さぽーと・けあぺん(就労継続支援B型事業所 兵庫県丹波篠山市)

地域の方々と関わりながら、障がい者の方々と一緒に働き事業所を楽しみながら育てて行く日々のお話しブログです。

かぞく おとうと⑨

2019-03-18 09:08:49 | 障がい者、介護


今朝も深い霧が出ています。
お隣さんの梅の木の花がポツポツ。
うちの建物の横にある空き地を歩いてびっくり!一面につくしがいっぱい生えてました。
時々、束ねて売られているのを見た事があるのですが、売りに行こうかな?
つくし狩り出来る位、目茶苦茶あります。

おとうと⑨
おとうとの療育手帳の申請にあたっては、彼にどう説明しようか迷いました。
彼に説明すると、少し苦笑いして「お姉ちゃんに任せるよ。」と言いました。
先に心療内科の先生に受診と相談に行きました。
手帳申請には、県立知的障害者更生相談所での面接と検査、診察があります。
キャンセル待ちをしていたので、2月の始めに順番が来て彼と私と主人の3人で行きました。
午前、午後と面接、検査を受けました。
彼の発達指数が低く知的障がいの中度にあたるB1の判定が出ました。

今まで本当に彼は、大変な状況の中で、生きる為の最低限の術を自分の力で自然とつけてくれていました。
その術の中には、もちろん人なので、腹が立つ位にずる賢い部分もあります。
彼のこれまでの行動をどうしようもない性格だと決め付けていた事を反省しました。

手帳は、その日のうちに頂きました。
保護者欄には、私の住所と名前が記載されていました。
母親の名前が記載されなかったのは、高齢者で病気の事があるからです。
絶対に彼の面倒は、見ないからね!!とよく両親に言っていた私が、
今日から母親に代わり、自分が彼の保護者になるんだ。
両親だけでなく、弟のこれからも背負うのかと思うと正直重く思えました。
そんな時にいつか、ひげ爺さんが言ってくれた「生まれた時からの定め」を思い出しました。
そうなる運命なら、逆らわずありのまま受け入れようと気持ちを切り替えました。
これまでの彼の人生の時計を巻き戻す事は、出来ないけど
保護者になるのだから、これからの彼の人生が楽しく沢山の人々と関われるようなと行く末を見届けないと。

そんな気持ちになっているところで彼は、ずる賢い一面を出して来ました。
「財産、いくらくれるん?お姉ちゃん一人じめすんのとちゃうん?」
(このタイミングで言う事か?どれだけ今日まであんたの為に頑張って来たと思てるねん!!)
私は、早速、彼の障がいの事を忘れて年甲斐もなくぶち切れてました。
筆談で怒る余裕がなく、おとうとは、私が怒っているのを見て、もう帰る!!と部屋を出ようとしました。
で、更生相談所の面接室の中で容赦ない取っ組み合いの兄弟喧嘩に。
主人と職員さん達が慌てて止めに入ってくれたのですが、お互いに収まらず。
おとうとは、私の腕を折ろうとする勢いで、私は、私でおとうとの頬をおもいっきりひねってやりました。( ̄ー+ ̄)
私の中でのおとうとは、小さい頃の泣き虫で喧嘩にならない位のよわたんなので絶対に負けない自信がありました。
でもおとうとは、すっかり体も私の倍以上大きくなり、力も予想以上に強くてかないませんでした。(~_~;)
更生相談所始まって以来の前代未聞の事だったでしょう。
本当に申し訳ないです。
こんな年齢で人前でわきまえず兄弟喧嘩をしてしまってお恥ずかしい話しです。
翌日、すねているおとうとに手紙を書いてお詫びと説明をしました。
おとうとも理解したようで、いつものように無邪気に「お姉ちゃん」と読んでくれてました。

かぞく おとうと⑧

2019-03-17 11:05:28 | 障がい者、介護
おとうと⑧

父親との通院時に毎回、弟の行く末を頼まれました。
この先、彼が一人で生きて行く為に自分はどうするべきか考えました。
仕事も上手くいかず、人との関わりも出来ず来ている彼は、
働きたい意欲は、あるのに聴覚障がいがあると雇ってもらえないと嘆いて話していました。

私は、一人で尼崎にある障がい者の方のための就労支援の事業所に見学にいきました。
その時に弟の話しをすると事業所に併設された相談支援に繋げてくださいました。

手話が出来ず筆談が必要な弟なので、受け入れの作業所がかなり少ない可能性が高いと知りました。
ほとんどの事業所は、指導員の方が少ない状況にあり、
作業内容も他の企業からのミス出来ない大切な仕事で、沢山の利用者さんの見守る必要もあり、
一人の為に筆談に時間を確保するのは、現実的に難しいとわかりました。
福祉制度であれば、彼の行き場があるかもしれないと安易に考えていました。
またなた大きな壁とハードルです。
ですが、相談支援センターの方は、とても親身になってくださり、
西宮の聴覚障がい支援センターLic さんと繋げてくださいました。
初めは、私一人で相談に伺いました。
聴覚障がい者の為の支援センターなので、手話はもちろん筆談やパソコンでの会話もしてくださいます。
2回目、彼も一緒に訪問しました。
彼にしっかり説明がつながるようにスタッフの皆さんが親切に対応してくださいました。
自分の聴覚障がいを理解して優しく対応してもらい彼は、本当にとても心地よく嬉しかったようです。
自宅に帰ってすぐに彼は、その日の事を具体的に嬉しそうに母親に話しています。
この日を境に彼も前向きに私と進み始めました。
障がい者さんの就労支援フェアーで筆談でも対応して下さる事業所も見つけ体験実習もお願いして行きました。
実習が終わり、事業所との契約を進めようとした時にまた事態が変わります。

父親が心肺停止になり、彼は、母親の面倒を父親に変わりする事になりました。
2カ月後に父親が亡くなり、私自身が仕事や西宮と篠山の往復もあり、
日々の事を細かく具体的にメモをして彼にお願いしました。
彼は、自分の役割が出来て嬉しく思ったようで、
献身的に母親の食事を作ったり買い物や通院などきっちりしてくれ本当に助かりました。
でも、彼の人生の課題もあるので、いつまでも母親の事を甘えてばかりもいられません。
日中は、彼のルーティのように以前と同じように決まった時間に行き帰り、大好きな大阪で過ごしていました。

昨年末にようやく障害者年金の身体障害の分の申請手続きと療育手帳の申請手続きをしました。
障害者年金の病歴、就労歴、日常生活歴を記入するのにかなり時間を要しました。
彼の幼稚園時代から現在まで両親から聞いていた事や本人からの聞き取り、私自身の記憶を整理しA3用紙2枚分に記入しました。
何度も文章を書いて、彼のこれまでの孤立していた人生を振り返り、
一番身近な存在だった彼のしんどさに気づいていなかった事や偶然の積み重ねに泣けました。

母親と彼の家を引っ越す事にし、家の片付けをしていると
諦めていた昔の成績表や子どもの時に検査した耳鼻科の診察券が押し入れの奥の奥で奇跡的に見つけました。


かぞく   おとうと⑦

2019-03-17 10:00:51 | 障がい者、介護
今朝の篠山は、冷たい雨が降っています。

おとうと⑦
母親の2回目の脳梗塞の入院中に彼とそれこそ30年ぶり位に長い時間話す機会がありました。
話すと言っても、補聴器が壊れていて私からの問いかけは、筆談です。
目茶苦茶時間がかかります。
久しぶりの彼の受け答えや行動に違和感を感じました。
私の知っている小学生の頃のままの弟で、とても50歳に思えない感じでした。
彼の精神年齢の幼さに知的障がいのボーダーラインにあたるのかもしれないと疑い始めました。

母親が退院後に、自宅で彼は、胸が苦しくなり、その時母親は、デイサービスに父親は、仕事でいませんでした。
電話で救急車が呼べない彼は、母親のデイサービスまでいきました。
デイサービスの方々のお陰で救急車で病院に搬送されました。
心室細動の診断で全体安静で入院しなければ命の危険もあったのに、
家族の付き添いがなかった事も重なり彼は、入院費の心配をして病院の引き止めも聞かずにその日のうちに家に帰宅しました。

後でその事を知った私は、補聴器の修理の為市役所に行きます。
その当時、聴覚障がい者になりきってゴーストライターを使っていた有名な音楽家の人の事が取り沙汰されていて
窓口の聞き取りにも厳しいものを感じました。
補聴器が新しく出来る時期になっていたので、あわせて等級変更の手続きもすることにしました。
知的障がいを疑っている事も相談すると、50歳位での手帳申請は、かなり難しいと言われましたが、
とりあえず必要な書類をもらいました。

前にかかった耳鼻科の先生と彼は、喧嘩になったようで、私と一緒に県立病院の耳鼻科を訪れました。
診察前の血圧測定値が異常なほど高く耳鼻科受診前に内科で緊急入院になりました。
高血圧で1カ月ほど入院しました。

その時の先生は、彼の聴覚障がいを理解してくださり
大変な筆談での会話や説明をしてくださり彼は、とても喜び先生の言われる事をしっかり守りました。
おそらく、家族以外で筆談で対応してくださった人は、その先生が初めてだったと思います。
人の表情や態度を見て相手の気持ちに敏感に察知するところもあり、
色々な病院でも彼は、医師と喧嘩になる事が多かっようです。

退院後に身体障害手帳の等級変更の手続きをします。4級から3級になりました。
その後から、元気だった父親の前立腺肥大症から始まり、大腸がん、胃がん、心不全による入退院が続き、
母親の通院や仕事にも追われて、彼の知的障がいの手続きに取りかかる事が後回しになりました。

なごり雪  おとうと⑥

2019-03-14 08:52:31 | 介護、福祉

今朝の篠山は、3月も半ばなのになごり雪でしょうか、雪でした。
鶯の「ほきょちゃん」も寒さに囀ずり出来なかったようです。

おとうと⑥
障害者手帳と障害者年金は、連動しておらず、それぞれに申請が必要だと知りませんでした。
人の目にわからない障がいでも、手帳を交付してもらい証明されていれば大丈夫と思いこんでいました。

おとうとは、手帳申請で受診した時に年金の支払いをしていなかった為に障害者年金をもらえる資格がないとの事。
唯一、申請出来る方法は、子どもの頃におたふく風邪になり、それが原因で聴覚障がいになった事を証明する事でした。
証明する為の書類を見て正直、途方に暮れました。
40年以上も前の病院のカルテや診察券、健康診断の内容がわかる物、母子手帳等々の添付出来る物があればとあります。
無理なら添付無しと書けるのですが、病院への確認や第3者の証言の書類が最低2名分必要でした。
その上、申請者本人の原因となった障がいの受診日から現在までの病歴、就労歴、
日常生活歴を詳しく段階に分けてA3の申請用紙に記入します。
事実を証明する為の証拠も見つけ出す事も不可能だし、受診した病院も転移したり閉業されていました。
第3者の人の証明も両親は、他の人にも話していなかったようで、
ただ一人母親の友人の人が彼の事を知っていて、小学3年生の時の学校逃げ出し事件の時に一緒に探してくれたそうですが、
ご家族を亡くされ精神的にしんどくなられており、高齢も重なりこちらからの話しすら聞いてもらえずでした。

国民の皆さんがそれぞれ大変な思いをして納められている大切な税金や年金だと理解しています。
我が家の落ち度の為にルールに従えなかった当然のペナルティであることも。
人を守ってくれるはずの法律や制度が、私には、大きな壁でとても高いハードルになり立ちすくみました。

かぞく  おとうと⑤

2019-03-12 08:45:29 | 介護、福祉

今朝の篠山は、霧が出ています。
鶯の囀ずり、また少し上手になりました。

おとうと⑤
弟の両耳が聞こえなくなった後も仕事は、見つけても続きませんでした。
耳が聞こえないと危険だからと断らる事も。
無職も彼がどうゆう訳かサラ金からお金を借り、怖い取り立てが来て両親は、その時に彼の借金の事実を知ります。
金銭感覚がなかったのでしょう、持ったお金は、自分の遊びや高価なカメラを購入していたようです。
両親は、借金返済に追われました。
父が昨年亡くなる前に病院に行った時にその話しになり、おそらく家がもう1件買える位支払ったと父が話していました。
聞いた事もないような色々なサラ金からの督促状や領収書が先日の引っ越しの時に見つけました。
親が支払いをしてくれる情報が流れていたのかもしれません。
彼の様子は、時々母から聞いていましたが、姉に会うとまた叱られると思い避けていたようで、
彼と久しぶりに直接会って話したのは、13年前の母親が脳梗塞で倒れ救急車で搬送された病院でした。

彼が自宅に帰ると両親がいなかったので何かあったと察知し、両耳が聞こえないから電話出来ず、
何件かの消防署を直接回り訪ね歩いたと言いました。
その時に初めて彼の両耳が聞こえなくなっていたのだと知りました。
母親の入院中に、私は、慌てて彼の身体障害手帳と補聴器の申請をしました。
病院で診断書を書いてもらい両耳は、やはり全く聞こえていませんでした。

私は、福祉の仕事をこれまでしてきたのに、情けない話しです、
支援が必要な一番身近にいた彼の事を見過ごしてしまいました。

障害者手帳が交付され、障害者医療もすぐに発行してもらいました。
問題は、障害者年金にありました。
彼が無職で両親も制度的な事も知らず、確定申告での0申告を知らず収入有りとして扱われ
彼の借金返済に追われ督促もあった年金の支払いをしていなかった事が大きな致命傷になりました。