花鳥風月、、2023年からの第二の日記

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

明日は明日の風が吹く、、、

2022年09月12日 | 日記
昭和のはやり言葉です。

明日は明日の風が吹く、、、、

この言葉を、、

自分の心の中で、、

いつもつぶやいていたような気がします。

戦場近くの外国で
実父が院長をしていた病院の寮で
男兄弟3人女性一人の6人家族は

日本の国の方針で
戦場近くの総合病院を建てて
西洋医学を学んだ外科医の父が
赴任していた。

母は、子供を連れて、
父の院長職にある病院の住宅に
一人の息子を連れて、、移住した。

病院からは、、
現地の女性の3人が
厨房や、掃除洗濯の担当と、育児に
派遣されてきていたそうである。

母は、日本語以外は話さなくても
現地の職員は、
日本語が通じたというから

日本が支配していた時代の、
     現地の様子が推測されますね。

戦況が、日本の敗戦に傾くにつれて

4人の子宝に恵まれた8年間は
砂上の楼閣のように

夢幻のごとく崩壊して、

日本人に対して 手のひらを返したような
現地での待遇に、

発言は禁じられていたとしても
戦況は、
   報道の通りとは限らないと
緊張感が日常生活の間で
自覚しないうちにも反映される時

住宅は、
背伸びしないと外が見えないような
小さな窓が有る部屋に
     移されたという。

次男3男、、長女が命を落とし

何の疑いも持たぬ母は、
年子の兄を出産した後、
私を身ごもったという。

死んでしまった3人の子供を
         取り戻さねばと

神経過敏の毎日の中で、
育児は、再び、、
年子の兄の命をも、、
奪ってしまったかのように見えた。

病院から派遣されていた職員の
「オモニ」と
呼んでいた女性たちは、

年子の兄も死んでしまったと
皆を集め、、、

あいご~~あいご~~と

大げさに
   なくわめく儀式に入ったとき
死んでしまったと思っていた

年子の兄は

息を吹き返し、、
    起き上がって来たそうです。

その時、、
日本から、たった今、
戦場近くの病院に到着したという、、
母の父、、
私にとっての祖父にあたる人でした。

こんな状況でも、西洋医学の手術で
銃創や、切断された傷や、
顔の皮がめくれてしまった傷や
にわかに人口の増えた南紀では
傷痍軍人などの気力を盛り上げるのは
仕事をする気に
なってもらうところから
始まっていた。

陸軍大将の傷を手当てしたときに

「肌身はずさず持っていた大好きな日本画を
    先生に差し上げたい、、、
この次は戦場で帰れないかもしれない。」

絹の布に描いた山紫水明のような、日本画であった。
何でも,、
タニブンチョウの
一番弟子が描いた絵だそうでした。

母は手術道具と
  現地で報道された
  「髭の医師」の新聞記事の切り抜きの束を 

    名画に見える日本画を中に入れて筒入れに入れて
手術道具の数種類を 
布で巻いて一緒に持ち帰ってきていました。

その布というのが、
神社の名前と寄せ書きで一杯の日の丸の旗と
名目は、、銃後のお勤めという事なのでしょうか??
「草色の袋に入った、、、軍隊手帳、、
            縫い取りが色糸の
           「千人針」と言われた、タスキ!
        その刺繍文字は
         「武運長久」。。。
日本に持ち帰ったのは、、、これだけ。
   イザ、、というときに、
        父は、母に、指輪にしたり、ブローチにしたりして
   現地人が欲しがる装飾品を
      非常事態の旅費にと、母にくれていた。

     母は、日本に向かって、敗戦色濃くなって
     日本人んが身の危険を感じる交通手段を乗り継いで
     捨て身で、
        日本から、
          娘夫婦を迎えに
            戦場の病院にやってきた
              爺ちゃんの指図に従って

  結婚指輪をはじめ、、全ての装身具を
      関所の通行手形のように駆使して
        最後の、、、
          日本に向かう、、、
            連絡船に乗ることが出来たそうです。

    切符は、祖父が持って来ていても
       臨月の母は、年子の一歳の兄を連れて
         長旅の座席の確保に、、
      全ての
    父からプレゼントされた
     宝石を、現地の係官に渡しながら
    乗船への道を開けて、、
      日本へ帰らねばとの想いで
         やっと乗せてもらったと言っていました。

      3人の子供が死んでしまう前までは
       日本人が来ると
         バスの中でも、、船の中でも
           現地の人は立って、席を開けてくれたそうです。

     日本は敗戦するという気配の
         報道とともに
     現地には、
     居場所を見つけるのが難しくなったそうです。

   戦争とは、、、
      一刻一刻、、、
        危険度も、安全度も、、、
       現地の民の、、

       日本人に対する態度で
   推測が付くことが多かったらしいですね。

    しかし、、、
    日本が敗戦するかもしれないなどと

      うっかり発言しようものなら、、、
     生きていられないかもしれないという
    尖がった空気になってきていて、、、

   父は、、
    母の心を和ませようと

  「慰問団の音楽会」に
     母を誘って、
    初めての外食に連れ出したそうです。

  長男だけを連れて、、

   帰宅すると、、、
    元気なはずの、、息子は
     死んでいたそうです。

       現地から派遣された女性の子守は
        次男が死んでいるのに
         子守唄を唄いながら、、、おんぶしていたという、、、

        背筋が寒くなる、、、
        終戦前の、
        戦場に派遣された

       日本の医師の家庭で起きた、、、
       偶然の?

       あるいは、、、

       日本人排除の?
      気運高まる中、、、

       母は
     アメリカ帰りの実父によって
    千載一遇の
      日本引き上げ命令の実行が
        出来たと言っていた、

   戦場の殺戮の中で
   生き延びられた、、、

    不幸中の、

最後の「蜘蛛の糸」をつかんで
   話さなかった母でした。

  手持ちの宝石で、
    蜘蛛の巣を横断したような、、

   日本への帰還でした。
       
   日本に帰還してからは
    熊野の山奥の政治を頼まれて
      いくつかの山村が集まってできている
        川沿いの医療機関で
          
         父は、、
      帰国後の人生を、
        母の故郷で
        医師として、、
        無医村のつながる七か村に
       なくてはならない、、、
         たった一人の先生として
      13年間の疎開からの、
         日本の戦後を生きることとなったのでした。
       

        日本への帰還の途中
         串本までたどり着いたとき
          防空壕の中で生まれた私は
           母乳の出ない
         お産後の肥立ちの悪い母から

         引き離されて

        祖父の手に預けられて、、、
        串本のおばさんの母乳を貰って

        栄養失調の私は
       存在感が影のように薄い、、、
      戦時中に生れた、「女の子」は、、

     邪魔以外の何ものでもない

     お荷物の赤ちゃんとして

     精神も、、
      過緊張で、、
        不安定な母のもとで

      地元の
      戦争未亡人で
     
     診療所で働いている

      男子2人女子1人を育児中の
       「未亡人である職員」の手で

       育児を一任した母でした。
        2歳まで、、

       母以外の母乳や
         牛乳や

         兄が買ってた10頭の山羊の父乳絞って
         がーぜで濾した、小学6年生の兄が得てくれた、   
        山羊乳で
          育てられたそうです。

     私って、、、
            山羊の娘やん!
           牛さんの子供かもしれん、、

            斌雄ちゃん母ちゃんの
              母乳を飲んで育ったから

          母乳兄弟も居るし

         戦中に生れた女の子は

        多くの人の愛が無かったら、、
       、死んでたかもしれません。

       父が、、
         無医村で、、、

          超必要な外科医として

      戦場で戦った
      マルチ何でもできる医師だったおかげで

     村人の愛を得て、、
         私の為に使ってくれたからこそ、、

       私って、、、生きてられたんだな~~~て

        運の良さと、戦中に生れたという
        運のなさを 、、背負って生きていることが

           「よ~~し!!」

      「何が何でも、、、私は私が生かしてゆくという、、
        自分で力を持たねば、、
         日本の女性は

         周りの心にゆだねられるという

           おおきな意味で、、
            「私物の分類」になるのは

             私の心の願いに逢わないので

            必要とされる「力を持とう!!」
            小学校に入る前に、、、
           疎開地で、、

          超!必要とされている父の
          一人娘だから、、、 
            存在しているという
          付属品から、、
            独立した自分にならないと、、、

         「先生の子は,、得ばかりしている、、」

          「本当は、、N君の方が出来るのに
            先生の子だと、、得している
             あんたなんか 一番と違うで!!」

          席順発表になっただけで、、、
         校庭の石の階段から

        七回も、突き落とされた事が有った。

        口の中を、、、医師である父に

        7針も縫ってもらって、、

      「お父さんが、、修理したから、、前より良くなったゾ!!」

        明るく笑う父から見ると
         口の中が切れるくらい、、、
           縫うだけで、、治るジャン!、
            運の悪い向きに
              コロンどったらな、、、
            頭の打ち所悪いと、、
         、縫ったぐらいじゃ済まされんとこじゃ!!

         運が良かったんじゃ、、、!
         子供の妬みじゃ、、、
         これからもあるかもしれんが
       「 誰も、、、悪くないんじゃよ、」
       これからもあることだから、、、
      階段おりるときは、、、
     皆と降りんようにしたらいいよ。

     それからも…私は、誘われるままに
     友だちと階段を一緒に降りた。
    合計、、7回、、、突き落とされそうになったが、、
     口の中を切って、またかい、、、
         父が、学校の先生に、、、
             とうとう、、報告するまで
              階段での突き落としは続きました。

      東京育ちの、ひときわ村から受け入れられた父を
       みんなが、尊敬と、ある種の尊敬で
        かかわり、
         患者さんというより
        村の自慢の祭りなどには
       酒を片手に
         父と飲もうと、、
          酔っ払いが、、父にまつわりついていた。

         一足先に、祭りの会場に
          弟と着いた。
         餅つきをしていた。
        飾りつけをしていた。
       そろいの「豆絞りを、、鉢巻きにしながら、、」
      皆私たち、、兄弟二人には
        気が付かないのか,、、無視しているのか?

       しばらくたって、、、父母が会場に着いた。

       突然、、私と弟は、、、
         百年の知己に会ったような
          にこやかな、笑顔に取り巻かれ、、

         祭りの小道具をくれるやら、、、
           お餅のつき盾をくれるやら、、、
          どこぞのおばさんが、、、
        父の近くに寄って行った私と弟の
        「おみ足、、洗いましょう!!」と
        タライに水を汲んで来て 

         足を洗ってくれて、、、浴衣を着せてくれて
          旅を履かせてくれて、、、
           さ、、、、皆のとこへ行って
            お祭り見ようね、、、

          父の御威光のおかげで、、、仲間に入れてくれた時、、、

        弟が言いました。
       「お姉ちゃん、、お父ちゃんが来ると、、
         村の皆が、、僕たちまで、、良くしてくれるね、、、

         友だちがみていたら、、、
        また、、階段から突き落とされるよね、、」

         「 ホント、、、
         村の人は、、役に立つお父さんだけが大切なのよ。
         大切にされたかったら、、、大きくなって
         村の人が必要な、、、医者とか、、先生とか、、
         役場の偉い人とか、、、農協の偉い人とかにならんと
          無視されるな~~~」

         疎開地は、、戦争のドサクサの、、貧困から
         立ち直らねばならない、、、人々で一杯だった。
          唯一の医師の息子や娘、というだけで
           大きな態度で、、、特別の条件で
             得だと思われる事を
              受け取ることは、、、

           笑顔の、、裏返しで、、、
          「この餓鬼ども!!
             親父のおかげで、、得ばかりしやがって、、、!!」

            裏の顔が見えるようになってからは
          私も、弟も、、幼いうちに、、
        大人の心が読めるようになってしまい
        自分が自分であること以外には
         他人の笑顔も、勘気も、気にならなくなり
          「人から必要とされる人間にならないと
            自分という人間が、居ないのと、、、同じだと、、」

        弟と顔を見合わせて、、、身に余る待遇には
            僕も、お姉ちゃんも、、居ないという事だね!!

            幼い弟に、私は、大切な事を気付かせてもらったのでした。

          狭い、部落や、村落に,、老いてから、、
          終の棲家として、、、移住したいとき、、

          相手の部落や、村落が 中間に入れてくれる何かが無いと、、

           自分の都合で、、古民家を安く手に入れて移住しても、、
           中間に入れてもらえないという、、、
                役立たずでは、、、
                   移住そのものが、、、
                     孤独への墓穴を掘るのではなかろうか?

        無作為に、サイトに飛び込んでくる、、、格安の古民家の売り物!!

          古民家は、、借りて住む方が、、合理的だと思いながら
           いつも入ってくる,、京都の綾部とか
            小豆島の格安物件をみながら、、

              40歳代なら、、、仲間に入れてもらえるよいう
            自信もあったから、、、
           日本古来の古民家に住むチャンスはあったのに、、、
          78歳の今となっては、、、
          こんな古民家で、、、 暮らして見たかったな~~~!

         いろりや、障子や、、 山並みや 海の見える
          古民家の宣伝を、、クリックしながら、、、

           他のサイトに宣伝した方が、、、
             若い移住者が見つかり
              過疎化が防げるににと、、、
                思いながらも、、、

              なんとなく,、クリックして、、、
            観てしまう、、古民家の宣伝は
              なんとなく、、、本当に探している人は
                40代だと、、思いますね。

             地元の人と仲良くできないと
              古民家であること自体、、、
                維持できませんよね。
         
        
         
        
         


78歳になるまでには、、、

世界のどこかで、、、
ニュースになる様な事が続きました。

時代に取り残されそうな時

恥ずかしながら、、、
   いい年をして

学びなおしに、、近くの大学に

     聴講生として、、、
      パソコンの授業を
       受けに行ったりもしましたが

スマホと同様、、、
  ヴァージョンアップが早くって

せっかく働いていても

パソコンや周辺機器の代金が、、、
大きな比率で、のしかかってきました。

家族全員が、定期的に、パソコンを買い替える。。。

勿論、、ウイルスバスターも回転する。

そして、ついにPHSなる携帯電話を持って

息子達と連絡し合う日々が来た。


親は死んではいけない、、と

一生懸命生きていた時代が有った。

何時しか、、
、のど元を通り過ぎた、、、時間が

気のせいか、
飛んで行く速さになって、、
時がつかめない。

気が付くと、息子達はスマホを操る孫たちに囲まれ

今は、、、生きねば、、、
一所懸命生きている。


「白い巨塔」という、、、外科医の集団を
大學の医局、、開業の先生、、評価を得ながら、

その物語はドラマ化されて、
、医師の世界を

外側から見える部分の展開を

聴衆に、、、
面白おかしく、、
ドラマにしていった。

元来、、外科医のルーツは

昔は床屋であったと聞いている。

床屋は髪も切るけど、、瀉血もした。

床屋の看板になっている
    ぐるぐる回るあの、、
      不思議な
赤と青と白の、、、ぐるぐる置物は

静脈と、、動脈と、、、包帯を表しているという。

あけても暮れても、、、
お金に追いかけられた時代が有った。

一度、、、返済した住宅ローンの実績を使って
もう一度、、ローンの借りなおしをして

幼い時代から
「オブザーバー」のような参加が続く。
   日本の、、母ちゃんという、、存在?
       

何時しか、、蚊帳の外からばかりの参加では
自己否定になりそうになる、、、

日本の母ちゃんは
  日本の歴史そのものが

  男性が支配する社会構造になっているからかもしれない。

世界で、、びりから数えて方が早い、、、
  日本女性たちの、、、社会進出、、、

  サンゴのように、、、
  植物に化けて、、、

  いっせいに、、月夜の夜に
卵を放ち、、、
  サンゴ礁をつくり、、、

  魚たちの、、、拠り所となるように

   サンゴ礁になれない日本の母親は

  老いたときに、、、社旗的にはそれなりの地位はあるが

   定年後は、、、実は、、日本は

  男社会だったと、、気が付いたとき、、、

子育ても家事も食事も
  人任せにして、、、選んだ仕事は

   キャリアーを磨けても、、
  人の一生の、、潔さを、、教えてはくれないだろう、、、

  老後は、、きっと、、孤独を感じるかもしれない。
やり残したことに、、

 人生の幕を降ろせない、、、
   散り損ねた、、、桜の花は、、、
     枝にしがみつき、、、

  しわ伸ばしのサプリメントを探しているかもしれない。

日本の男社会で、、、中途半端に
  社会進出しても、、、

  果たして、、自分が死んでゆくとき、、、
  
潔く、自分は過去になるんだと、、
   死の受容が出来るのだろうか・??

 日本の男性支配の社会構造は

     何処へ征く??

高校から大学まで
同級生だった友人は

一貫して「独身で通す人生」。を語っていた。

お兄さんは医療関係者だったようであるが

幼いころから
主体のある、、自我の強い妹を
  どのように見ていたのか?

旧家で、財産家だっただけに
 未来のライバルになるかもしれないと

力の、、、半端でない、、主張の強い妹は

未来に於いて、結婚しようが、、独身であろうが、、

長男の自分に「全権をたくし」、、「嫁に行く」

日本の、スタンダードな女性とは違う事を
感じていたからかもしれないが、、

私には、、ライバル同士のように見えた。

大學を卒業すると
研究者として、、独身を通した、、、。

ヤフーで検索すると
研究者ナンバーと
社会でオキュペイションしていた経歴が出てくる。

どんな時代でも、
女性は、独身を貫けば
ある程度の社会参加は出来ることを
彼女は証明した。

しかし、、、

男性は、家庭も地位も、子供も持てるのに
女性の社会参加は
   独身、、、、、

 彼女は、満足している。

自分んで、、切り開いた社会の椅子は
座り心地は
   よさそうである。

にこやかな老女になっていた。

  














最新の画像もっと見る

コメントを投稿