さぽーと・けあぺん(就労継続支援B型事業所 兵庫県丹波篠山市)

地域の方々と関わりながら、障がい者の方々と一緒に働き事業所を楽しみながら育てて行く日々のお話しブログです。

かぞく おとうと⑧

2019-03-17 11:05:28 | 障がい者、介護
おとうと⑧

父親との通院時に毎回、弟の行く末を頼まれました。
この先、彼が一人で生きて行く為に自分はどうするべきか考えました。
仕事も上手くいかず、人との関わりも出来ず来ている彼は、
働きたい意欲は、あるのに聴覚障がいがあると雇ってもらえないと嘆いて話していました。

私は、一人で尼崎にある障がい者の方のための就労支援の事業所に見学にいきました。
その時に弟の話しをすると事業所に併設された相談支援に繋げてくださいました。

手話が出来ず筆談が必要な弟なので、受け入れの作業所がかなり少ない可能性が高いと知りました。
ほとんどの事業所は、指導員の方が少ない状況にあり、
作業内容も他の企業からのミス出来ない大切な仕事で、沢山の利用者さんの見守る必要もあり、
一人の為に筆談に時間を確保するのは、現実的に難しいとわかりました。
福祉制度であれば、彼の行き場があるかもしれないと安易に考えていました。
またなた大きな壁とハードルです。
ですが、相談支援センターの方は、とても親身になってくださり、
西宮の聴覚障がい支援センターLic さんと繋げてくださいました。
初めは、私一人で相談に伺いました。
聴覚障がい者の為の支援センターなので、手話はもちろん筆談やパソコンでの会話もしてくださいます。
2回目、彼も一緒に訪問しました。
彼にしっかり説明がつながるようにスタッフの皆さんが親切に対応してくださいました。
自分の聴覚障がいを理解して優しく対応してもらい彼は、本当にとても心地よく嬉しかったようです。
自宅に帰ってすぐに彼は、その日の事を具体的に嬉しそうに母親に話しています。
この日を境に彼も前向きに私と進み始めました。
障がい者さんの就労支援フェアーで筆談でも対応して下さる事業所も見つけ体験実習もお願いして行きました。
実習が終わり、事業所との契約を進めようとした時にまた事態が変わります。

父親が心肺停止になり、彼は、母親の面倒を父親に変わりする事になりました。
2カ月後に父親が亡くなり、私自身が仕事や西宮と篠山の往復もあり、
日々の事を細かく具体的にメモをして彼にお願いしました。
彼は、自分の役割が出来て嬉しく思ったようで、
献身的に母親の食事を作ったり買い物や通院などきっちりしてくれ本当に助かりました。
でも、彼の人生の課題もあるので、いつまでも母親の事を甘えてばかりもいられません。
日中は、彼のルーティのように以前と同じように決まった時間に行き帰り、大好きな大阪で過ごしていました。

昨年末にようやく障害者年金の身体障害の分の申請手続きと療育手帳の申請手続きをしました。
障害者年金の病歴、就労歴、日常生活歴を記入するのにかなり時間を要しました。
彼の幼稚園時代から現在まで両親から聞いていた事や本人からの聞き取り、私自身の記憶を整理しA3用紙2枚分に記入しました。
何度も文章を書いて、彼のこれまでの孤立していた人生を振り返り、
一番身近な存在だった彼のしんどさに気づいていなかった事や偶然の積み重ねに泣けました。

母親と彼の家を引っ越す事にし、家の片付けをしていると
諦めていた昔の成績表や子どもの時に検査した耳鼻科の診察券が押し入れの奥の奥で奇跡的に見つけました。


かぞく   おとうと⑦

2019-03-17 10:00:51 | 障がい者、介護
今朝の篠山は、冷たい雨が降っています。

おとうと⑦
母親の2回目の脳梗塞の入院中に彼とそれこそ30年ぶり位に長い時間話す機会がありました。
話すと言っても、補聴器が壊れていて私からの問いかけは、筆談です。
目茶苦茶時間がかかります。
久しぶりの彼の受け答えや行動に違和感を感じました。
私の知っている小学生の頃のままの弟で、とても50歳に思えない感じでした。
彼の精神年齢の幼さに知的障がいのボーダーラインにあたるのかもしれないと疑い始めました。

母親が退院後に、自宅で彼は、胸が苦しくなり、その時母親は、デイサービスに父親は、仕事でいませんでした。
電話で救急車が呼べない彼は、母親のデイサービスまでいきました。
デイサービスの方々のお陰で救急車で病院に搬送されました。
心室細動の診断で全体安静で入院しなければ命の危険もあったのに、
家族の付き添いがなかった事も重なり彼は、入院費の心配をして病院の引き止めも聞かずにその日のうちに家に帰宅しました。

後でその事を知った私は、補聴器の修理の為市役所に行きます。
その当時、聴覚障がい者になりきってゴーストライターを使っていた有名な音楽家の人の事が取り沙汰されていて
窓口の聞き取りにも厳しいものを感じました。
補聴器が新しく出来る時期になっていたので、あわせて等級変更の手続きもすることにしました。
知的障がいを疑っている事も相談すると、50歳位での手帳申請は、かなり難しいと言われましたが、
とりあえず必要な書類をもらいました。

前にかかった耳鼻科の先生と彼は、喧嘩になったようで、私と一緒に県立病院の耳鼻科を訪れました。
診察前の血圧測定値が異常なほど高く耳鼻科受診前に内科で緊急入院になりました。
高血圧で1カ月ほど入院しました。

その時の先生は、彼の聴覚障がいを理解してくださり
大変な筆談での会話や説明をしてくださり彼は、とても喜び先生の言われる事をしっかり守りました。
おそらく、家族以外で筆談で対応してくださった人は、その先生が初めてだったと思います。
人の表情や態度を見て相手の気持ちに敏感に察知するところもあり、
色々な病院でも彼は、医師と喧嘩になる事が多かっようです。

退院後に身体障害手帳の等級変更の手続きをします。4級から3級になりました。
その後から、元気だった父親の前立腺肥大症から始まり、大腸がん、胃がん、心不全による入退院が続き、
母親の通院や仕事にも追われて、彼の知的障がいの手続きに取りかかる事が後回しになりました。