かつて銀昆で…

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美貌の青空

2021-03-30 14:56:35 | 日記

坂本龍一にこのタイトルの楽曲がある。歌詞もついている。1995年に発表された坂本さんのアルバム『スムーチー』収録曲で、ご自身が歌っている。映画『バベル』(2006)でも使われた曲だ。いい曲だと思う。”美貌の青空”という題名に魅力を感じる。

だがこのタイトルは坂本龍一オリジナルではない。もともと”美貌の青空”とは、暗黒舞踏の祖である土方巽氏の著書名だ。1987年1月21日に筑摩書房から出版されたもので、生前土方が書いた短文やメッセージを編んだ一冊である。土方氏は出版の前年、1986年1月21日に肝硬変・肝臓がん併発で亡くなった。つまりその死のちょうど一年後に上梓された本なのだ。

”美貌の青空”という題名はこの本のなかにある一文に由来している。それは美術家の清水晃氏について書かれたもののなかに登場する言葉だ。土方独特のシュールでありながらも、どこか懐かしい日本の原風景を感じさせる文体文章によって綴られるそのなかに、突如、さりげなく、しかしそこだけ輝くようにこの言葉”美貌の青空”が現れる。それを発見したのは吉岡実であった。詩人はこの言葉に敏感に反応した。

”美貌の青空”とは、なんと不思議な広がりを持つ言葉であろうか。この五文字だけで一編の詩である。

土方巽氏が生まれ育った裏日本の空は曇っていることが多かったのだろうか。そうだとすれば、時折のぞく”青空”は”美貌”であったに違いない。”美貌の青空”を見上げた土方巽は、秋田工業高校のラガーであったという。大柄ではないからバックスだっただろうと想像する。足のすばしっこい、相手をかわすのが上手なバックスだっただろう。敵陣からすれば、いやなタイプの選手だ。「タックルしようとしたんだけど、スルリと抜けられた。まるで浮いている、いや、磁石の同じ極みたいに、自然に離れるんだ」そんなことを、相手のロックあたりの選手はいうかもしれない。

ラグビー少年が見た北国の青空。そこに”美貌”という言葉を持ち運んでくる土方巽の詩人感覚はすばらしい。そして、それに感応して美しい旋律をつくりだす坂本龍一に感動する。


三好豊一郎の夏

2021-03-26 23:52:29 | 日記

三好豊一郎の「トランペット」という詩の中にこんな一節がある。

 

“――夏よ、とびちる火の斑点の夏よ、

ひまわりのすがれた花のかげに埋葬される痩せおとろえた老人たちの夏よ!”

 

八王子で煙草屋を営んでいた三好豊一郎さんを吉増剛造氏が尋ねた話を、

現代詩文庫『三好豊一郎詩集』の作品論・詩人論に書いている。

それを読んでぼくも八王子に出掛けたことがあった。

2000年の夏のことだ。

すでに煙草屋はなかった。探せなかった。

だが、そこは駅前からすぐのところなのに狭い路地が縦横し、

迷路のようでぼくは迷った。

汗がしたたり落ちるほどに暑かった。

三好さんは夏の詩人なのか。

 

“――夏よ、みじめな陽物崇拝者のうごめく夏よ、

警官が叫び、群集がわめき、子供がうたう夏よ!”

 

おそらく昭和の、戦争が終わってすぐの頃の夏に三好さんは生きている。

その夏は、いくつかの遺伝子を残しながら今の時代にまでつながっている。

だが、もちろん遺伝子のことなど誰も知る由もない。

分母は夏だけ。

平安の夏も、室町の夏も、江戸の夏も、大正の夏も、夏は夏である。


スーザン・ソンタグの本

2021-03-26 23:46:46 | 日記

『スーザン・ソンタグの「ローリング・ストーン」インタビュー』を読み返している。


ジョナサン・コットがインタビューというより、二人の対話だ。


いろいろな世界のことを語っているのは、それがスーザンの世界だからだろう。



──あなたは世界のなかにいて、あなたのなかに世界がある。

そう、自分は世界に注意を払っている。そう感じている。自分ならざること、その存在とありようを強く意識しているし、並々ならぬ興味がある。それらを理解したいし、そちらに惹きつけられていく。

対話は映像を見てるようで楽しい。


『古文書返却の旅』

2021-03-22 13:32:06 | 日記

 戦後の混乱期、水産庁が日本各地の漁業史関連の古文書を集め、資料館を設立しようというプロジェクトが始まった。そこに関わったのが歴史学者の網野善彦さんだ。

 職員が全国各地に散らばり、古文書を収集し、それを整理して、筆写するというものだ。そして借りた古文書は持ち主に返却するというはずだった。

 しかしこのプロジェクトは中断してしまう。そのとき、主体となっていた日本常民文化研究所に集められた古文書は、およそ百万点。資料館の設立自体がご破算になってしまったから、その貴重な資料はリンゴ箱に入れられたまま放置されてしまう。

 網野さんはそれに対して心痛め、少しずつ返却することを決意する。いくらかの寄贈はあったものの、百万点の資料である。

 網野さんはこの作業に40年の歳月をかけて取り組んでいく。その模様がこの本に記述されている。

 返却は苦難の旅になると覚悟した網野さんだが、古文書を持って恐々と低姿勢で現地に向かい、相手に説明すると、「これは美挙です。快挙です。今まで文書を持っていって返しにこられたのはあなたがはじめてです」という言葉を返される。読んでいて感動してしまう。

 霞ヶ浦、瀬戸内海の二神島、能登半島、若狭、対馬と旅が続く。そこで網野さんは、その古文書を借りた当時のことを思い出す。

 何十年かの時が流れて、借りた当時の風景、漁業、現地の暮らしが大きく変貌していることに気づく。豊かな自然が失われ、利便性という名の一種の破壊行為が遂行され、文化が消滅していることに網野さんは悄然とする。

 だが、返却するために訪ねた先で、また新たな古文書が見つかる。網野さんはそこからまた始まるものがあると実感する。終わったと思ったところから始まった新たな旅である。

 網野さんという方は、こつこつと誠実に動き回った人物なのだろう。文章からその人柄がうかがい知れる。苦渋や悔恨もあるはずなのに、それらは一切浮かび上がってこない。

 良い本である。昭和の日本の澄んだ青空が見えてくる気がした。


「妖」という文字から

2021-03-22 13:20:49 | 日記

 平凡社新書『白川静入門』(小山鉄郎著)に、非常に興味深い一節がある。それは「夭」という文字だ。

 この字は「夭折」や「夭逝」といった若くして死んでしまった者を惜しむように遣われるが、「夭」には、若い巫女さんが神との交信・交感によってエクスタシー状態になって身をくねらせて舞い祈るという意味があるという。で、身をくねらせるゆえに「若い」ということになり、早世となる。また、災いのことを「殀」というので、「夭」にも同じ意味がある。

 この「夭」は、「笑」という字にも入っている。

 「笑」とは、やはり若い巫女さんが両手を挙げて踊る様のことで、竹かんむりは「両手」を表しているというのだ。舞い踊る若い巫女さんは、神様の意思を和らげるために両手をひらひらさせ、「笑って」神様を楽しませると。さらにこの「笑」という文字は「咲」と関連していて、古代は「咲」と「笑」は同じ文字だったという。「花が咲く」と今は言うが、昔は「花が開く」と言ったようで、「花が咲く」という表現は新しいそうだ。 

 また、「妖怪」の「妖」の字にも「夭」が入っているが、「妖」の正字は「女へんに、草かんむり、その下に〈夭〉」というもので(辞書にないのです)「笑」の元の字形だとも。「夭」の字は、あでやかな女性の姿を表すことから、「妖艶」や「妖美」などの言葉が生まれた。

 原稿を書いていて「妖」の文字がふと出てきて、そのまま横道に逸れてしまうといういつもの寄り道でした。