喧嘩別れでもないのだろうが、公園の一角で競い合うように伸びていた
兵庫県知事選挙の投票率は55.65%で、前回41.10%より14.55%も上昇したという。だがしかし、あれだけメディアで騒がれたにしては高いとは思えない。そして、メディアの予想では僅差で追い上げているという予想であった。こういう場合は、逆転勝利は殆どないに等しい。つまり、アメリカ大統領選挙のようにメディアの情報収集に課題が残った選挙だったのだろう。
結果論であるが、あまりのメディア攻撃に良識ある市民が冷静さを無くしたのだろう。単純に、「若い前途のある人間にそこまで容赦のない攻撃は酷い」という心理が働いたものと推察される。そして、候補者が敢えてそういう心理を起爆させることを視野に入れていなかったのだろうか?対比として、アメリカ大統領選挙がそうである。訴訟を幾つも抱えた例えようもない候補者が勝利したのである。殆ど黒に近い訴訟だと思われるが、そんな人物でも候補者になれるのが民主主義だと言わんばかりである。金科玉条の如く民主主義というけれど、たかが民主主義である。
もう一つ指摘すれば、情報の危うさである。東京都知事選挙でも似たようなことが起こった。即ち、わが村のことによそ者が口出しすることは罷りならぬという考え方である。こういう考えの行き着く先にナショナリズムがあるのだという危惧すら覚えるが、されど民主主義である。それもこれも清濁併せ持つのも世の常と想わなければならない。若者の投票率云々がいわれるが、これから若者の投票率が上がればおよそ今のような選挙状況ではすまないだろう。善かれ悪しかれ民主主義社会の覚束ない舵取りが続くということである。