おじの英雄さんが亡くなった。
葬儀は5月10日。矢本の菩提樹で行われた。
快晴だった。
英雄おんちゃん、英雄先生、矢本のおんちゃん。
おばのトヨさんとともに教師であった英雄さん。私にとっても「先生」のイメージは強い。祖母の小糸さんが健在の頃、よく大文字屋に立ち寄って茶飲み話をしていったので、「おんちゃん」のイメージも強い。でも、やはり英雄先生と呼んでしまう。
弔辞の中で少年時代の英雄先生を「心やさしきガキ大将」と評していらしたが、まさにその通りで、先生らしい謹厳さはあるけれど、話すとざっかけない世間話から趣味の話そして教育の話までユーモアをまじえながらニコニコ話すおんちゃんにはどことなく親しみやすさを覚えた。
矢本に遊びに行った思い出と言えばやはり自衛隊の航空祭。それ以外にもたびたび憲ちゃんに車に乗せられて遊びに行った記憶がある。エンジンを切った状態でラジオをつけっぱなしにしてバッテリーが切れ、エンジンがかからなくなった、なんてこともあった。
英雄さんが大文字屋に来た時でいうと、カラーテレビを入れたばかりの頃で、おんちゃんはそのテレビの色調をツマミで調整して(赤色が強過ぎると言っていたが私には英雄さんの設定した色あいは青みがかって見えた)、テレビ番組の中身を楽しむのとは別に、機械の良さを楽しむ楽しみ方もある、みたいなことを言っていたのを覚えている。当時小学生だった私はキョトンとして聞いていたが、今にして思えばよくわかる話だ。聞けば、カメラにオーディオ(ステレオなどの音響機器)にもだいぶ凝ったそうで、退職後の仏像彫刻に至っては何度も展覧会に出品。趣味とはいえ広く深く究(きわ)めようとする人であった。
英雄先生は私が石巻小学校在学中に赴任してきたことがあり、たしか従姉弟のアッコの担任になったこともあった。私の思い出としては校内で「マンガコンクール」というのがあり英雄先生が担当だったのだが、私はそれに応募。たしか将棋で強くなるためにウサギ飛びなどをして体を鍛えるというギャグマンガだったのだが、入賞することはなく、どうも後から考えるとマンガの意味がちょっとちがっていた(おそらくイラストに近い意味)ようなのであったが、今ではよい思い出である。
英雄先生はその後石巻小学校をはじめいくつかの小学校の校長を務め、退職後も矢本町教育長としてまた保護司として教育関係の活動に尽力され叙勲の栄にも浴す。
私が最後に会ったのは、たしか憲ちゃんの葬儀の席で、女川のおんちゃんと楽しそうにお酒を飲んでいた。「あとどのくらいこうやってお酒が飲めるかなぁ」「赴任先ではよく飲み過ぎて最終バスで寝過ごして家に帰れなくなって…アハハハ」なんておっしゃっていた。お酒が好きだったおんちゃん。当時のおんちゃんはすでに八十近かったはずで、その時死んだ憲ちゃんとあまり歳は変わらないのだが、そう思えないほど元気だった。そしてその後も活躍を耳にしていたので、今回の訃報は全く寝耳に水だった。
英雄先生の人物像について言えば何か土着性のようなものを感じる。それは大塩という土地に由来するのかもしれない。大地に根を生やした力強さ。そこから生まれてくる優しさ。そういうものを持ち合わせた人だった。
葬儀場から火葬場に移動し荼毘に付され、お骨拾いまで一時間半ほど間があった。待機室はガラス張りで外の緑豊かな景色がよく見えた。樹々の向こうに広がる青空に幾筋かの旋回する飛行機雲が糸を引く。航空自衛隊の航空祭か飛行訓練か。待機室の参列者は歓声をあげしばらく見入っていた。編隊する航空機は何度も蒼空に弧を描いていた。
20220510 英雄先生逝く ―葬儀ー
付記1
英雄先生はコロナ禍以前までは同窓会や毎年恒例の会合(飲み会)に参加していたそうだ。
付記2
蒼空(そうくう)…すっきりと晴れた青い空。
付記3
コロナ禍で実家の人間に会ったのはほぼ三年ぶり。キクちゃんは視力が少し残っていて、耳も遠くはなっているが近くで話せば聞こえる。頭もボケてはいなかった。髪が白くなっていたが、これはもともとで、前は染めていたのだが今は染めていないというだけのことである。
付記4
私は火葬場か葬儀場へ戻るタイミングで中座した。本当は最後まで参列したかったが仕事の都合で失礼した。矢本のあたりの緑豊かな風景は天気も良かったからか素晴らしく、いつかゆっくり歩いてみたいと思った。
付記5
さよなら英雄先生
Lately --
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