煙くて、いがらっぽくて、
友人いわく「煙草の煙を身に纏っているような気分」になる映画を観ながら、
「タバコをやめてごらんよ、声がよく出るようになるよ」と1970年代前半だろうか、
インタビューで応えていたのがボブ・ディランだったことを思い出した。
その言葉は音楽雑誌に載っていたもので、ここ数日、本棚に正対して探し続けたのだが、
おそらく以前少しだけ在籍した京橋にあった映像制作会社の書棚に置き忘れてきていて、
その会社もすでに引っ越したからその雑誌もおそらく捨てられているだろう。
何年の何月号か憶えていないからネットで古書を探す手立てもない。
1970年代前半のその雑誌すべてを買い漁って調べるといいのだろうけど。
ディランはこんなことを言っている。
ポール・マッカトニーは「努力せずに曲を書き上げているように思えるところがすごい」と。
裏返せば、自分は作曲するのが苦しくて、努力ばかりしていると。
ポールの凄さは、ジョン・レノンとは真逆的な印象があるのだが、
いたって自然に旋律が彼の身体から出てきているように思える点で、
バート・バカラックなどにもそのイメージがある。
だが、ボブ・ディランは懸命に曲作りをしている印象があり、
それは映画『名もなき者』でも描かれていたように、
朝、眼が覚めると裸のままギターを抱きかかえている点に象徴されている。
とにかくいつも楽曲と詩で頭は埋め尽くされている。
ギターを持てば何か出てくるのではないかと思っている。
同じように、四六時中ギターを抱えていたミュージシャンにジェフ・ベックがいる。
ただ、ディランと違ってベックの場合、
ギターは玩具のような、ヨーヨーのような、万華鏡のようなものかもしれない。
作曲したり新しいフレーズを生み出すためのストラトキャスターではなく、
あくまで玩具。だが、ディランは真面目で神経質で、どこか痛々しい。
曲を生み出すのに苦悩し、苦心している場面がディランには似合う。
その都度、せわしなくタバコをふかす。
だが、ポール・マッカトニーが作曲している場面を空想すると、
苦悩している顔とか、起き抜けに楽器に触るとか、タバコに火をつけるというシーンが思い描けない。
ジョン・レノンの場合ならいくらかそのテイストはあるような気がするのだが……。
ディランは去り行く恋人に火のついたタバコをフェンス越しに渡す。
彼女と一緒にタバコを吸った過去の場面を再現させるためなのかもしれない。
こうしておれたちは一緒にタバコを吸ってきたじゃないか…と言いたいのかもしれない。
だが、彼女は去っていく。
去って汽笛を鳴らすフェリーボートに乗り込んでしまう。
ディランがステージの袖でもギターを抱えてタバコを吸っているシーンが何度か登場した。
周囲でも喫煙者が多い。
おれが個人的に注目していたアル・クーパーが吸っている場面はなかった。
アル・クーパーはその後、Blood Sweat and Tearsを結成して、
「子供は人類の父である」という教訓めいたタイトルのアルバムを出し、
1枚きりで脱退したか、メンバーから放り出されたかして、
今度は、ブルーステイストのアルバムを出す、
といった、さまよえる人のような印象があって気まぐれに追いかけている。
1944年生まれだから申年だ。
さらに脇道に逸れるが、ディランがユダヤ人であることは周知のとおりだが、
"Like a Rolling Stone"のレコーディング・スタジオにギターを弾きに来て、
「ギターは間に合ってるよ」といわれて、
「ほんなら、キーボード弾いてええか?」
と聞くまでもなく鍵盤の前に座り、メンバーにスイッチを入れてもらい、
かろやかに弾きだすのがアル・クーパーで、彼もユダヤ人である。
そして、ギターのマイク・ブルームフィールドもユダヤ系である。
"Like a Rolling Stone"、アルのキーボード、なかなかいい味を出してる。
ところでナチス政権は、1933年のヒトラー内閣成立から「反タバコ運動」を開始している。
ヒトラー自身、かなりのヘビースモーカーだったようだが、カネの無駄遣いだと禁煙する。
妻や側近、ゲーリングなどが喫煙することを不満に思うようになった。
そして、「ドイツにタバコを持ち込んだのはユダヤ人だ」というようになる。
また、現代でもよく使われる、「受動喫煙=Passivrauchen」という言葉を造語したのはナチス・ドイツである。
ナチスのこの嫌煙運動と、1960年代中葉を描いた『名もなき者』での喫煙シーン、
ユダヤ人ミュージシャンの登場は無関係だとは思うが(ジョーン・バエズはメキシコ系でしたね)、
とにかく映画全体がタバコの煙に覆われているように思えたので、そんなことを考えた。
そして、冒頭に書いたディランのインタビュー発言、
「タバコをやめてごらんよ、声がよく出るようになるよ」。
ディランの声が1970年以降、「よくなった」と思う人は少ないのではないかと思うが、
果たしてディランは本当にタバコをやめたのだろうか。
その後のステージをネットで観ているけど、声はあまり変わっていないように思う。
♪~フォーエヴァー ヤーング~♪っていう歌声もやはりあの声だ。
禁煙していないのかも。
あるいは、「タバコをやめてごらんよ、朝の目覚めがよくなるよ」と応えていたのだろうか。
ミュージシャンに限らず、多くの人間がタバコを吸っていた。
昭和の時代、駅や病院の待合室、飛行機・列車の中でも喫煙できた!
と面白おかしく当時の写真などを挙げて紹介されているが、
電車のプラットホームでタバコを吸って線路に投げ捨てるなんて平気でやっていた。
いつ頃までだろうか。調べてみたら1978年頃から禁煙・嫌煙運動が始まったそうだ。
その頃から禁煙する人が増えてきた。
昭和41年(1965)の日本の喫煙率は83.7%だったものが、令和の現在は15.7%である。
「禁煙しました」と発言する芸能人が登場するようになったのは21世紀に入ってからくらいだろうか。
おれがよく憶えているのは、北野武さんが禁煙して、
テレビ番組のエンディングで大竹まことさんと喫煙所でエピローグを語る場面。
それまで二人一緒にタバコをくゆらせていたのに、ある日を境に武さんがタバコをやめ、
それでも喫煙所に来て、タバコを取り出した大竹さんに
「まだそんなもん吸っているのか!」と笑いながら言ったシーン。
それ以前に、読売テレビの「パペポTV」で、
当初は上岡龍太郎さん、笑福亭鶴瓶さんもタバコを吸いながらトークをしていたのが、
やがて鶴瓶さんが禁煙し、
二人の間に置かれていた缶の灰皿が、喫煙の上岡さんの方だけに半分に曲げられ、
やがて鶴瓶さんに進められてジョギングを始めた上岡さんも禁煙したのを、
時々観ていたので知った。
テレビを通じて禁煙した人を知って行ったのである。
ミュージシャンでもタバコをやめた人はいる。
だが、ロックやR&Bの音楽家には、
タバコをはじめ、アルコール、ドラッグ、セックスといったキーワードがいつも身近にあるような、
それはプラスなのかマイナスなのかよくわからないが、
ロック・ミュージシャンが
「酒は飲めないんです、タバコも吸いません、あの煙に弱くて……」というのが、
今ではそれでも十分あり得るけど、
1960年代から80年頃までは「おまえ、変わってるなぁ」というイメージだったのだ。
だから、もしタバコをやめても「禁煙に成功しました!」というミュージシャンは少なかった。
いや、禁煙したら黙っておくのが定番だった。
聞かれると、「いま、喉の調子がよくなくて控えている」みたいな答え方をした。
あがた森魚さんだったと思うが、タバコについて聞かれて、
「体質的にタバコは合わないんです」
と答えていたのを読んで、当時、喫煙者だったおれは、
自分が体質的にタバコに合う人間で良かった、
なんて思ったりしていた。
だが、1978年の嫌煙運動がスタートしてからだろうか、
いや、もう少し後、
1990年代になった頃から「ようやくタバコをやめることができたんです」という者が登場してきた。
本人は、時代の風を読んで禁煙社会が理想的な在り方だと考えての発言だろうけど、
これはどうかな、とおれは思う。
タバコをやめることがいけない、ミュージシャンらしくない、ロックではない、なんていうのではない。
声を職業の主軸にしている人ならタバコは天敵といってもいい存在かもしれない。
だが、「タバコをやめた」とちょっと自慢気に、
「どうだ」というニュアンスを含んだ発言にはかすかな抵抗がある。
少なくともロック・ミュージックを糧として生きているのであれば、
反体制的姿勢とはいわない、打ち解けなさとでもいうのか、
反迎合、非迎合な姿勢で生きているのはいいのではないかと思う。
もちろんこれが昭和的な発想であることは承知している。
「令和の世の中でっせ、今は。
そんなドグマみたいな、裏返せばド根性論みたいな考え方、
ロックは反体制だなんて、時代からの落ちこぼれだっせ」
といわれても仕方がないと思っている。
しかし、禁煙したことを自慢だけはしてほしくない。
鮎川誠さんも禁煙したミュージシャンだったが、
彼は、娘から「タバコを吸うってカッコ悪いよ」と言われてやめたと語っていた。
こういうのはなんかいい。
『名もなき者』を観て思ったことを書きましたとさ。