【Good Luck】2020

幸運に!幸運を願う!またね

謹賀新年 今年も誰かのために

2017-01-01 18:31:11 | 心に伝わるback Music
新年あけましておめでとうございます。
ご無沙汰しています、
kentathuです。


心に伝わるback Musicとして
記事を書いてます。
86作目は、
DREAMS COME TRUEの「何度でも」です。

(パソコンの方はCtrlキーを押しながら下記画像をクリックして下さい。曲が流れます)
♪何度でも♪

今回は知っている方も多いと思いますが、
大晦日の出来事が話題となり映画にもなった話です。
長文の為、時間が有る時に続き(MORE)に進んで下さい。
【一杯のかけそば】

この物語は、今から35年ほど前の12月31日、
札幌の街にあるそば屋「北海亭」での出来事から始まる。

そば屋にとって一番のかき入れ時は大晦日である。
北海亭もこの日ばかりは朝からてんてこ舞の忙しさだった。
いつもは夜の12時過ぎまで賑やかな表通りだが、
夕方になるにつれ家路につく人々の足も速くなる。
10時を回ると北海亭の客足もぱったりと止まる。
頃合いを見計らって、人はいいのだが無愛想な主人に代わって、
常連客から女将さんと呼ばれているその妻は、
忙しかった1日をねぎらう、大入り袋と土産のそばを持たせて、
パートタイムの従業員を帰した。
最後の客が店を出たところで、そろそろ表の暖簾を下げようかと
話をしていた時、入口の戸がガラガラガラと力無く開いて、
2人の子どもを連れた女性が入ってきた。
6歳と10歳くらいの男の子は真新しい揃いのトレーニングウェア姿で、
女性は季節はずれのチェックの半コートを着ていた。
「いらっしゃいませ!」
と迎える女将に、その女性はおずおずと言った。
「あのー……かけそば……1人前なのですが……よろしいでしょうか」
後ろでは、2人の子ども達が心配顔で見上げている。
「えっ……えぇどうぞ。どうぞこちらへ」
暖房に近い2番テーブルへ案内しながら、
カウンターの奥に向かって、
「かけ1丁!」

と声をかける。
それを受けた主人は、チラリと3人連れに目をやりながら、
「あいよっ! かけ1丁!」
とこたえ、玉そば1個と、さらに半個を加えてゆでる。
玉そば1個で1人前の量である。
客と妻に悟られぬサービスで、大盛りの分量のそばがゆであがる。
テーブルに出された1杯のかけそばを囲んで、
額を寄せあって食べている3人の話し声が
カウンターの中までかすかに届く。
「おいしいね」
 と兄。
「お母さんもお食べよ」
と1本のそばをつまんで母親の口に持っていく弟。
やがて食べ終え、150円の代金を支払い、
「ごちそうさまでした」
と頭を下げて出ていく母子3人に、
「ありがとうございました! どうかよいお年を!」
と声を合わせる主人と女将。
新しい年を迎えた北海亭は、
相変わらずの忙しい毎日の中で1年が過ぎ、
再び12月31日がやってきた。
前年以上の猫の手も借りたいような1日が終わり、
10時を過ぎたところで、店を閉めようとしたとき、
ガラガラガラと戸が開いて、
2人の男の子を連れた女性が入ってきた。
女将は女性の着ているチェックの半コートを見て、
1年前の大晦日、最後の客を思いだした。
「あのー……かけそば……1人前なのですが……よろしいでしょうか」
「どうぞどうぞ。こちらへ」

女将は、昨年と同じ2番テーブルへ案内しながら、
「かけ1丁!」
 と大きな声をかける。
「あいよっ! かけ1丁」
と主人はこたえながら、
消したばかりのコンロに火を入れる。
「ねえお前さん、サービスということで3人前、出して上げようよ」

そっと耳打ちする女将に、
「だめだだめだ、そんな事したら、かえって気をつかうべ」

と言いながら玉そば1つ半をゆで上げる夫を見て、
「お前さん、仏頂面してるけどいいとこあるねえ」
とほほ笑む妻に対し、
相変わらずだまって盛りつけをする主人である。
テーブルの上の、1杯のそばを囲んだ母子3人の会話が、
カウンターの中と外の2人に聞こえる。
「……おいしいね……」
「今年も北海亭のおそば食べれたね」
「来年も食べれるといいね……」

食べ終えて、150円を支払い、
出ていく3人の後ろ姿に
「ありがとうございました! どうかよいお年を!」
その日、何十回とくり返した言葉で送り出した。

商売繁盛のうちに迎えたその翌年の大晦日の夜、
北海亭の主人と女将は、たがいに口にこそ出さないが、
九時半を過ぎた頃より、そわそわと落ち着かない。
10時を回ったところで従業員を帰した主人は、
壁に下げてあるメニュー札を次々と裏返した。
今年の夏に値上げして「かけそば200円」と書かれていたメニュー札が、
150円に早変わりしていた。
2番テーブルの上には、
すでに30分も前から「予約席」の札が女将の手で置かれていた。
10時半になって、店内の客足がとぎれるのを待っていたかのように、
母と子の3人連れが入ってきた。
兄は中学生の制服、弟は去年兄が着ていた大きめのジャンパーを着ていた。
2人とも見違えるほどに成長していたが、
母親は色あせたあのチェックの半コート姿のままだった。
「いらっしゃいませ!」
と笑顔で迎える女将に、母親はおずおずと言う。
「あのー……かけそば……2人前なのですが……よろしいでしょうか」
「えっ……どうぞどうぞ。さぁこちらへ」
と2番テーブルへ案内しながら、
そこにあった「予約席」の札を何気なく隠し、
カウンターに向かって
「かけ2丁!」
 それを受けて
「あいよっ! かけ2丁!」
とこたえた主人は、玉そば3個を湯の中にほうり込んだ。
2杯のかけそばを互いに食べあう母子3人の明るい笑い声が聞こえ、
話も弾んでいるのがわかる。
カウンターの中で思わず目と目を見交わしてほほ笑む女将と、
例の仏頂面のまま「うん、うん」とうなずく主人である。
「お兄ちゃん、淳ちゃん……
      今日は2人に、お母さんからお礼が言いたいの」
「……お礼って……どうしたの」
「実はね、死んだお父さんが起こした事故で、
8人もの人にけがをさせ迷惑をかけてしまったんだけど
……保険などでも支払いできなかった分を、毎月5万円ずつ払い続けていたの」
「うん、知っていたよ」

女将と主人は身動きしないで、じっと聞いている。
「支払いは年明けの3月までになっていたけど、
実は今日、ぜんぶ支払いを済ますことができたの」
「えっ! ほんとう、お母さん!」
「ええ、ほんとうよ。
お兄ちゃんは新聞配達をしてがんばってくれてるし、
淳ちゃんがお買い物や夕飯のしたくを毎日してくれたおかげで、
お母さん安心して働くことができたの。
よくがんばったからって、会社から特別手当をいただいたの。
それで支払いをぜんぶ終わらすことができたの」
「お母さん! お兄ちゃん! よかったね! 
でも、これからも、夕飯のしたくはボクがするよ」
「ボクも新聞配達、続けるよ。淳! がんばろうな!」
「ありがとう。ほんとうにありがとう」
「今だから言えるけど、淳とボク、お母さんに内緒にしていた事があるんだ。
それはね……11月の日曜日、淳の授業参観の案内が、学校からあったでしょう。
……あのとき、淳はもう1通、先生からの手紙をあずかってきてたんだ。
淳の書いた作文が北海道の代表に選ばれて、
全国コンクールに出品されることになったので、
参観日に、その作文を淳に読んでもらうって。
先生からの手紙をお母さんに見せれば
……むりして会社を休むのわかるから、淳、それを隠したんだ。
そのこと淳の友だちから聞いたものだから……ボクが参観日に行ったんだ」
「そう……そうだったの……それで」
「先生が、あなたは将来どんな人になりたいですか、という題で、
全員に作文を書いてもらいましたところ、
淳くんは、『一杯のかけそば』という題で書いてくれました。
これからその作文を読んでもらいますって。
『一杯のかけそば』って聞いただけで北海亭でのことだとわかったから
……淳のヤツなんでそんな恥ずかしいことを書くんだ! 
と心の中で思ったんだ。
作文はね……お父さんが、交通事故で死んでしまい、
たくさんの借金が残ったこと、
お母さんが、朝早くから夜遅くまで働いていること、
ボクが朝刊夕刊の配達に行っていることなど……ぜんぶ読みあげたんだ。

そして12月31日の夜、3人で食べた1杯のかけそばが、とてもおしかったこと。
……3人でたった1杯しか頼まないのに、
おそば屋のおじさんとおばさんは、ありがとうございました! どうかよいお年を!
って大きな声をかけてくれたこと。
その声は……負けるなよ! 頑張れよ! 生きるんだよ! 
って言ってるような気がしたって。

それで淳は、大人になったら、
お客さんに、頑張ってね! 幸せにね! って思いを込めて、ありがとうございました! 
と言える日本一の、おそば屋さんになります。
って大きな声で読みあげたんだよ」

カウンターの中で、聞き耳を立てていたはずの主人と女将の姿が見えない。

カウンターの奥にしゃがみ込んだ2人は、
1本のタオルの端を互いに引っ張り合うようにつかんで、
こらえきれず溢れ出る涙を拭っていた。
「作文を読み終わったとき、先生が、淳くんのお兄さんが
お母さんにかわって来てくださってますので、
ここで挨拶をしていただきましょうって……」
「まぁ、それで、お兄ちゃんどうしたの」

「突然言われたので、初めは言葉が出なかったけど
……皆さん、いつも淳と仲よくしてくれてありがとう。
……弟は、毎日夕飯のしたくをしています。
それでクラブ活動の途中で帰るので、
迷惑をかけていると思います。
今、弟が『一杯のかけそば』と読み始めたとき
……ぼくは恥ずかしいと思いました。
……でも、胸を張って大きな声で読みあげている弟を見ているうちに、
1杯のかけそばを恥ずかしいと思う、
その心のほうが恥ずかしいことだと思いました。

あの時……1杯のかけそばを頼んでくれた母の勇気を、
忘れてはいけないと思います。
……兄弟、力を合わせ、母を守っていきます。
……これからも淳と仲よくして下さい、って言ったんだ」


しんみりと、互いに手を握ったり、
笑い転げるようにして肩を叩きあったり、
昨年までとは、打って変わった
楽しげな年越しそばを食べ終え、300円を支払い
「ごちそうさまでした」
と、深々と頭を下げて出て行く3人を、
主人と女将は1年を締めくくる大きな声で、
「ありがとうございました! どうかよいお年を!」
と送り出した。

また1年が過ぎて――。
北海亭では、夜の9時過ぎから「予約席」の札を
2番テーブルの上に置いて待ちに待ったが、
あの母子3人は現れなかった。
次の年も、さらに次の年も、
2番テーブルを空けて待ったが、3人は現れなかった。
北海亭は商売繁盛のなかで、店内改装をすることになり、
テーブルや椅子も新しくしたが、
あの2番テーブルだけはそのまま残した。
真新しいテーブルが並ぶなかで、
1脚だけ古いテーブルが中央に置かれている。
「どうしてこれがここに」
と不思議がる客に、
主人と女将は『一杯のかけそば』のことを話し、
このテーブルを見ては自分たちの励みにしている、
いつの日か、あの3人のお客さんが、
来てくださるかも知れない、
その時、このテーブルで迎えたい、と説明していた。
その話が「幸せのテーブル」として、客から客へと伝わった。
わざわざ遠くから訪ねてきて、そばを食べていく女学生がいたり、
そのテーブルが、空くのを待って注文をする若いカップルがいたりで、
なかなかの人気を呼んでいた。
それから更に、数年の歳月が流れた12月31日の夜のことである。
北海亭には同じ町内の商店会のメンバーで
家族同然のつきあいをしている仲間達が
それぞれの店じまいを終え集まってきていた。
北海亭で年越しそばを食べた後、
除夜の鐘の音を聞きながら仲間とその家族がそろって
近くの神社へ初詣に行くのが5~6年前からの恒例となっていた。
この夜も9時半過ぎに、魚屋の夫婦が刺身を
盛り合わせた大皿を両手に持って入って来たのが
合図だったかのように、いつもの仲間30人余りが
酒や肴を手に次々と北海亭に集まってきた。
「幸せの2番テーブル」の物語の由来を知っている仲間達のこと、
互いに口にこそ出さないが、
おそらく今年も空いたまま新年を迎えるであろう
「大晦日10時過ぎの予約席」をそっとしたまま、
窮屈な小上がりの席を全員が少しずつ身体を
ずらせて遅れてきた仲間を招き入れていた。

海水浴のエピソード、孫が生まれた話、大売り出しの話。
賑やかさが頂点に達した10時過ぎ、
入口の戸がガラガラガラと開いた。

幾人かの視線が入口に向けられ、全員が押し黙る。
北海亭の主人と女将以外は誰も会ったことのない、
あの「幸せの2番テーブル」の物語に出てくる薄
手のチェックの半コートを着た若い母親と
幼い二人の男の子を誰しもが想像するが、
入ってきたのはスーツを着てオーバーを手にした二人の青年だった。
ホッとした溜め息が漏れ、賑やかさが戻る。
女将が申し訳なさそうな顔で
「あいにく、満席なものですから」
断ろうとしたその時、和服姿の婦人が深々と頭を下げ入ってきて
二人の青年の間に立った。
店内にいる全ての者が息を呑んで聞き耳を立てる。

「あのー……かけそば……3人前なのですが……よろしいでしょうか」
その声を聞いて女将の顔色が変わる。
十数年の歳月を瞬時に押しのけ、
あの日の若い母親と幼い二人の姿が目の前の3人と重なる。
カウンターの中から目を見開いてにらみ付けている主人と
今入ってきた3人の客とを交互に指さしながら
「あの……あの……、おまえさん」
と、おろおろしている女将に青年の一人が言った。

「私達は14年前の大晦日の夜、
親子3人で1人前のかけそばを注文した者です。
あの時、一杯のかけそばに励まされ、
3人手を取り合って生き抜くことが出来ました。
その後、母の実家があります滋賀県へ越しました。
私は今年、医師の国家試験に合格しまして
京都の大学病院に小児科医の卵として勤めておりますが、
年明け4月より札幌の総合病院で勤務することになりました。
その病院への挨拶と父のお墓への報告を兼ね、
おそば屋さんにはなりませんでしたが、
京都の銀行に勤める弟と相談をしまして、
今までの人生の中で最高の贅沢を計画しました。
それは大晦日に母と3人で札幌の北海亭さんを訪ね、
3人前のかけそばを頼むことでした」


うなずきながら聞いていた女将と主人の目からどっと涙があふれ出る。

入口に近いテーブルに陣取っていた八百屋の大将が
そばを口に含んだまま聞いていたが、
そのままゴクッと飲み込んで立ち上がり
「おいおい、女将さん。何してんだよお。
10年間この日のために用意して待ちに待った
『大晦日10時過ぎの予約席』じゃないか。ご案内だよ。ご案内」

八百屋に肩をぽんと叩かれ、気を取り直した女将は
「ようこそ、さあどうぞ。 おまえさん、2番テーブルかけ3丁!」
仏頂面を涙でぬらした主人、
「あいよっ! かけ3丁!」
期せずして上がる歓声と拍手の店の外では、
先程までちらついていた雪もやみ、
新雪にはね返った窓明かりが照らしだす
『北海亭』と書かれた暖簾を、ほんの一足早く吹く睦月の風が揺らしていた。
一杯のかけそば

X JAPAN - ENDLESS RAIN

2016-06-17 06:30:33 | 心に伝わるback Music
皆さんはご存じだろうか、
1998年通夜、告別式に5万人近くが集まったとされ、
隅田川沿いに2~3キロのファンの列が出来たこを。
 
最近、毎日の様に築地本願寺の前を通ります。
行ったこと無いと思っていたけど、
思い出しました。

元「X JAPAN」のギタリスト
hide(本名:松本秀人:33)の自殺?事故?の話です。


心に伝わるback Musicとして
記事を書いてます。

85作目は、
X JAPANの「ENDLESS RAIN 」です。
(下記画像をクリックして下さい。)

♪「ENDLESS RAIN」♪

By kentathu

それでは、X JAPAN」のギタリストhide(本名:松本秀人)の話です。
追記を読む(MORE)に進んで下さい。

1998(平成10)年5月2日、6:30、
元「X JAPAN」のギタリスト・hide(本名:松本秀人:33)は
実弟でマネージャーの松本裕士と一緒に
東京・港区南麻布2-1-21ノアーズアーク南麻布マンション301号の自宅へ帰宅した。

酒に酔っていた。約1時間後、
同棲中の女性がドアノブにタオルを巻き付け、
床に座った状態で縊死しているhideの姿を発見した。

その後、病院に搬送されたが、8:52に死亡が確認された。
遺書はなかったが、警察は自殺と断定した。

ギタリストたちの多くは重いギターを首にかけることからくる肩こりに悩まされる。
hideも生前、肩こりに悩まされ母が届けてくれた湿布をいつも肩に貼っていたという。

hideの通っていた整体師は、
彼の顎にタオルをかけ上方へ牽引する施術を行っていた。
実弟の話によるとhideはたびたび一人でこの牽引施術を行っていたという。
彼の死亡現場の状況と、この牽引施術はまったく同じだった。

hideの遺体は5月3日に東京・中央区築地の築地本願寺に安置された。
夕方、YOSHIKIがロサンゼルスから帰国し
成田空港から築地本願寺に直行、遺体と対面をした。
YOSHIKIは最初これを「悪い冗談じゃないか」とも思っていたが、
飛行機の中での正式な報道を見た瞬間に現実であることを受け入れ号泣したという。

翌日5月4日、週が明け本格的にワイドショーなどで大々的に取り上げられる。
築地本願寺にファンが集まり始め、その数は千人規模となる。
夕方にYOSHIKIが寺の正面に姿を現し、報道陣を前にメッセージを発表した。
当時のニュース
  ↓


5月5日には、関係者のみ300人を集め密葬が執り行われた。
その間もファンは絶え間無く押し寄せ、その数は数千人にも膨れ上がった。
また、疲労と心労が重なったファンが次々と倒れ、救急車で病院に搬送された。
さらに、「hideが自殺」と報道されていたために
ファンの後追い自殺が東京・調布市や千葉市、築地本願寺境内で相次いだ。
そのため、翌日には警視庁の要請で元「X JAPAN」のメンバーが記者会見を開き、
自殺を思いとどまるように訴えた。
このような後追い自殺を防ぐためか、
後に状況証拠から自殺と考えられるような芸能人が現れても
極力「原因を調査中」などとして「自殺」という報道を避けるようになった(2007年の坂井泉水の急死など)。


5月6日の通夜、5月7日の告別式の両日はファンの献花を受け付け、
連日ファンが大挙して押し寄せた。
中には単なる通行人や野次馬もいたとされるが、
通夜、告別式に5万人近くが集まったとされ、
隅田川沿いに2~3キロのファンの列が出来たことも報道されていた。


「ファンは列に並ぶ際、パニックになるような事も無く、
むしろ近隣住民の迷惑にならないように
ゴミ拾いまで進んで行う素行の良さであった」と
葬儀翌日の朝日新聞・天声人語で語られているが、
実際は各所で将棋倒しなどの事故、警察の対応の悪さによるパニックも起きている。
これまで有名人の告別式などが催されたことがあるが、
美空ひばりや尾崎豊の告別式に訪れた人の数を超え、
これほどまでファンが集まったのは戦後の日本では例が無い。


5月7日の告別式はテレビで生中継された。
告別式には、脱退したTOSHI、TAIJIを含む元「X JAPAN」メンバーをはじめ、
親交のあった音楽仲間や業界関係者が列席した。
築地本願寺開山以来のグランドピアノ持ち込みによる
YOSHIKIの伴奏で、TOSHIがX JAPANの『Forever Love』を歌った。



hideの『Good Bye』が流される中、出棺される。
道路に交通規制が掛けられ一般車両を完全に止めた状態であったが、
ファンが大挙して道路に広がり霊柩車を追いかける者まで現れる非常事態となり、
築地本願寺周辺がパニック状態になった。

その後、hideは渋谷区の代々幡斎場で荼毘に付された。
法名「秀徳院釋慈音」(しゅうとくいん しゃくじおん)。
遺骨は四十九日法要をもって、神奈川・三浦市の三浦霊園に納骨され、
一部はロサンゼルスの海に当時の「zilch」のメンバーや松本裕士によって散骨されている。

hideの墓には大きく『hide』の文字が書かれており
今でもファンによる多くの献花が飾られている。
また、墓石には愛用のギターを模したレリーフの隣に事実上
遺作となった『HURRY GO ROUND』の歌詞と
両親から息子へのメッセージが刻まれているほか、
記帳用のノートも設置されている。
なお、墓にはファンによる墓地の荒廃を防ぐために
松本家からの注意書きも設置されており、
献花は包装をはがすこと、線香を束であげない、
水、酒などの液体を墓石にかけないといったルールが記されている。


♪hide「 GOOD BYE」♪


オフコース「生まれ来る子供達のために」

2016-04-27 23:59:00 | 心に伝わるback Music
今晩は、kentathuです。
長い間、お休みしてました。

今回はKさんの話です。
心に伝わるback Musicとして
記事を書いてます。

83作目は、
オフコースの「生まれ来る子供達のために」です。

(パソコンの方はCtrlキーを押しながら下記画像をクリックして下さい。)
♪ 生まれ来る子供達のために  ♪

この曲は私が学生の頃、レコードを買って聞いてた曲です。
また、オフコースの自主制作映画『NEXT』を見に行った事を覚えてます。
(パソコンの方はCtrlキーを押しながら下記画像をクリックして下さい。)
♪ NEXT メドレー ♪

それでは、Kさんの話です。
続き(MORE)に進んで下さい。

付き合って3年の彼女に唐突に振られた
「他に好きな男が出来たんだー、じゃーねー」

就職して2年、
そろそろ結婚とかも真剣に考えてたっつーのに、
目の前が真っ暗になった。

俺は本当に彼女が好きだったし、勿論浮気もしたことないし、
そりゃ俺は格別イイ男って訳じゃなかったけど、
彼女の事は本当に大事にしてたつもりだった。

なのに、すっげーあっさりスッパリやられた。

どーにもこーにも収まりつかなくて、電話するも着信拒否、
家行ってもいつも留守、バイト先も辞めてた。
徹底的に避けられた。
もーショックですげー荒れた。仕事に打ち込みまくった。
それから半年、お陰で同期の中でダントツの出世頭になってた。
彼女の事も、少しずつ忘れ始めてた、そんなある日。
携帯に知らない番号から電話がかかってきた。
最初は悪戯とかだと思って無視ってたんだけど、何回もかかってくる。
仕方ないから出た。

別れた彼女の妹を名乗る女からだった。
その女が俺に言った。

「お姉ちゃんに会いに来てくれませんか?」

・・・彼女は白血病にかかっていて、入院していた。
ドナーがやっと見つかったものの、状態は非常に悪く、
手術をしても助かる確率は五分五分だという。
入院したのは俺と別れた直後だった。
俺は、病院へ駆けつけた。
無菌室にいる彼女をガラス越しに見た瞬間、
俺は周りの目を忘れて怒鳴った。

「お前、何勝手な真似してんだよっ!俺はそんなに頼りないかよっ!!」

彼女は俺の姿を見て、しばらく呆然としていた。
どうして俺がここに居るのかわからない、という顔だった。
その姿は本当に小さくて、今にも消えてしまいそうだった。
でもすぐに、彼女はハッと我に返った顔になり、
険しい顔でそっぽを向いた。


俺は、その場に泣き崩れた。堪らなかった、
この期に及んでまだ意地をはる彼女の心が。

愛しくて、悲しくて、涙が止まらなかった。

その日から手術までの2週間、俺は毎日病院に通った。
けれど、彼女は変わらず頑なに俺を拒絶し続けた。
そして手術の日。俺は会社を休んで病院に居た。
俺が病院に着いた時にはもう彼女は手術室の中だった。

手術は無事成功。けれど、安心は出来なかった。
抗生物質を飲み、
経過を慎重に見なくてはならないと医者が言った。
俺は手術後も毎日病院に通った。
彼女は、ゆっくりではあるけれど、回復していった。
そして彼女は、相変わらず俺の顔も見ようとしなかった。
ようやく退院出来る日が来た。
定期的に検査の為、通院しなくてはならないし、
薬は飲まなくてはならないけれど、
日常生活を送れるまでに彼女は回復した。

俺は当然、彼女に会いに行った。お祝いの花束と贈り物を持って。

「退院、おめでとう」

そう言って、花束を手渡した。彼女は無言で受け取ってくれた。
俺はポケットから小さい箱を取り出して中身を見せた。
俗に言う給料の3ヶ月分ってヤツ。
「これももらって欲しいんだけど。俺、本気だから」

そう言ったら、彼女は凄く驚いた顔をしてから、俯いた。
「馬鹿じゃないの」
彼女の肩が震えていた。

「うん、俺馬鹿だよ。お前がどんな思いしてたかなんて全然知らなかった。
本当にごめん」
「私、これから先だってどうなるかわからないんだよ?」
「知ってる。色々これでも勉強したから。
で、どうかな?俺の嫁さんになってくれる?」
彼女は顔を上げて、涙いっぱいの目で俺を見た。
「ありがとう」
俺は彼女を抱きしめて、一緒に泣いた。

ウチの親には反対されたけど、俺は彼女と結婚した。
それから2年。

あまり体は強くないけれど、
気は人一倍強い嫁さんの尻に敷かれてる俺がいる。
子供もいつか授かればいいな、
という感じで無理せず暢気に構えてる。

――後日談――-
嫁さんのお腹に新しい命が宿ってるってわかった。
「子供は授かりものだから、無理しないでのんびり構えとこう」
とか言ってたけど、正直諦め気味だった。

まだ豆粒みたいなもんなんだろうけど、俺と嫁さんの子供が嫁さんのお腹の中にいる。
そう思っただけで、何か訳の分からない熱いものが胸の奥からこみ上げてきて、泣いた。
嫁さんも泣いてた。
実家に電話したら、結婚の時あんだけ反対してたウチの親まで泣き出した。
「良かったなぁ、良かったなぁ。神様はちゃんとおるんやなぁ」
って。
嫁さんの親御さんは
「ありがとう、ありがとう」
って泣いてた。皆で泣きまくり。
嫁さんは身体があんまり丈夫じゃないから、産まれるまで色々大変だろうけど、
俺は死ぬ気で嫁さんと子供を守り抜く。
誰よりも強いお父さんになってやる。

でも、今だけはカッコ悪く泣かせて欲しい。

おわり

当時のオフコース解散はニューミュージック界の終わりと思われたが
小田和正さんがソロで「ラブ・ストーリーは突然に」をリリース。
新しい時代の幕開けでした。
 by kentathu
(パソコンの方はCtrlキーを押しながら下記画像をクリックして下さい。)
♪ ラブ・ストーリーは突然に ♪



(パソコンの方はCtrlキーを押しながら下記画像をクリックして下さい。)
♪ オフコース メドレー ♪


(パソコンの方はCtrlキーを押しながら下記画像をクリックして下さい。)
♪ 小田和正 メドレー ♪


中島みゆき 世 情

2016-02-17 23:00:16 | 心に伝わるback Music
今晩は、kentathuです。

今回はある殺人事件の話です。
心に伝わるback Musicとして
記事を書いてます。

82作目は、
中島みゆきの「世情」です。

(パソコンの方はCtrlキーを押しながら下記画像をクリックして下さい。)
♪ 世情  ♪


この曲は有名ドラマの挿入歌で知りました。
(パソコンの方はCtrlキーを押しながら下記画像をクリックして下さい。)
♪ 世情 ドラマver ♪


それでは、認知症の母 殺人事件の話です。

続き(MORE)に進んで下さい。
京都市伏見区桂川河川敷で

2月1日無職、片桐康晴被告が認知症の母親を殺害して
無理心-中を図ったとみられる事件の初公判が19日に行われた
事件内容は認知症の母親の介護で-
生活苦に陥り、母と相談の上で殺害したというもの
片桐被告は母を殺害した後自分も自-殺を図ったが発見され
一命を取り留めたとの事
片桐被告は両親と3人暮らしだったが9-5年に父が死亡
その頃から、母に認知症の症状が出始め一人で介護した

母は05年4月-ごろから昼夜が逆転
徘徊で警察に保護されるなど症状が進行した
片桐被告は休職してデイ-ケアを利用したが介護負担は軽減せず、9月に退職
生活保護は、失業給付金などを理由に-
認められなかった・・・
介護と両立する仕事は見つからず12月に失業保険の給付がストップ
-カードローンの借り出しも限度額に達しデイケア費やアパート代が払えなくなり
06-年1月31日に心中を決意した
「最後の親孝行に」
片桐被告はこの日、車椅子の母を連れて京都市内を観光し、2月1日早朝
同市伏見区桂川河川敷の遊歩道で「もう生きられへん。此処で終わりやで」
などと言うと、母は「そうか、あかんか。康晴、一緒やで」
と答えた
片桐被告が「すまんな」と謝ると母は「こっちに来い」と呼び
片桐被告が母の額にくっつけると母は「康晴はわしの子や。わしがやったる」と言った
この言葉を聞いて、片桐被告は殺害を決意母の首を絞めて殺し
自分も包丁で首を切って自殺を図った冒頭陳述の間、片桐被告は背筋を伸ばして
上を向いていた肩を震わせ、眼鏡を外して
右腕で涙を拭う場面もあった裁判では検察官が片桐被告が
献身的な介護の末に失職等を経て追い詰められていく過程を供述
殺害時の2人のやりとりや「母の命を奪ったが
もう一度、母の子に生まれたい」
という供述も紹介
目を赤くした東尾裁判官が言葉を詰まらせ刑務官も涙をこらえるようにまばたきをするなど
法廷は静まり返った・・・裁判の中で片桐被告は
「私の手は母を殺めるための手だったのか・・・」
と言葉を残した

東尾裁判官は片桐被告に対し「尊い命を奪ったをいう結果は
取り返しのつかない重大だが経緯や被害者の心情を思うと
社会で生活し、自力で更生するなかで冥福を祈らせる事が相当・・・
被告人を懲役2年6ヵ月に処する」
そして続いてこう言った「この裁判確定の日から3年間
その刑の執行を猶予する」
殺人(承諾殺人)で異例の執行猶予つきの
判決を言い渡されたそして被害者(お母さん)の心情に対し
「被害者は被告人に感謝こそすれ決して恨みなど抱いておらず
今後は幸せな人生を歩んで行ける事を望んでいるであろうと推察される」
判決の後、片桐被告に裁判長が「絶対に自分を自分であやめる事のないように
お母さんのためにも、幸せに生きてほしい」
と言われ、片桐被告は深々と頭を下げ「ありがとうございました」と言った
片桐被告に言い渡した後に東尾裁判官はこう言葉を残した
「本件で裁かれるのは被告人だけではなく介護保険や生活保護行政の在り方も
問われている
こうして事件に発展した以上はどう対応すべきだったかを
行政の関係者は考え直す余地がある」

当時 金八先生をリアルタイムで見ていたので、
社会勉強は金八先生で学びました。
 by kentathu

My Little Lover -音のない世界

2016-02-07 01:00:59 | 心に伝わるback Music
今回の投稿は、
難聴の子供を授かったWさんと、
妻が難聴の病になった、Tさんの話です。

心に伝わるback Musicとして
記事を書いてます。

81作目は、
My Little Loverの「音のない世界」です。

(パソコンの方はCtrlキーを押しながら下記画像をクリックして下さい。)
♪ 音のない世界  ♪


この曲は2008年昼ドラのラブレターの主題歌でした。
(パソコンの方はCtrlキーを押しながら下記画像をクリックして下さい。)
♪ 音のない世界 ラブレター-ver ♪


♪ ラブレター  ドラマ♪


それでは、WさんとTさんの話です。
続き(MORE)に進んで下さい。
Wさんより

うちの娘3才は難聴。ほとんど聞こえない。

その事実を知らされたときは嫁と泣いた。何度も泣いた。
難聴と知らされた日から娘が今までとは違う生き物に見えた。
嫁は自分を責めて、俺も自分を責めて、まわりの健康な赤ん坊を産むことができた友人を妬んだ。
ドン底だった。

バカみたいにプライドが高かった俺はまわりの奴等に娘が難聴って知られるのが嫌だった。
何もかもが嫌になった。
嫁と娘と三人で死のうと毎晩考えていた。

ある晩、嫁が俺に向かってやたらと手を動かしてみせた。
頭おかしくなったんかと思ってたら、喋りながらゆっくり手を動かし始めた。
「大好き、愛してる、だから一緒にがんばろう」
手話だった。

そのときの嫁の手、この世のものじゃないかと思うくらい綺麗だった。
それで目が覚めた。何日もまともに娘の顔を見てないことにもやっと気付いた。
娘は眠ってたが、俺が声をかけるとニタッと笑った。

あれから三年。
娘の小さな可愛い手は上手に動いてる。喋ってる。
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♪ ラブレター  ドラマ2♪


次はTさんの話です。

昨年、突発性難聴と診断された妻。
病院に通って服薬治療を続けてきた妻だったが、とうとう先週「このままの聴力で安定して行くでしょう。」と言われて帰って来た。
きっとショック受けてんだろうなーと家に帰ったが、いつも通りのあっけらかんとした妻だった。
「私、手話覚えるしかないかなー。」なんて笑いながら話してた。(静かな場所であれば、響く様な感じだが聞き取れるし話せる程度)
夜子供が寝た後に、これから必要になるかも…?と、二人でゴロゴロしながら筆談をしてみた。
最初は他愛もない話だったんだが、いきなり妻が
「ごめんね。辛くなったらいつでも言ってね?私こんなんになっちゃって、いつでも離婚しても良いと思ってるよ。」
って書いた。
つい大きな声で
「お前離婚したいのか?!耳が聞こえない位で離婚するわけないだろ!バカか!」
って言ってしまった。
妻はかぼそい声で
「出来る事、一生懸命やるから、頑張るから捨てないでね…」
って泣いた。
妻がこの件で初めて泣いたのを見て、俺も泣いた。ずっと我慢してたんだって。
不安だったろうな、辛かったろうな…。
抱き合って泣いてる俺達にびっくりして起きてしまった2歳の娘が、
「おか〜しゃん おと〜しゃん 泣かないの ヨチヨチ」
ってしてくれた。
この温かい家族をこれからも俺が守って行こうと思ったよ。
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♪ ラブレター  ドラマ3♪


以前、生涯を持つヤプミーさんからメッセージをもらった事が有ります。
どう返信したら解らず、出来ませんでした、
やっと、返信みたいな記事が出来ました。
遅くなりました。 by kentathu