(第6章 先島群島)
25. 先島群島作戦
先島群島とは、沖縄県の宮古諸島と八重山諸島の総称で、本土から最も遠く離れている島々という意味である。
南西諸島に対する敵の企図判断については時期的に、大本営、第10方面軍(所在地台湾)、現地軍、航空軍などの間に多少の相達が見られるが、昭和19年初頭以降は大体次のようであった。<参考文献「先島群島作戦(宮古島篇)」瀬名波栄著>
昭和19年5月頃における第32軍( 第10方面軍の隷下で沖縄本島に司令部を置き奄美群島から先島諸島をその守備範囲とした)の情勢判断
(1)マリアナの線と同時に南西諸島に侵攻する。
(2)マリアナ奪回後十分準備を整えて2段攻撃式に南西諸島を攻略する。
(3)依然島伝い戦法を採用、ニューギニア、比島、台湾を経由、あるいは一部を省略、南西諸島へ進攻する。
このうちでは(3)の公算が大きく、その時期は昭和20年春頃になるものと予想していたが、(1)、(2)の場合も全然公算が絶無とは云えなかった。
更に以上の何れの場合でも米軍の戦力から推して大東島のような小島に足がかりを求めるような事はせず、南西諸島の大根拠地たるべき沖縄本島、或いは宮古島に直接来攻することが考えられた。
諸般の情勢から推して先ず沖縄本島にやってくることはほぼ間違いないとしても、状況によっては宮古島が先になるという可能性もある得るというのが当時現地の軍側のほぼ一致した判断とされていた。
然し昭和20年に入って敵の空襲が専ら沖縄本島に向けられつつあることや、執拗な偵察行動などから判断して次期進攻目標が沖縄本島に向けられることは九分通り間違いないとの見方が決定的となり、従って宮古島の危険率はかなり薄らいだと見られた。
先島群島の防衛担当は第28師団であり、昭和19年(1944年)7月から第28師団は宮古島に乗り込み、12月にはほぼ展開が終了しその勢力は、陸軍2,800人、海軍2,000人、計3万人余りであった。
第28師団
満州(関東軍直轄)にあった第28師団を沖縄へ転用することが昭和19年(1944年)6月30日に決まった。
そして、7月3日に第32軍に編入され、宮古島・石垣島方面防衛を担当することになった。
7月20日に宮古島に到着し、戦闘司令所を開設した。
師団長は櫛淵鍹一中将で、翌年1月12日に納見敏郎中将に替わった。
なお、納見中将は戦後の昭和20年12月13日、野原越司令部の宿舎で毒を仰ぎ51年の生涯を閉じている。
<部隊編成の用語(宮古島市 neo 歴史文化ロード 綾道~ 戦争遺跡編)に注釈を付記>
25.1.作戦準備
25.1.1.火力配備
大本営では宮古島の陸上戦闘は主として陣地戦になることを考えていたので、特に強力な戦車部隊は配置しなかったが、水際戦闘に備えて戦車1個中隊を派遣した。
本部を城辺村長間に置き、敵の上陸に備えていた。
宮古島に配備された火砲は野戦重砲兵第一連隊第一大隊の15インチ砲を筆頭に大体次のようであった、
海軍砲台
15糎(センチ)加農(カノン)砲2門(平良町南岸)
20糎榴弾砲2門 (海軍飛行場東高地)
14糎加農砲2門(城辺町友利南岸)
14糎加農砲1門(平良町ビンフ高地)
14糎加農砲1門(城辺町与那浜崎)
12糎榴弾砲2門(平良町千瀬尾神崎)
これらの海軍砲台は平良町、下地村方面に上陸を企図する敵艦船を撃破する目的を以て配備された。
<15糎カノン砲>
野戦重砲
15糎榴弾砲3門(第一中隊)伊良部村長山高地(平良港に上陸する敵を背後から攻撃する)
15糎榴弾砲1門(第一中隊)平良町南岸
15糎榴弾砲4門(第二中隊)野原越東方ウズラ嶺
15糎榴弾砲4門(第三中隊)城辺村ザラッキ高地
これらの重砲は海上及び中飛行場、野原缶主陣地一帯を防衛し得るが如く配置された。
<15糎榴弾砲>
山砲兵第28連隊
94式山砲24門、99式10糎榴弾砲12門
歩兵第3連隊、同30連隊
92式7糎歩兵砲12門、41式連隊砲12門、37ミリ速射砲12門
<92式歩兵砲>
特設迫撃砲隊
12門
<追撃砲>
独立連射砲第5大隊
1式機動47ミリ速射砲18門
独立混成第59、60旅団歩兵大隊
41式山砲16門、94式37ミリ連射砲32門
旅団砲兵
追撃砲36門
25.1.2.衛生部隊の臨戦準備
衛生関係部隊の配備及び行動、臨戦準備の概要は次の通りであろ、
師団軍医部(部長:脇田豊軍医大佐)
昭和20年2月迄は平良第一国民学校々舎内に設置されたが、2月中旬以降は野原越戦闘司令所へ移動した。
宮古島陸軍病院(院長 恒松陽之助軍医少佐)
鏡原国民学校に位置、一部を以て狩俣分院
第28師団第一野戦病( 院長:和田錬作軍医大尉)
城辺村花切に位置、20年5月4日平良町盛加に移動
第28師団第二野戦病院(院長:三好祝二軍医大尉)
伊良部島、一部を大東島
第28師団第三野戦病院
(石垣島へ派遣)
第28師団第四野戦病院(院長:辻義春軍医大尉)
城辺町福里 位置
第28師団防疫給水部(院長: 大科逢雄軍医少佐)
平良町細竹、一部を各地区隊に配置
医療業務の実情
師団は戦況急変のため、準備不十分のまま宮古島に転進したが、その後の補給は意に任せず、医薬品、衛生材料にこと欠き、特にマラリヤ防疫に必要な塩類、硫規、アテブリン、殺虫剤などの不足が著しく、風土病の予防対策は困難を極め、衛生状態の悪化は避けられなかった。
マラリア対策
3万名に近い将兵の進駐で食糧、作居などに不自由を来し、マラリヤなど風土の蔓延と栄養失調患者の続出で体力の疲労消耗著しく、戦力の低下は憂慮すべきものであった。
このため師団衛生部ではマラリア防疫対策に重点を置き、台北帝大熱帯医学研究所の宮原、大森教授を招聘して5日間にわたって全軍医の教育を実施した。
また、蚊の発生源を塞ぐ目的で全島にわたって水流溝渠の整備、水田、廃田、池などの理立て、雑荒雑木の伐採をした。
その他、兵舎内外の清潔整頓、予防内服の徹底をはかると共に原虫保持者の早期発見、区分を迅速確実ならしめるため、布施中尉を長とする専門に工作班を編成し対応した。
そして、台湾軍から派遣された6名の技術者を配し、軍民の原虫検索を徹底的に実施して予防に努めた。
<マラリア>
マラリアは、結核、エイズと並ぶ世界の3大感染症のひとつである。
罹患者が世界中で年間約2.2億人、死亡者が年間約66万人にのぼるとWHOより報告されている。日本では、戦前には土着のマラリアがみられたが、現在は国内での感染による発生はない。
マラリア原虫を持った蚊(ハマダラカ)に刺されることによって生じる感染症で、イタリア語の「悪い」mal、「空気」ariaというのがマラリア(malaria)の語源で、1880年にラヴランが赤血球内に寄生するマラリア原虫を発見するまで空気感染する病気と考えられてきた。
<マラリアの病状>
マラリアの主な症状は、発熱、貧血、脾腫である。
潜伏期間は、7日〜40日とマラリアの種によって異なる。
栄養失調対策
昭和20年3月以降食糧の補給は全く途絶え、手持ちの糧秣だけで全将兵をまかなわねばならなくなった。
而もあと何年間持久すればよいか、見通しがつかないので、極力節約につとめ、食い延ばしを図った。
同時に現地自活に力を入れ、鳥類虫類は勿論野菜に至る迄食い得るものを調査し、活用せしめたが、不十分免れず己むなく軍馬肉を定期的に給する方途を講じた。
主食は保有の米をなるべく消費しないように努め、手っ取り早く増取を望める甘藷を代用食に充て大豆を以て蛋白源、食塩は海水より細々乍ら自給するよう努めた。
漁獲物を得るため漁撈班を組織して魚類の入手に努めたが、昼間は敵機の妨害に遭い所期の効果をあげることが出来なかった。
このため大豆の栽培に力を入れ台湾から熱地に適する白王豆の種子を急ぎ飛行機で取り寄せるなどして極力増収に努めた。
又豚、山羊、鶏などは一定数迄増える迄は手をつけないようにして増産維持をはかったが、劣悪な給与と過重な陣地構築作業、訓練なとで将兵の体力低下は目に見えて増え、健康維持は至難の状態だった。
給水対策
宮古島には井戸が少なく飲料水確保に苦労した。
野戦作井隊による作井を試みたが、地質の関係で成功しな かった。
このため雨水を利用し、各地区の湖水を防疫給水部の手でろ過して飲料水に供した。
また外野原越の湧き水については貯水池を作って有事に備えた。
<当時の宮古島の軍施設地図>
<続く>