次の防塁跡へ移動しました。
田んぼと果樹園に囲まれています。
案内板。
少しづつ阿津賀志山に近づいています。
空堀はいくらか埋められたのでしょうね。
次は国道4号が横断する近くの防塁跡に移動します。
田んぼと果樹園に囲まれています。
案内板。
少しづつ阿津賀志山に近づいています。
空堀はいくらか埋められたのでしょうね。
次は国道4号が横断する近くの防塁跡に移動します。
梁川八幡神社の次は阿津賀志山防塁跡へと向かいます。
阿武隈川にかかる橋を渡ると、要害になりそうな小高くて突出した丘が見えました。
(堤防で撮影)
丘を横目に防塁跡へと向かう途中で「大枝城跡」という看板を見かけました。
神社の駐車場の案内板にのっていた城跡のようです。せっかくなので寄り道します。
果樹園の中を登っていくと行き止まりになっています。
車を降り果樹園の脇の道を通って、一番高いところへと、わずかな距離を歩きました。
すると、見晴らしの良いところに出ました。
下の写真の、橋の向こう側にある林が先ほど見てきた神社と、林の左手の空き地が愛姫受け渡し場所です。
よ~く見えますね。
三角点がありました。
この石碑の名前は何なのでしょうか。大枝城の別名でしょうか?
「大條氏居城
綴麻ヶ森袖ヶ崎城址」と彫られています。
伊達氏第8代当主宗遠(1324~1385)の二男伊達宗行がこの袖ヶ崎に居館を築き、大枝氏を称したのが始まり。
その後、大枝氏代7代宗直の時に、伊達政宗が豊臣秀吉による奥州仕置きにより大枝城も没収されたので、大枝氏は大條(おおえだ)氏に表記を替え最終的に1616年に亘理郡坂元城主に落ち着いた、ということです。
そして最後の坂元城主が明治時代に伊達姓に戻し、それが今の伊達みきおさんに繋がっているらしいです。
まわりには土塁空堀跡も残ってます。
想像が膨らみますね~。橋から見えていた小高い丘がここでした~。
神社の看板には、もう一つ「梁川城跡」も書かれていました。
来た道を戻らなければなりませんが、とっても気になってきたので、防塁跡に行く前に、梁川城跡を訪ねることにしました。
つづく