かつて銀昆で…

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荒忙なる言葉

2024-03-22 10:41:58 | お勉強
荒忙という言葉がある。「こうぼう」=狩猟や酒色などに耽ること……とネットの精選版日本国語大辞典で解説されている。『当世書生気質』坪内逍遙に使用例があるとも記されている。

おれは、山本周五郎の短編小説で出会ったと記憶している。そこでは多忙と同じ意味程度の使い方だったと思う。そして今、とある人とのやり取りで山本周五郎を読み返している。書籍ではなく電子書籍。青空文庫には周五郎の小説が沢山ある。


周五郎をよく読んだのはいつ頃だったのだろう。劇団を結成してしばらくした頃だろうか。24~5歳だったと思う。それ以前、高校時代に漢文の先生から勧められて、『季節のない街』『さぶ』は読んではいた。だが、高校生に周五郎は刺激が足りなかったのか集中した読者にはなれなかった。


この年齢になると波長というか気温が合ってくる。とくに短編は読み易く面白い。そういうものをこの数日で十数篇読んだ。移動中も読めるから電子書籍は便利だ。


その前まではこの三冊を並行して読んでいた。二ヶ月くらいかかって読み了えた。


それから山田太一さん、石垣りんさんの随筆集を読み、いま周五郎である。未読の『正雪記』『樅ノ木は残った』を読もうか、それとも筒井康隆さんの最後の作品集『カーテンコール』前作『ジャックポット』方向に行こうか考え中だ。


「森ノ宮には何があった?」

2024-03-08 14:59:32 | お勉強
 

3月2日の土曜日、大阪歴史博物館で「森ノ宮には何があった?」という講演会があり、近所の者としては気になるので、予約申し込みをして参加してきた。博物館の四階の講堂には多くの人々が詰めかけていて満席状態であった。費用は2000円ながら、これだけ多くの人が参加したのかとちょっと驚いた。後ろの方の席に座ったのだが、見渡すと見事に白髪と禿げ頭の高齢者ばかり。夫婦連れもいたが、単独老人が圧倒的に多い。おれもその一員であろう。

 
正式には「博学連携講演会」と銘打たれていて、大阪公立大学、大阪市博物館機構、大阪市文化財協会の博物連携事業の一環である。「森ノ宮には何があった?—大阪の「ヒガシ」の歴史をさぐる―」8人の先生方が登場して持ち時間40分程度の講演をするのである。なかなかの迫力である。
 
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★大阪平野地下の地層構成と上町台地 
  大阪公立大学・大学院理学研究科教授 都市科学・防災研究センター 三田村宗樹氏
★自然と共生した縄文・弥生時代の森の宮遺跡の人々
  大阪市文化財協会学芸員 大庭重信氏
★難波宮を東に降るー上町台地東辺の歴史的環境ー
  大阪歴史博物館学芸員 李陽浩氏
★戦国時代の森村と木村(このむら)
  大阪公立大学大学院文学研究科教授 仁木宏氏
★大坂城惣構東南部の姿
  元大阪城天守閣館長 松尾信裕氏
★絵図・絵画にみる江戸時代の森ノ宮-武家の地と都市民の行楽地ー
  大阪歴史博物館館長 大澤研一氏
★砲兵工廠の建設と生産
  武庫川女子大学名誉教授 三宅宏司氏
★国鉄・地下鉄森ノ宮駅の開業と周辺開発
  大阪公立大学都市科学・防災研究センター特任講師 櫻田和也氏
 
というラインナップなのだが、昼休憩(おれは自宅まで食べに帰った)を挟んで、午前10時から午後5時前までの、まさに連続する講演会なのであった。
 
いやはや勉強になりました。古代から中世、近世、近現代まで時間にして約2500~5000年くらいの流れのなか、森ノ宮はどう変化してきたのかを地学、歴史学、文化史、都市論などから見る。とりわけ興味深かったのは、仁木教授の「戦国時代の森村と木村」で、天王寺領木村住人七郎男らが、港の利用料・通行料を兵庫津で取ると大山崎神人に言い、荏胡麻を押し取ってしまうという話がある。何の話かわからないだろう。京都府乙訓の大山崎の者は、対岸にある石清水八幡宮に仕える神人の住まい地で、そこで「荏胡麻油」の独占販売権を持っていた。荏胡麻油は照明用の油である。独占販売をしていることを知った天王寺領木村住人七郎男らが、兵庫津あたりを通行しようとした大山崎神人にイヤガラセをしたという記録があるのだ。木村は、このむらと読み、天王寺界隈にあった地名だとか。
 
そして、森村とは森ノ宮の西側一帯で、大坂寺内、大坂城から出て暗峠越え奈良街道に至る道に接するあたり。天王寺の木村(このむら)から北上し、上町台地東縁辺部を北上する道に接する?ということらしいのだが、ここに荘園があったのかもしれない。志宜庄という地名があり、これは「鴫」で、現在の鴫野のあたりになるのか。ここは荘園で、京都の相国寺鹿苑院の荘園だったといわれている。
 
これらは戦国時代の話である。
 
また、砲兵工廠の建設と生産の話も面白かった。武庫川女子大学名誉教授である三宅宏司氏の話のなかで、アメリカの空爆した際、終戦近くの時期は高度を下げて爆撃をしていて、目標を外すことはなかったのに、京橋駅を爆撃し多くの被害者を出した。終戦の前日、8月14日のことである。1万メートル上空から一屯爆弾を投下していたのなら外れるだろうが、終戦前のこの時期は、戦闘機のパイロットと目が合うくらい低空飛行で、大阪砲兵工廠を狙い撃つことは問題ないのだが、あえて人が大勢行き交う国鉄片町線京橋駅の建物に爆弾を投下した。また、三宅先生は大阪城公園内に残るレンガ造りの建物、「化学分析場」と「守衛室」「水門」などは是非とも残すべきだと力説された。特に「守衛室」は全国的にみても、最も古いレンガ造建築物だそうだ。
 
テキストを読み返しながら、再学に勤しもう。