地震による原子力災害への警鐘を鳴らしていた科学者がいた
ということは知っていましたが、
その方が、高木仁三郎さんでした。
1938年7月18日生まれ。物理学者。専門は核化学。東京大学物理学部化学科卒業。
2000年10月8日大腸がんのため、聖路加国際病院で亡くなる。62歳。
核のことを学べば学ぶほど、その危険を知り、警告しておられました。
チェルノブイリ原発事故のときも、調査にいらした。
1961年には日本原子力事業に勤務しておられたけれど、政府や経済界の方針に疑問を持ち、
1974年 東京都立大学を退職して、プルトニウム研究会を組織する。
1975年 原子力資料情報室を立ち上げのちに代表となる。
1988年 反原発運動全国集会事務局長。
2000年に亡くなった後、その遺志により 「高木仁三郎市民化学基金」が設立されNPO法人になる。
1995年 日本物理学会誌に、「地震」とともに「津波」に襲われた際の「原子力災害」を予見しておられた。
「地震によって長期間外部との連絡や 外部からの電力や水の供給が絶たれた場合には、
大事故に発展」するとして、早急な対策を訴えた。
その6年後、2011年3月11日に、東日本大震災・原発のメルトダウンを私たちは経験しました。
福島第一原発の老朽化による耐震性の劣化を、この1995年の時点で指摘。廃炉を訴えていた。
1976年から2000年まで、たくさんの著作によって、警告しておられました。
2001年に『高木仁三郎著作集』が全12巻で刊行。
宮沢賢治がお好きだったという。だから七ツ森書店からの出版が多いのか。
真の科学者とは、、、、、事実を冷静に見極めることが出来る人。
国の安全神話は、もやは崩れ去っています。
高木仁三郎さんの警告を無視し、軽んじて、原発は安全だと、今も言い続けている人もいる。
市民の側に立った、本物の科学者、物理学者・化学者がおられたことを
NHKラジオアーカイブスで知ることが出来ました。感謝。
野尻湖から黒姫山、妙高山、斑尾山が見える (坪井真弓さんからお借りしました)
船からの動画も見せてくださって、遊覧している気分になれました。
夏のキャンプを楽しんだ若き日々を懐かしく思い出しました。