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花ざかりの森

2025-04-13 13:28:22 | 詩歌


花ざかりの森には いつも妖気が立ちこめて
花ざかりの森には とても懐かしい人がいる
戻れるならば戻りたい 二度と帰れぬあの世界
聞くも涙 語るも涙の 十四歳の純情詩集


神隠しの径には いつもそよ風吹き抜けて
神隠しの径には 後ろ姿のあの人が
交わせるならば交わしたい いつか夢見たあの世界
寄せては返す 返せば寄せる 少年少女夏の友


花ざかりの森には いつも光が射し込んで
花ざかりの森には 輝き放つ道がある
話せるならば話したい 言わず仕舞いのあの言葉
届かぬ想い 尽きせぬ想い 寂しがりやの夢語り


胸騒ぎの夜には 空が見事に澄み渡り
胸騒ぎの夜には 星が幾つも降りそそぐ
愛せるならば愛したい 愛の意味などわからずに
いつか会える かならず会える 同じ匂いのあの人に


花ざかりの森には やはり妖気が立ちこめて
花ざかりの森には 忘れられない人がいる
出遭ったこと運命なのか これがドラマの幕開けよ
聞くも涙 語るも涙
聞くも涙 語るも涙 十八乙女の恋愛詩集

桜三月散歩道

2025-03-31 11:47:28 | 日常の素描
「ねえ君」から始まって、「川のある土地へいきたい」といい、
「だって君が花びらになるのは、狂った恋が咲くのは」…とつづき、
「僕も狂い」、「人も狂う」という歌詞がくりかえされるのが、
井上陽水の『桜三月散歩道』だ。
陽水はなんだか凄い詩を書くのだなぁとアルバムのクレジットを見ると、長谷邦夫とある。

このアルバムを聴いたのは高校生の時で、
漫画雑誌もよく読んでいたのですぐに長谷邦夫の名前に気がついた。
「へえ、漫画家さんが書いた詩か…。才能あるんやなぁ」と思ったのだが、
作者のことより、やはりのこの詩の世界の「狂」の方に惹かれた。

その後、大学で仏教学を学ぶようになり「風狂」という言葉を見つけた。
たしか、梶井基次郎の短編だったと思う。
まだ大学2回生頃だったが、ゼミの池見先生に
「この、風狂と言葉は面白いと思うんですが……」と尋ねてみたら、
先生も「面白いね。私も興味があるんだよ」と、幾冊かの本を紹介してくれた。

風狂とは、仏教が本来的に保持している戒律を逸する行為、行動のことで、
おもに禅宗などで語られることが多い。

おれはすっかりこの風狂というものに夢中になり、
1980年秋、京都市左京区の久多で旗揚げした劇団の初公演『神無月奇談』を書いた。
この戯曲は神隠しに遭遇した少年が三年ぶりに戻って来る話を基軸に、
いろいろと狂った物語が盛り込まれた舞台だった。
この戯曲を書いている時に流していたのが「桜三月散歩道」だった。

桜=三音、三月=四音、散歩道=五音の響きは、
俳句や短歌の五音、七音につながるようで全然違う。
しかし、心地よい感触が発語すると残る。
ぜひ声に出してみてくださいな。
さくら・さんがつ・さんぽみち……「さ」行「さ」音のさらさら感がある。
長谷邦夫さんは素晴らしいなあ…と、
戯曲を書いていた京都市北区玄以通近くの安アパートで声を上げたものだった。
このアパートではその後、1980年12月9日の午後、
卒業論文を書いていた時にFM放送でジョン・レノンが銃弾に倒れたニュースを聴くことになる。

季節は三月に戻る。
陽水の「桜三月散歩道」を今年はラジオで流さなかったが、
三月になるとこの歌が頭の中で流れて来る。
歌いながら歩くこともある。
「川のある町へいきたい」が好きだし、
「城のある町へ」と変えてしまうこともある。
「君が花びらになる」は、やはり梶井基次郎の『櫻の樹の下には』を連想する。
20代のおれは梶井基次郎の小説をよく読んでいたのだなぁ。

さて、長い前置きになってしまったが、おれの、上野卓彦の三月はどうだったのか。

年度変わる三月は終焉の時機でもある。
受け持っていたラジオ番組の終わりが重なった。
足掛け六年つづいていたラジオ大阪の「聴いてもらうも他生の縁」が終わり、
エフエム宝塚の「レディースサロン」「バラのくちづけ」が終わった。
その最終収録が重なったので実にあわただしいひと月だった。
さらに四月から新装される番組の準備もあり、睡眠時間もあまり取れないという、
この年齢(六八ね)にしては凄い、いや、ヤバい暮らしぶりだった。

さらに、農業雑誌取材で島根県江津へ出かけたし、
寒くて氷雨が降って田畑の撮影もできなった。
四月からは時間的な余裕ができるだろうと、
大阪公立大学の市民講座に申し込んだのだがこれがフライングで、
三月に二講座が開講されるという事態に直面。
『高島屋と南海電鉄』という魅力的な講座だったので行かないわけにはいかずにきちんと受講。

この忙しい時期であるにも関わらず映画館に足を運んで二本の映画を鑑賞する。
歯科医院にも通う。
そんなことなら飲み会にも参加できないだろうと質問されると、
「いや、それはまた別の話やん」とばかりに、
新番組の打合せ後に南森町の旨い日本酒と肴の店で五合の銘酒をいただき、
3月8日には「箕面ミモザの会」に呼ばれてでワインを飲み、
3月10日には、エフエム宝塚で六月に放送し、イベントも開催する番組打合せで、
温井局長とちんどん通信社の林幸治郎さん、歌手の青木美香子さん、
落語家の桂白鹿さんと谷町六丁目にある、
詩人金時鐘さんの奥さんが経営されている「すかんぽ」で焼酎を飲み、
20日は久々に西天満一座のベーシスト・松ちゃんと天神橋商店街の居酒屋で飲み、
翌日はぷよねこと谷町の立ち飲み屋「マルキン酒店」→「木下酒店」と梯子酒をしている。
むろん、家でも缶ビールと焼酎ロックは毎晩呑む。

一年煩悩の数だけの断酒、百八日断酒を掲げたので、
平均すれば月に九日は呑まない日を設定しなければ達成できないのだが、
三月の飲まない日は四日でした。いかんね。

というわけで、「桜三月散歩道」はやはりどこか狂ったような、
あるいは風狂のような、石川淳の狂風もなかなかいいな、と思いつつ、
今月末〆切だったちんどん通信社特番のラジオ台本初稿を昨日ようやく仕上げて各所に送る。
ラジオ番組としては異例かもしれない10枚を超えるもので、
60分番組だからその程度かもしれんけど、
ともかく、何とか芸術祭に出品するなどと局長が言うので
それ相当に受賞しやすいだろう仕掛けを作ってみた。
でもね、こういうのが本当はいちばんイカンのだよ、仕掛けが。

弘法大師空海さん

2025-03-27 05:59:31 | お勉強

「虚空尽キ、衆生尽キ、涅槃尽キナバ、我ガ願モ尽キナン」


空海は、この宇宙が尽きて、人類も死に絶え、

真理も失われるほどのことになれば、自分の役割もおわるのだと語っている。

つまり、それまでは自分の真理は生き続けると。


こんな空海のことを語るシンポジウムが開催された。

司馬遼太郎「菜の花忌」である。

テーマは「『空海の風景』を読む」。

パネリストに国際日本文化研究センター教授の磯田道史氏、

作家の澤田瞳子氏、宗教学者で相愛大学学長の釈徹宗氏、

作家の辻原登氏、司会はNHKアナウンサーの上田早苗さん。

東大阪市の文化創造館で211日に開催された。


『空海の風景』は小説というより、

司馬遼太郎が物語の中に登場して進む論考、

いや、そこまで硬質のものではないのだが、

空海という一人の天才を追いかけながら解釈していく物語。


それぞれのパネリストの発言で面白かった発言。


◆磯田道史氏:形而上と形而下が両方なければ書けない。

小説家は形而上があってこそ小説が書ける。

しかし世の中には、新幹線のチケットはどこのが安いとか、

あそこの店の方がいいとか、

そういう形而下のことばかり喋る人がいる。

そればっかりだと困るんだよね。

キーワードだと思うのが、「形而上」です。

例えばコップに水が入るのは「形而下」で、

これを光にかざし、

「なんで透明で光ると美しいんだろう」

と考えるのが「形而上」。

この小説が書かれたのは、オイルショック前後です。

戦後ひたすら形而下の物的豊かさを追ってきた日本が一段落した時、

司馬さんは形而上のことをもう一度、考えたくなったんじゃないか。


◆辻原登氏:空海が室戸岬に行くところよりも、

さらに僕がおもしろいと思うのは、

司馬さんが天王寺動物園に行くところです。

《この稿を書くほんの三時間ばかり前、

私は大阪の肥後橋の食堂で、

野菜をすりつぶしてカツレツ風に揚げたという

あまり見なれない食べものを皿にのせ、

すこしずつ切っては食っていたのだが、

それとは何の脈絡もなく、

不意に孔雀を見たいとおもい、立ってしまった》

不思議な文章があいだに入って、

それがまたおもしろい。

孔雀というのは、まさに密教の基本、大日如来に通じます。


◆釈徹宗氏:無人島へ一冊持っていくなら『歎異抄』

と答える司馬遼太郎さんは浄土真宗の門徒でもあったが、

それが空海を書いたというところがすごい。


どのパネリストの意見も特徴があって面白かった。


いずれにしても空海という一人の天才が平安末期の日本にいて、

中国へ留学しながら20年の予定を3年で切り上げ、

帰国したことの意味がよくわかった。

このシンポジウムの模様は、

419日の土曜日14時から、NHK Eテレで放送予定だそうです。


みどりの窓口

2025-03-16 18:33:39 | お勉強
JR西日本の「みどりの窓口」がどんどん消滅していっている。
いつもJR東西線の大阪天満宮駅か、大阪環状線の森ノ宮駅の窓口を利用していたのだが、
相次いで閉店してしまい、主要駅である大阪駅や天王寺駅まで行かないと窓口がない。
ネットや自販機で購入すればよいということなんだろうけど、
おれは「乗車券類購入申込書」というパラフィン紙みたいなペラペラの紙に
あれこれ書き込んで買うのが好きなのだ。

【特急・急行券】と見出しが付いたその紙には「日付」「区間・時間」「列車名」、
指定席かグリーン車か、禁煙か喫煙ルーム付近か、喫煙か、窓側か通路側かを記入する「設備」、
そして「お名前」「電話」、おとな○枚・こども○枚、割引、
お支払方法として現金かクレジットカードかなどの欄がある。
用紙の一番下に「自由記入欄(その他ご希望をお書きください)」
という欄があるのが実に嬉しいのである。
これがあるからこのペラペラ紙を使いたいともいえる。
この「自由記入欄」におれは何を書き込むのかといえば、例えばこんな具合。
「新山口発の特急スーパーおきの座席は、進行方向に向かって左側、海側の窓側席を希望」
などと書くのである。
ネットで買えば、映画館の予約みたいに座席表から好きな席を選ぶことができるのだろうが、
紙にペンで書き込みたいのだから仕方がない。

今回は島根県江津までの切符を手に入れようとしていて、2通りの行き方があった。
①新大阪/山陽新幹線のぞみ⇒岡山/特急やくも⇒出雲市/特急スーパーおき⇒江津
②新大阪/山陽新幹線さくら⇒新山口/特急スーパーおき⇒江津

到着時間が異なるのである。
①の場合は、正午を過ぎた頃に江津に到着し、②は正午前に到着する。
そのかわり、当たり前のことだが自宅出発時間は②が早い。
新大阪駅を午前6時25分に出発する「さくら541号」に乗らなければならないから、
大阪メトロ谷町線天満橋駅から大日行きには6時前に乗車しなければ間に合わない。
もっともおれは5時台のもっと早い地下鉄に乗り込むから焦る必要はない。

②にしたのは当然のことながら、新山口駅を出た特急スーパーおきが益田駅まで山間部を走り、
そこから浜田駅を経由して江津駅まで海岸線を走る約60キロのコースがあるからだ。
「紺碧の日本海、長々と続く白砂の浜、荒々しい断崖の磯…」ネットにそんな惹句が踊る。
山陰本線で屈指の海岸線を誇る沿線だ。
おれは、新山口駅から益田までは2019年7月14日から16日まで出かけている。
Sさんの自叙伝の取材旅行だ。
益田駅前の澤江旅館という駅前旅館に投宿し、
近くにある町中華の店でやきそばと瓶ビールの夕食を取った。
益田駅のすぐ前にドラッグストアがあって、
ここは、時々おれがビタミン剤の棚つくりで行く”W”だ。
この店に立ち寄り、ビタミン剤の棚を確認した。
空箱対応の薬剤はほぼ正確にシールが貼られていたが、
箱の角が丸くなって古びていたのが気になったりした。
職業病?ちがうちがう。遊び感覚で見ているのだ。
この店で夜に飲むための日本酒を買ったはず。

江津にはかなり以前にぷよねこと旅をして江津駅前のビジネスホテルに泊まり、
翌朝三江線に乗って広島まで行き、呉線に乗って呉駅へ。
その後、快速列車などを使って大阪まで戻って来た旅をした。
いつのことだったのか、これは日付を詳しく覚えている、
あるいは日記に付けているぷよねこに質問しよう。

いずれにしてもおれは、江津駅から益田駅までの区間は未踏破なのだたぶん。
というのも、相当以前、高校時代、鉄道愛好家の友人で、
もう名前も忘れてしまった男と山陰本線を京都から下関まで乗車したようなのだ。
この記憶が完全に飛んでしまっている。高校1年?2年?よくわからない。
ラグビーの部活が休みのときだろうから夏休みだろうか。
本当に記憶が曖昧だ。
大学時代にも、長髪のKという滋賀堅田の寺の息子と能登半島の一部を歩いたことがあった。
輪島から歩き始め、曽々木を越えたあたりで軽トラックに拾われて、
結局、どこか小さな町の民宿に泊まった。
翌朝、珠洲市まで歩いて……その後、どうしたのか記憶がない。
ちゃんと記録をつけておくべきだった。

それはともかく、今回の益田駅から江津駅までの海岸線ルートが愉しみなのだ。
江津駅でレンタカーを借りる算段であったが、
農業職員のクルマに同乗させてもらうことになり、借りなくて済んだ、運転しなくて済んだ(笑)
クルマの運転がなければ一杯呑める。
昼間からは呑まないよ。
仕事が終わって江津駅前の食堂でビールに揚げ物、熱燗に刺身だ。
さて、あとはお天気だけである。
まだ桜の季節ではないけど春分の日に近い頃なので、
もう山陰地方も春が訪れていることだろう…って春の雪だったりして。
あるいは春雨じゃ~だったりして。

追記:春雷ならぬ、雪の予報が出ているではないか……(泣)

ロックミュージシャンはタバコをやめたことを自慢してはいけない

2025-03-15 08:25:42 | 日記

煙くて、いがらっぽくて、
友人いわく「煙草の煙を身に纏っているような気分」になる映画を観ながら、
「タバコをやめてごらんよ、声がよく出るようになるよ」と1970年代前半だろうか、
インタビューで応えていたのがボブ・ディランだったことを思い出した。
その言葉は音楽雑誌に載っていたもので、ここ数日、本棚に正対して探し続けたのだが、
おそらく以前少しだけ在籍した京橋にあった映像制作会社の書棚に置き忘れてきていて、
その会社もすでに引っ越したからその雑誌もおそらく捨てられているだろう。
何年の何月号か憶えていないからネットで古書を探す手立てもない。
1970年代前半のその雑誌すべてを買い漁って調べるといいのだろうけど。

ディランはこんなことを言っている。
ポール・マッカトニーは「努力せずに曲を書き上げているように思えるところがすごい」と。
裏返せば、自分は作曲するのが苦しくて、努力ばかりしていると。
ポールの凄さは、ジョン・レノンとは真逆的な印象があるのだが、
いたって自然に旋律が彼の身体から出てきているように思える点で、
バート・バカラックなどにもそのイメージがある。
だが、ボブ・ディランは懸命に曲作りをしている印象があり、
それは映画『名もなき者』でも描かれていたように、
朝、眼が覚めると裸のままギターを抱きかかえている点に象徴されている。
とにかくいつも楽曲と詩で頭は埋め尽くされている。
ギターを持てば何か出てくるのではないかと思っている。
同じように、四六時中ギターを抱えていたミュージシャンにジェフ・ベックがいる。
ただ、ディランと違ってベックの場合、
ギターは玩具のような、ヨーヨーのような、万華鏡のようなものかもしれない。
作曲したり新しいフレーズを生み出すためのストラトキャスターではなく、
あくまで玩具。だが、ディランは真面目で神経質で、どこか痛々しい。

曲を生み出すのに苦悩し、苦心している場面がディランには似合う。
その都度、せわしなくタバコをふかす。
だが、ポール・マッカトニーが作曲している場面を空想すると、
苦悩している顔とか、起き抜けに楽器に触るとか、タバコに火をつけるというシーンが思い描けない。
ジョン・レノンの場合ならいくらかそのテイストはあるような気がするのだが……。

ディランは去り行く恋人に火のついたタバコをフェンス越しに渡す。
彼女と一緒にタバコを吸った過去の場面を再現させるためなのかもしれない。
こうしておれたちは一緒にタバコを吸ってきたじゃないか…と言いたいのかもしれない。
だが、彼女は去っていく。
去って汽笛を鳴らすフェリーボートに乗り込んでしまう。

ディランがステージの袖でもギターを抱えてタバコを吸っているシーンが何度か登場した。
周囲でも喫煙者が多い。
おれが個人的に注目していたアル・クーパーが吸っている場面はなかった。
アル・クーパーはその後、Blood Sweat and Tearsを結成して、
「子供は人類の父である」という教訓めいたタイトルのアルバムを出し、
1枚きりで脱退したか、メンバーから放り出されたかして、
今度は、ブルーステイストのアルバムを出す、
といった、さまよえる人のような印象があって気まぐれに追いかけている。
1944年生まれだから申年だ。

さらに脇道に逸れるが、ディランがユダヤ人であることは周知のとおりだが、
"Like a Rolling Stone"のレコーディング・スタジオにギターを弾きに来て、
「ギターは間に合ってるよ」といわれて、
「ほんなら、キーボード弾いてええか?」
と聞くまでもなく鍵盤の前に座り、メンバーにスイッチを入れてもらい、
かろやかに弾きだすのがアル・クーパーで、彼もユダヤ人である。
そして、ギターのマイク・ブルームフィールドもユダヤ系である。

"Like a Rolling Stone"、アルのキーボード、なかなかいい味を出してる。

ところでナチス政権は、1933年のヒトラー内閣成立から「反タバコ運動」を開始している。
ヒトラー自身、かなりのヘビースモーカーだったようだが、カネの無駄遣いだと禁煙する。
妻や側近、ゲーリングなどが喫煙することを不満に思うようになった。
そして、「ドイツにタバコを持ち込んだのはユダヤ人だ」というようになる。
また、現代でもよく使われる、「受動喫煙=Passivrauchen」という言葉を造語したのはナチス・ドイツである。

ナチスのこの嫌煙運動と、1960年代中葉を描いた『名もなき者』での喫煙シーン、
ユダヤ人ミュージシャンの登場は無関係だとは思うが(ジョーン・バエズはメキシコ系でしたね)、
とにかく映画全体がタバコの煙に覆われているように思えたので、そんなことを考えた。
そして、冒頭に書いたディランのインタビュー発言、
「タバコをやめてごらんよ、声がよく出るようになるよ」。
ディランの声が1970年以降、「よくなった」と思う人は少ないのではないかと思うが、
果たしてディランは本当にタバコをやめたのだろうか。
その後のステージをネットで観ているけど、声はあまり変わっていないように思う。
♪~フォーエヴァー ヤーング~♪っていう歌声もやはりあの声だ。
禁煙していないのかも。
あるいは、「タバコをやめてごらんよ、朝の目覚めがよくなるよ」と応えていたのだろうか。

ミュージシャンに限らず、多くの人間がタバコを吸っていた。
昭和の時代、駅や病院の待合室、飛行機・列車の中でも喫煙できた!
と面白おかしく当時の写真などを挙げて紹介されているが、
電車のプラットホームでタバコを吸って線路に投げ捨てるなんて平気でやっていた。
いつ頃までだろうか。調べてみたら1978年頃から禁煙・嫌煙運動が始まったそうだ。
その頃から禁煙する人が増えてきた。
昭和41年(1965)の日本の喫煙率は83.7%だったものが、令和の現在は15.7%である。
「禁煙しました」と発言する芸能人が登場するようになったのは21世紀に入ってからくらいだろうか。
おれがよく憶えているのは、北野武さんが禁煙して、
テレビ番組のエンディングで大竹まことさんと喫煙所でエピローグを語る場面。
それまで二人一緒にタバコをくゆらせていたのに、ある日を境に武さんがタバコをやめ、
それでも喫煙所に来て、タバコを取り出した大竹さんに
「まだそんなもん吸っているのか!」と笑いながら言ったシーン。

それ以前に、読売テレビの「パペポTV」で、
当初は上岡龍太郎さん、笑福亭鶴瓶さんもタバコを吸いながらトークをしていたのが、
やがて鶴瓶さんが禁煙し、
二人の間に置かれていた缶の灰皿が、喫煙の上岡さんの方だけに半分に曲げられ、
やがて鶴瓶さんに進められてジョギングを始めた上岡さんも禁煙したのを、
時々観ていたので知った。
テレビを通じて禁煙した人を知って行ったのである。

ミュージシャンでもタバコをやめた人はいる。
だが、ロックやR&Bの音楽家には、
タバコをはじめ、アルコール、ドラッグ、セックスといったキーワードがいつも身近にあるような、
それはプラスなのかマイナスなのかよくわからないが、
ロック・ミュージシャンが
「酒は飲めないんです、タバコも吸いません、あの煙に弱くて……」というのが、
今ではそれでも十分あり得るけど、
1960年代から80年頃までは「おまえ、変わってるなぁ」というイメージだったのだ。
だから、もしタバコをやめても「禁煙に成功しました!」というミュージシャンは少なかった。
いや、禁煙したら黙っておくのが定番だった。
聞かれると、「いま、喉の調子がよくなくて控えている」みたいな答え方をした。
あがた森魚さんだったと思うが、タバコについて聞かれて、
「体質的にタバコは合わないんです」
と答えていたのを読んで、当時、喫煙者だったおれは、
自分が体質的にタバコに合う人間で良かった、
なんて思ったりしていた。
だが、1978年の嫌煙運動がスタートしてからだろうか、
いや、もう少し後、
1990年代になった頃から「ようやくタバコをやめることができたんです」という者が登場してきた。
本人は、時代の風を読んで禁煙社会が理想的な在り方だと考えての発言だろうけど、
これはどうかな、とおれは思う。
タバコをやめることがいけない、ミュージシャンらしくない、ロックではない、なんていうのではない。
声を職業の主軸にしている人ならタバコは天敵といってもいい存在かもしれない。
だが、「タバコをやめた」とちょっと自慢気に、
「どうだ」というニュアンスを含んだ発言にはかすかな抵抗がある。
少なくともロック・ミュージックを糧として生きているのであれば、
反体制的姿勢とはいわない、打ち解けなさとでもいうのか、
反迎合、非迎合な姿勢で生きているのはいいのではないかと思う。
もちろんこれが昭和的な発想であることは承知している。
「令和の世の中でっせ、今は。
そんなドグマみたいな、裏返せばド根性論みたいな考え方、
ロックは反体制だなんて、時代からの落ちこぼれだっせ」
といわれても仕方がないと思っている。
しかし、禁煙したことを自慢だけはしてほしくない。

鮎川誠さんも禁煙したミュージシャンだったが、
彼は、娘から「タバコを吸うってカッコ悪いよ」と言われてやめたと語っていた。
こういうのはなんかいい。

『名もなき者』を観て思ったことを書きましたとさ。