(けんりゅう)14年に立てられています。乾隆14年は尚敬王(しょうけいおう)37年(1749年)にあたります。碑は現在今帰仁村歴史文化センターに保管展示されています。祠には、第二監守一族の火神が奉(まつ)られ、旧暦8月10日には今帰仁ノロ以下の神人(かみんちゅ)が城ウイミの祭祀(さいし)を現在も行っています。また、今帰仁上りの重要な拝所として参詣者が絶えません。
(県指定有形文化財平成14年1月18日)
上3枚の写真の辺りが
主郭(俗称本丸)
主郭は日本の城郭の本丸にあたる部分ですが、天守閣はありません。標高100メートルで今帰仁グスクの最上部です。
主郭は城主の住居があったところで、山北王と今帰仁監守の住居跡が確認できます。
西側にある案内板は、発掘された陶磁器を、北側にある地層の原寸大写真は、中国伝来の版築を見ることができます。
火の神、今帰仁城監守来歴碑記、石灯籠が、今帰仁監守の盛衰を物語っています。
左の写真が、クバの御獄 と、言います。今帰仁城跡の西にあり、古期石灰岩で出来ている丘陵です。地元ではウガーミと呼ばれる聖域で、年に2回今泊区民によるウブウガン(御願)が行われています。
今年、初の蝶撮り。この後、漫湖公園と言う場所で、沖縄でしか見れない蝶もゲットしてありますよ。
長男と記念撮影です。(笑)
志慶真門郭の見事な城壁を撮っています。
長男が写ってるのは新参道から入口方面を捉えています。
長男シリーズですね。(笑)
これは志慶真門郭の外壁です。
これも祠だと思うのですが、パンフにもネットにも説明がありませんでした。だけど4つの祠のうちの1つには間違いないですね。
明日は、いよいよ美ら海水族館ですよ!世界1位の大水槽に様々な魚やジュゴンが観れますよ。今日も訪問有難うございます。
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