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旅日記

望洋−43(根本博元陸軍中将(続き))

24.根本博元陸軍中将(続き)

以下、門田隆将氏著「この命、義に捧ぐ」を参照、引用

   

24.3.台湾援助

根本は昭和21年8月終戦後、東京の鶴川村(現在の町田市能ヶ谷)の自宅で過ごしていた。

昭和24年(1949年)1月に蔣介石が総統を辞任すると、蔣介石に対する恩義(4万人の在留邦人と35万将兵の帰還への便宜供与、国体護持)から、根本は私財を売却して渡航費用を工面しようとした。

そこに、「李鉎源」と名乗る台湾人が現れ、国民党の「傅作義将軍」の依頼によって来たと言った。

傅作義将軍は、現在の国民党の難局の打開を頼み込んできたのである。

渡航のための船を準備すると言った。

根本は「渡航承諾」の意思を李鉎源に伝えた。

渡航準備は、元上海の貿易商であった明石元長及び「東亜修好会」が行った。

明石元長は第七代台湾総督明石元二郎の息子である。

東亜修好会は、台湾留学生などを援助する団体で、昭和14年(1939年)7月10日に貴族院男爵議員に選出された明石元長が設立した。

 

24.4.密航

根本は同年5月8日家族に「釣りに行ってくる」とだけ言い残し、釣り竿を持って家をでた。

その前日の夜、根本の妻錫は「迎えが来て、明日からお父さんは台湾に行きます。このことは誰にも言ってはいけません」と子供たちに告げていた。

根本は通訳役の吉村提二と東京駅から鹿児島行きの急行列車に乗った。

行き先は熊本だった。

GHQ占領下の海外への密航は、数多くの困難が待ち受けていたという。

5月9日の朝「申し訳ありません。都合があって、博多駅で降りていただきます」どこから列車に乗り込んできたのか、李鉎源が突然現れて、根本にそう告げた。

根本は、一旦博多で下車し、明石元長が紹介する台湾への同行者五人と落ちあった。

いずれも中堅クラスの元軍人たちで、根本には初めて会う人間ばかりだった。

だが、根本たちは、すんなり出港したのではなかった。

明石元長の指示に従って、根本の〝放浪〟が始まった。

一行は、GHQに悟られないように、宿を転々とした。

いつ、どこから密航船が出るのか、根本と吉村にはまったくわからなかった。

6月26日の夕刻やっと、延岡港から漁船に乗って出港した。

もはや一日遅れても計画は失敗に終わったに違いない。

前日(25日)の明石元長の手帳には、「金一文もなし」という元長の叫びが記されている。

出航を見送った明石元長は疲労困憊で、精も根も尽き果て東京へ帰り着いたが、7月1日の午前零時をまわった頃に急死した。

延岡港を漁船で出港した根本たちは、日向市細島港沖で26トンのポンポン船(全長20m、最大幅4.5m、最大時速5ノット)に乗り換え、船員を含め総勢15名で台湾を目指した。

この船はかなり老朽化していた、台湾船だった。

 

24.5.難航海

出航から4日目の6月29日、種子島を通過したその夜、船が何かに擦り、船底に穴が開いた。

このままでは、30分で船が沈没するということで、総出でバケツや桶で海水を汲み出す作業をする羽目になった。

およそ2時間後に島(屋久島)を発見し、その島に乗り上げ、かろうじて沈没を免れた。

島の砂浜に着いて、船を点検すると、船板一枚が割れており割れ目の一部が穴になっていた。

修理が必要であったが材料も器具もなかった。

そこで、布団の綿を取り出して割れ目に詰め、穴の部分は外側から板を打ち付けることにした。

打ち付ける釘は、船室内の帽子掛けや手拭掛に使っていた釘を抜いて使用した。

だが取りあえずの応急処置であったため、海に浮かべると水が入ってきた。

排水ポンプを絶えず動かしていないと船は沈没する状態であった。

引き返して修理することも考えたが、運を天に任せて、一気に久米島まで行くことにした。

奄美大島、沖永良部島、そして沖縄本島、宮古島、石垣島と、島づたいに南下する方法もあった。

しかし、その当時沖縄は、アメリカの統治下にあり、日本人が乗り込んだ密航船が島づたいに行くことには、あまりに危険が大き過ぎたのである。

船は絶えず浸水するので、交代でバケツと桶で水を汲み出すことにした。

久米島の島影が見えたのは7月3日の昼過ぎであった。

しかし、台湾までまだ500Km近くあった。

久米島では日本の紙幣は使えなかった。

使用できるのはドルである。

根本達はドルを持っていなかった。

物物交換しかなかったので、一行はそれぞれの着替えの洋服や帽子などを交換物として食糧、水、油等を手に入れた。

久米島を出港したのは7月5日の朝だった。

計画では、7月7日の夜かあるいは8日の朝に台湾の基隆に着くはずだった。

だが、再び不運が襲ってきた。

出港したその日、船の機関(焼玉エンジン)が故障したのである。

焼玉エンジンは原理が簡単なだけに、故障しても修理はできた。

だが修理が終わるまでにおよそ5時間かかり、船は大海原で漂流を余儀なくされた。

この焼玉エンジンの故障は翌6日にも起こった。

海洋のど真ん中でエンジンが停止することぐらい心細いことはなかった。

死を覚悟して出てきているものの、目的地に達するまでに命を落とすことほど無念なことはない。

根本は祈るような気持ちで、修理を見守っていた。

根本の不安に追い打ちをかけたのは、水漏れだった。船腹に空いていた損傷個所から再び漏水が始まったのだ。

再び水汲みが始まった。

食糧も底をついた。

誰もが寡黙になり、また何人かは塞ぎこんでいた。

そんな時「山が見えた」「台湾が見えた」という声がした。

遂に台湾に到着したのである。

 

24.6.逮捕・投獄

しかし、不運はまだ続いた。

九死に一生を得て翌朝、基隆に上陸した根本たちを待っていたのは、「逮捕・投獄」という予想もしない事態だった。

おんぼろ船で突然やって来た日本人たちは、「密航者」とされたのであった。

当時台湾当局は、日本や大陸からの密航者が急増しており苦慮していたのだった。

他の密航者と共に、基隆港近くの監獄にぶち込まれた根本と通訳の吉村は、必死に渡航した目的を説明した。

すなわち、我々は国民党のために、中国共産軍との戦いにやって来た日本の軍人である。

だが、獄吏はまったく相手にしなかった。

しかし、必死に訴え続ける変な日本人の話は、次第に広がっていった。

「台湾を助けに来たと言う日本人がいる」

そんな話が、台湾の警備指令である彭孟緝(ほうもうしゅう)中将、副総司令兼参謀長の鈕先銘(にゅうせんめい)の耳に届いた。

「根本博」という名前を聞いた鈕先銘は、根本が台湾を助けるためにやって来たことを確信し、急いで基隆に向かった。

根本等はその後台北入りし蒋介石と対面するのである。

 

24.7.戦闘指揮

根本らは8月18日に台湾から厦門へ渡り、中国共産党軍と戦う。

根本は中国名「林保源」として湯恩伯の第5軍管区司令官顧問、中将に任命された。

根本は厦門を放棄し、金門島(中華民国福建省)を拠点とすることを提案する。

これを基に防衛計画が立案され、根本は直接指導に当たった。

10月1日、北京では中国共産党による中華人民共和国が成立した。

ほどなく国府軍は厦門を攻め落とされ、金門島での決戦が迫ってきた。

根本は塹壕戦の指導を行った。

10月25日、古寧頭戦役(台湾海峡の金門島を巡る戦闘、25〜27日)が始まった

金門島に集まった中華人民共和国の輸送船・補給船を国府軍が根本の策で焼き払うことに成功した。

これにより、中華人民共和国側は台湾上陸のための海運力に打撃を受けた。

また、国府軍は上陸してきた中国人民解放軍も撃破にも成功し、同島を死守したのである。

 

根本らの台湾密航は国会でも追及された。

昭和24年(1949年)11月12日、第6回国会参議院本会議おいて、細川嘉六(日本共産党)から台湾における日本人義勇軍に対する所見を政府は問われた。

これに対し、吉田茂首相は「噂は聞いておりますが、従つて政府としてはその噂が事実なりや否や嚴重に今取調中」と述べ答弁を濁している。

その後、11月15日付で吉田首相は、日本人義勇軍の組織化は否定しつつも、根本らの密航を認める答弁書を提出している。

根本の留守宅にも政府の調査がやってきたし、町田警察やGHQもやって来たという。

戦後の混乱が続く中一家の主を失った根本家、吉村家は、生活に困窮しながら必死に生き抜いた。

 

24.8.帰国

昭和27年(1952年)6月25日、羽田空港に中華民国のCAT機が着陸した。

CAT機のタラップから肩に釣り竿を担いだ初老の男が姿を現した。

カメラマン達は一斉にシャッターを押した。

根本博だった。

空港のロビーで待合いの椅子に腰を降ろした根本を記者たちが取り囲んだ。

「なぜ台湾にいったのですか」との質問に根本はこう語った。

「なぜ台湾に渡ったかというと、やっぱりカイロ会談だな。

第二次大戦中のカイロ会談で日本の国体が危なかった時、蔣介石総統が何かと擁護してくれてポツダム宣言では〝日本国民の希望にまかせる〟ということになったんだよ。

つまり、日本の天皇制は蔣総統のおかげで助かったというわけだ。

そのご恩返しを何とかしてやらなければならないと考えていたんだよ。

そういう時に、蒋さんが窮地に追い込まれて、大総統をやめてしまった。

恩だけを受けて、向こうが困った時に、こっちは”知らない”というわけにはいかんだろう。

これは捨てておけない、ご恩返しをするのはこの時以外にない、と決心して、命がけで台湾に渡ったわけだ。

何をやろうとか、具体的な計画があったわけではないよ。

どうしても蒋総統がいけなかったら、私は、一緒に屍を並べて感謝の気持ちを日本人として伝えたかっただけだ。・・・・(略)・・・・」

 

『(根本博陸軍中将)の節終わり』

 

<続く>

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