この本を読んだのは1983年のことだ。1982.7.30の11刷、1500円の新刊で購入した。悪戦苦闘しながら26歳の僕は読んだ。この鬼シュルレアリズムの高湿気と破滅の物語は、当時やっていた芝居にそのカケラも映すことが出来なかった。百年という言葉だけを盗用して「風屋敷百年物語」という、雨が降り続く日本家屋の不義の物語を書いたが評価されなかった。今年この物語が復興した。文庫本になった。すぐに購入して、今日ようやく読み了えた。この小説が翻訳された当時の文壇、作家の反応を筒井康隆が解説で怒っている。この小説を読んだことと読まなかったことで何がどう変わったのかはわからないが、この物語のなかに身を置いているときの自分の感触をいまだに持ち続けているのが不思議である。やはり湿気と干魃のせいだろうか。
思い出そうとしても
もう思い出せないことがあるんだ
大事な記憶なのに甦って来ない
まるで春霞の向こうに広がる草っ原
だけど甘い匂いだけは漂ってくるのさ
思いは深いのに思い出せないこのカイリ
愛するおまえも誰かわからなくなるのか
思わせぶりな顔をして
恥じ入るような声でささやいた人よ
いじけて暗い顔をしてたあの夏
まるでネパールの平原に吹き渡る風
雨雲がやってくるのが目視できるんだ
杖もなしに歩いていた頃のまぶしい日々
愛するおまえが誰かわからなくなってきた
油断してはいけないよ 遠い記憶はあくまで遠い
踏み外してはならないよ
下っていく階段はキョーフキョーフキョーフ!
トウヘンボクになったいま
掌の中の秋の胡桃を握りしめながら
指を使えばボケないという言葉を信じてる
もちろん車の運転は絶対にしたくないんだ
見上げた空が青く澄み渡っているから
世紀が変わっても時間の流れは同じ
思い出もやがて上書きされて消え去りそう
この記憶はどこかの惑星に収蔵されるのか
断言してはいけないよ 言ったそばから嘘になる
欲張ってはいけないよ
慌てて飲みこめばすぐにゴエンゴエンゴエン
たくさんある文庫本はなかなか不憫だ。
長い間、手に取られることがない。
同じサイズの仲間に挟まれてジッとしている。
会社は違うが、たくさんの仲間がいる。
たが、時々目にも見えぬ早業で抜き取られる。
書主の文作の役に立つ資料になることもあるが、
古いからか、用がなくなったからか、
無残にも捨てられる運命をたどる奴もいる。
「わぁ!とうとう出番か……」
抜き取られたのはアメリカの詩人たちの本。
そのままゴミ箱行きかと思いきや、
どうやら書主は読んでくれるらしい。
一冊は今日、神戸まで旅をした。
しばらくイノチが繋がったか。
同じサイズの仲間に挟まれてジッとしている。
会社は違うが、たくさんの仲間がいる。
たが、時々目にも見えぬ早業で抜き取られる。
書主の文作の役に立つ資料になることもあるが、
古いからか、用がなくなったからか、
無残にも捨てられる運命をたどる奴もいる。
「わぁ!とうとう出番か……」
抜き取られたのはアメリカの詩人たちの本。
そのままゴミ箱行きかと思いきや、
どうやら書主は読んでくれるらしい。
一冊は今日、神戸まで旅をした。
しばらくイノチが繋がったか。