岩出山の名前の由来となる岩の露出する山肌(有備館の森公園)。
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8月8日午前11時に石巻グランドホテルをチェックアウト。岩出山と鳴子温泉への旅に出る。今回鳴子温泉へは知人の好意に甘え車での移動である。古川へ向かう夏の車窓は田圃の緑と花々に彩られる。
岩出山は大崎市の一部で2006年までは宮城県玉造郡にあった町。1591年から1602年まで伊達政宗が居を構えた東北の小京都。その町並みは今も城下町の面影を残す。
政宗は米沢から転居する際に岩手沢の地名を岩出山と改め岩出山城に居を移す。仙台城築城後は四男宗泰が居城しこれが岩出山伊達家として明治維新まで続く。現在城の主要な建物は失われ平坦や土塁、大空堀、堀切、石垣を伴う虎口などが残り城跡全体は公園・学校として利用さてれている。岩出山城址のうちこの日は町を一望できる城山公園を訪ねんとするも今年三月の地震による土砂崩れの影響で立入禁止となっていた。そこで城跡の一部にある岩出山高校に立ち寄ってみる。岩出山城は標高108m、東西約800m、南北約700mの丘陵に築かれた要害。それゆえこの学校に通った生徒も毎日坂道を登っての登校である。
お昼の時間になった。岩出山には「いろは」という美味しいラーメン屋があるそうだが店主が病で休業中のため「柳月(りゅうげつ)」というお店に入る。「ざるそば風冷し中華」が推(お)しのようなので頼んでみる。中華麺を蕎麦つゆにつけて食べるもので全体に丁寧に作られていて悪くない。ただ麺と蕎麦つゆの相性が良いとは思わなかった。尚(なお)御手洗いは水洗ではないのでお覚悟を。
食堂の至近に森民酒造店という日本酒酒蔵があり直売もしていたので寄ってみた。杉玉もあり古式ゆかしき酒蔵の佇まいが見られる。残念ながら売店には冷蔵設備がなかったのでお試しタイズの300ml2種をサンプルとして購入。
少し足を延ばすと水辺の風景。なかなか風情がありゆっくり歩くと心和む。調べてみると内川(うちかわ)といって政宗によって整えられた人工的な水路であった。江合川の大堰(おおぜき)から水を引きお濠(ほり)として農業用水・生活用水として地域の発展の礎(いしずえ)となった。現在は住民による保全活動により市民の憩いの場となっている。「二の構橋(にのかまえばし)」の名はかつての岩出山城に同名の構造物があることからそこに由来すると思われる。
後で調べてわかったことだがこの内川は2006年に「全国疎水百選」に選ばれ2016年に「世界かんがい遺産」に2017年には内川を含む「大崎耕土」が「世界農業遺産」に認定されている。
鳴子へ向かう車窓を見るたびにこの山がちの地によくこれだけの水田があるものだと感心していたが内川が支える田畑は3300haに及ぶとのことであらためてこの地域における先人の偉業を感じる。また現在の佇まいは1980-90年代の改修工事によるもので市民のこの川への愛着が感じられる。川に沿う1.7kmほどの遊歩道をいつかゆっくり歩きたいものだ。
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県道17号(栗駒岩出山線)を東進すると通りから少し入ったところに磯良(いそら)神社がある。河童を祀(まつ)った神社で静かな沼の畔(ほとり)にあるのが印象的だ。蓮の葉と水草が浮かぶ透明な水面(みなも)。狛犬(こまいぬ)ではなく河童が両脇に構える。大真面目でユーモラスだ。
伝承によると藤原秀郷という武将に仕えた虎吉という男が河童の正体が露見したため閑(ひま)を出され放浪の後にこの地に住み着き多くの子をなし栄えたとの由。農業水利、縁結び、災厄防止にご利益があるとされる。地元真山(まやま)地区では昔から「オカッパ様」と呼ばれ初物のキュウリを奉納し水難除けを祈ってから食べる風習がある。かつては多くの参拝者が訪れたという。
神社の鳥居前に見える立て札「上街道(かみかいどう)」は奥州上街道(おうしゅうかいみかいどう)とも呼ばれ一関から栗原・一迫を通り岩出山に出て出羽街道(現在の山形県鶴岡市と新潟県村上市を結ぶ道)につながる街道である。松尾芭蕉が「奥の細道」でたどったことでも知られる。その種の名所旧跡がそこここに見られる。磯良神社も古街道の面影を偲(しの)ぶことのできる場所である。
こちらは真山小学校。さらに東進したところにある。現在は閉校している(大崎市立岩出山小学校に統合)。
知人の実家跡。小川の畔にあった家は今は叢(くさむら)があるのみだ。
天王寺一里塚(てんのうじいちりづか)。一里塚は江戸時代初期に旅人の便宜をはかるため幕命により造られた。里程を示すために1里(約4km)ごとに街道の両脇に盛土して塚を築き樹木を植えたもの。1978年の県道整備の際に当時役場に勤めていた知人の父親がその歴史的価値と保存を訴え結果塚を保存するよう県道が二股に分けて通されたという。街道の両側に対になった一里塚の現存は全国的に珍しいという。
上街道には他にも「潜松(くぐりまつ)」「千本松長根(せんぼんまつながね)」「狼塚」などゆっくり歩きたくなるところがいくつもある。いつか訪れたいと思う。
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この日は鳴子まで車で乗せてもらった。宿泊先は鳴子観光ホテル。地面に硫黄の黄色い色が見えるのがいかにも温泉地だ。部屋は広々していて眺めもまずまず。お茶請けのお菓子「鳴子饅頭(まんじゅう)」は黒胡麻が効いて良い味。温泉といえば温泉饅頭だが最近はそうでもないのか。
一息ついてお風呂へ。大浴場は広々としていた。露天風呂は屋根付きのためあまり開放感はないが鳴子らしい硫黄感のある良い湯であった。
夕食は食事処で。おしながきは次の通り。
食前酒 果実酒
前菜 季の物小鉢色々
御作里 三種盛り
御凌ぎ 冷やしそば だしのせ
蒸 物 当館オリジナル 冷製茶碗蒸し
煮 物 カレイの煮付け
焼 物 栗原高原カテキン豚の陶板焼き
鍋 物 鯛のしゃぶしゃぶ
食 事 とうもろこし炊込みご飯
汁物
香の物 キャベツ浅漬け
甘 味 くずきり
飲み物はスパークリングワイン。頼んでからノンアルコールと気づいたが部屋で飲むアルコールは別に用意があったのでそのままに。
料理は地の物旬の物を生かした素朴なものが中心で煌(きら)びやかさはないが心と体にやさしい料理。こってりした御馳走は所望していなかったのでちょうどよかった。仲居さんは料理の説明をきちんとしてくれ、かといってくどくなく、程よいの距離感の接客だった。栗原高原のカテキン豚は脂(あぶら)が爽やかで美味しかった。とうもろこし炊き込みご飯は旬のものだがとうもろこしならそのまま一本食べるかもっととうもろこしの量を多めに入れてほしかった(私はいやすこ)。
この夜はこの数日の疲労がだいぶたまっていたので食事をとるなりほどなく爆睡。
翌9日は特に予定を決めていなかったので完全休養日に。寝ることと温泉に入ることに専念。朝食はボリュームを抑えた和食メニュー。胃腸の疲れた私にとって適量だった。貸切のお風呂にも入ってみた。こちらもなかなかよかった。
夕食は連泊なので前日とは別メニュー。今宵も良質の料理が適量で良し。飲み物は伯楽星の飲み比べを楽しんだ。
部屋では前日購入した「鳴子の風」(ビール)と森泉の純米吟醸と特別純米をやってみる。温度管理をなされていなかったからであろう純米吟醸は味の崩れがひどく特別純米はまだ少し飲める状態だった。蔵元で直売するなら冷蔵庫保存をしてほしいものだ。
8月11日。朝食後ホテル内の土産物屋をひやかし11時チェックアウト。
鳴子観光ホテルは昭和の時代に皇太子(当時の浩宮[ひろのみや]即ち現在の令和天皇)も宿泊した伝統ある宿。鳴子の温泉街では大型の部類に属する。温泉、料理、接客のいずれも良質。この地の観光業の現状について詳しく知るものではないが疫病禍の影響もあり楽ではないだろう。従業員の大半を外国人に替えるところも珍しくない中こちらは普通に日本人の仲居さんが応対していた。頑張ってるなあと思う(到着時大きな荷物を運んでくれなかったことだけが不満だが許す)。外国人差別をするつもりはないがこういう宿は応援したくなる。
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さて宿を後にしこの日は以前から鳴子に来る度(たび)に行きたいと思っていた「尿前の関(しとまえのせき)」へ。「尿前の関」はこの地が陸奥(むつ:青森・岩手・宮城)と出羽(秋田・山形)の国境の要衝(ようしょう)であったことから戦国時代に大崎氏が関を設けたのが始まりとみられる。後に遊佐氏が管理するようになり仙台藩になってからは(1601年)岩出山伊達家から役人が出ていた。
鳴子温泉駅から国道47号線を山形県方面へ2㎞程進んだところから草に覆われた道が延びそこを下るとそれはある。
「尿前」の名の由来については源義経が頼朝に追われ奥州を平泉に向かう道中北の方が生んだ亀若丸がこの地で初めて放尿したからとの伝説がある。「吾妻鏡」などの歴史書と一致しない点があるので史実的に確かではないが義経の東下りは12世紀(1187年頃)であることは確かなので実際この辺りを通ったのであろう。だからこの関がその時期からあったとことは十分に考えられる。
また芭蕉の「奥の細道」にこの関を通る件(くだり)があり手形がなかったことから役人からだいぶ怪しまれ通行するのに難儀したようだ。1689年のこと。まさに「みちのおく」の旅の苦難を象徴する場所である。
尚(なお)「蚤虱馬が尿する枕元(のみしらみうまがばりするまくらもと)」の句は「尿前の関」を通された後に最上町の「封人(ほうじん)の家」に足止めされ泊まった時のもの(「封人」は国境を守る役人の意)。
幕末には東西44間(約80m)、南北40間(約72m)、石垣の上に土塀をめぐらし、屋敷内には長屋門、役宅、土蔵、板蔵、酒蔵など建物10棟(むね)がありかなりの規模のものだったようだ。
1712年建立の句碑。芭蕉の通過約八十年を記念し地元の詩句愛好家が建てたという。1712年といえば江戸時代中期である。
関は既に述べた奥州上街道の途中にあるがこの付近には「出羽仙台街道中山越」(でわせんだいかいどうなかやまごえ)という名もある。奥羽山脈最大の難所であった小深沢、大深沢を越えて中山平に入り国境(くにざかい)を越え山形県堺田の封人の家に泊まるまで芭蕉が通った道を旧鳴子町が「歴史の道」として整備復元したもので平成2年に文化庁により国の文化財に指定されている。その跡を辿って歩いてみる。近辺にお住まいの方は昔からのお家なのだろうか。大きな山羊がいた。
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尿前の関から再び岩出山に移動。途中陸羽東線「池月」駅から徒歩3分にある「あ・ら伊達な道の駅」に寄る。全国でも屈指の売上げを誇る道の駅である。季節の物ブルーベリーソフトをいただく。地元日本酒も品揃え充実…かどうかは分からないがかなりいろいろあることはたしかだ。
池月駅の隣の岩出山駅のさらに隣の有備館駅。駅としてだけでなく地域の集会所としても活用されているようだ。
岩出山城址周辺に整備された有備館の森公園。「岩出山」の名の語源である岩の露出した断崖が見える。北海道当別町との交流を示す銘板や植樹も。1938年から1981年まで片倉工業の製糸工場として稼働していた土地である。内川沿いの遊歩道は「学問の道」と呼ばれる。京都の「哲学の道」に倣(なら)ったと聞くがむしろ有備館が学問所であったことに関連するだろう。
有備館(ゆうびかん)は岩出山伊達家が1850年に開設した学問所。もともとは二代宗敏の隠居所として1677年に建てられたとみられる。明治維新後1869年に岩出山伊達家の居宅となり1970年岩出山伊達家の厚意により岩出山町(現大崎市)に移管され一般に公開されるようになった。
母屋は書院造りの趣。
岩出山伊達家は婚姻関係で京都の冷泉家とも関わりが深く交流の歴史を展示特集が組まれていた(このコーナーは撮影禁止)。
館内には岩出山伊達家の明治維新後の北海道開拓の歴史を描いた映像・展示もあった。十代邦直(くになお)は戊辰戦争に敗れた後に武士の身分を失った家臣の行く末を案じ私財を投じて当時新政府が推進した北海道開拓に身を投じる。開拓は困難を極めるが現在の北海道当別町の礎を築くに至る。その苦難の歴史を本庄睦夫は小説『石狩川』に小野寺栄は版画『大地の侍』に描いた。公園でうかがわれた北海道当別町とのつながりもこのような歴史が背景にある。
Youtube動画
当別町150周年記念動画~開拓者~(小野寺栄『大地の侍』をもとに)
庭は池に四つの島を配した回遊式池泉庭園で岩出山城の断崖 を借景とする(写真に収めることはできなかった)。架橋された島には「松花庵」という茶亭がある。侘(わ)びた佇(たたず)まい。
有備館の庭での岩出山歴史散歩。
鳴子温泉・尿前の関と義経の東下り、芭蕉の足跡、政宗と岩出山伊達家の功績、古街道と水辺の保存、北海道開拓団の苦闘。いわば歴史巡りとなった今回の旅の掉尾(とうび)をこの有備館が飾った。政宗も邦直も歴史上では敗者である。しかし敗れてなお果敢に力強くそして高潔に生きた。城があっただけでなくこの地に生きた人たちの残照がこの町とそこに生きる人の内奥に宿っているように思われた。
帰途に就く。古川駅から15時09分発東北新幹線やまびこ64号に乗り東京駅へ17時24分着。東京駅から18時03分発JR中央線快速豊田行で新宿駅へ18時17分着。さらに18時21分発小田急線快速急行小田原行に乗り登戸駅で各駅停車本厚木行に乗り換え生田駅へ18時44分着。生田駅南口から川崎市営バスに乗り平野バス停下車。19時02分自宅着。こうして鳴子・岩出山の旅は終わった。そして翌日からもう一つの旅あるいは旅の続きが始まる。自宅には羽を休めるのに寄ったにすぎない。
20220808-10 岩出山と鳴子温泉への旅
20220810 岩出山の有備館
付記2
鳴子の地名の由来については昔からの温泉地ゆえ頻繁に地鳴りが聞こえた「鳴る」からという説と義経の生まれたばかりの子の亀若丸が初めてこの地で鳴いた「鳴く子」から(義経が頼った藤原秀郷の領内に入ったことで鳴くことができた)という説とがあるようだ。後者は伝説であり史実的に信憑性はない。
付記4
付記5
森民酒造店(大崎市で森泉を醸す)は森民酒造本家(仙台市若林区で森乃菊川や森民を醸す)とは別の酒蔵である。両者の関係は不明。
付記6
有備館HP
有備館は1933年「旧有備館と庭園」として「国の史跡&名勝」に指定されている。
付記7
明治維新時の北海道開拓には宮城県では亘理や白石が同様の開拓団を送り北海道の今日の礎を築いている。
付記8
政宗が岩出山に居を移したのは一揆の煽動が露見し秀吉に減転封されたためである。また岩出山城は徳川家康が当地に40日間滞在して改修しそれを政宗に引き渡したもの。戦国の世が治まるまでは政宗もいろいろ狸(たぬき)なことをやっていたわけである。後には秀吉にも家康にも恭順(きょうじゅん)の意を示し家康からは大きな信を得それは慶長遣欧使節にもつながるわけである。三代家光にも気に入られ参勤交代のたびに家康の思い出話を聞かせるようせがまれたという。実際政宗は高齢になっても自ら参勤交代で江戸に参じており亡くなったのも参勤交代時の江戸滞在中のことである。
付記9
『奥の細道』の「尿前の関」は以下の通り。
南部道遙にみやりて、岩手の里に泊る。小黒崎・みづの小島を過て、なるごの湯より尿前の関にかゝりて、出羽の国に越んとす。此路旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて、漸として関をこす。大山をのぼ つて日既暮ければ、封人の家を見かけて舎を求む。三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す 。
蚤虱馬の尿する枕もと
(のみしらみ うまのばりする まくらもと)
付記10
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