花鳥風月、、2023年からの第二の日記

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雪掻きに始まり雪掻きに終わる冬

2022年12月14日 | 日記
もう、、、14日なんですね!?

大学生の頃、、、父が亡くなった日の事を
雪が根雪になりそうな12月、、、思い出すのですよね。



和歌山県の山奥に、、、
    疎開した、、、
      無一文の父。

母の幼友達が
精米所で、糠だらけの眉の下で
懐かしそうに,、、米を一票くれた時

母は米俵の温もりに
涙がこらえきれない、、、故郷を感じたと言っていた。

戦地の外国で、
総合病院の院長をしていた父が

「髭の医師」という、、
 大きな見出しで
 戦場に行く現地の医師に、
 外科手術を指導していた
 写真入りの記事を
 小さな箱に詰めた。

メス、コッフェル、手術用の鋏、
一握りの医療器具と

新聞記事の切り抜きの束を

通行手形になるかもしれないと、、
      思ったのだろうか?
顔写真の入った記事ばかり切り抜いて
手術道具の入った箱に入れて、、、
母は日本にたどり着いた。

しばらくは日本であることが
不思議に思う朝であったそうです。

さっきまでは、、戦場だった。

父にも、野戦病院への出動命令が来て
おきまりの、、、
   戦場訓練の日

皆が担いで、
  地面を這う武器を

担ぐだけで、、
  前には進めないという

辛かった出陣訓練を、、、
   周りの兵隊さんが助けてくれたと

苦笑いしていた、、、戦場の想い。



野戦病院では、、、
  包帯も薬も無くなって
現地の野生の植物を焼いて、
創の手当てをしたことも有ったと言った。

病院に帰ってきて、
   次の日の
   戦場へのバスが
      来るはずが
        来なかった、、、!!

玉砕の最終段階へ入っていた、、、太平洋戦争、、、


昭和の 太平洋戦争は、、、
  最後のバスも無くなり
日本への
   最後の連絡船が
      出るというとき

一隻の護衛戦も、、、
   連絡船にはつかなかった。

運だけが頼みの綱で
帰国できることになり、、、
    着の身着のまま

手術道具の箱だけ持って

長男と4男を伴って、
   連絡船に乗ったときのことを

12月になると、、、話していた父。

 新年を迎えて、、、父の弟の家族

           東京で先生をしていて
            同僚と結婚して
             3人尾子供を育てていた父の妹。

          茨城県ににテープレコーダーの会社を経営していた
            社長夫人になっていた、父の末の妹

          父より優秀で
          親ぎも達者だった、、、弟さんは

          故人となっていた。

          母の弟の家族

          日大の工学部中退で
          シベリア抑留経験のオジサンは

          背の小さい人だった。
          目は鋭く、、、私には厳しい人だった。

        お兄ちゃんと呼んでいた、、大学生が2人いた。

          高井のお兄ちゃんと呼んでいた青年
          岡本のお兄ちゃん、、、

          何かと楽しい話題で、遊んでくれたのは
          どちらだったかな??

       後藤のお兄ちゃんは
       中学校の兄の同級生で、東京のクラスメートだった。

      夏休みに 和歌山までやってきて
      新学期が始まるまで
      兄と一緒に、疎開地の川遊びをしていて

      生涯の友人のようだった。

      実の兄より、、常識の豊かな優しいキャラクターで

       東京に来てからは、、、我が家のイベントには
       いつもいらっしゃっていた。

       目の下に傷の有った、、
       看護婦さん
       小さな月の様な、、可愛いポイントだったが

      本人は気にしていた。

   我が家で唯一の、、母代りに頼れる
      正看さんの石井さん
       病院車の調整に通ってきていた運転手

    パートで来ていた、、渡辺のおばちゃん、、、

    16歳で我が家の厨房に来た,、、「あつこ」

    中卒の女の子だった。

   お姉さん、、、お姉さんと、、私を呼んでくれていたっけ。

  疎開地を13歳で出て、、
   東京の父の故郷の市谷あたりはビル街とお寺と商店街

    下町の、、古いお寺を、診療所に改造して

    開業して、、、6年目に父は,、、天国に行ってしまった。

   疎開中の和歌山の、神慮所で、、そのまま
  村人の囲まれて、、、あのまま居たら、、、
  父はもっと、、、長生きしたのかもしれないと、、、

   明治43年生まれの、、激動期の日本の戦争を

    真正面から受け止めねばならなかった時代を生きた父は

   無口な医師だった。

  戦争中に生れた私は、、、出生の時の産着の写真も無い。

  5歳ぐらいまでの写真が残っていない。

   疎開地の皆に頼られて、滅私奉公の働きは

   無一文からの脱出、、、
    東京への帰還
     旧いお寺さんのおかげで、、、開業。

    市谷の、唯一のお屋敷どうりの長男として
    歌舞伎門の有る居屋敷から、
   慈恵会医科大学の学生時代を過ごした、、、
    貴族生活の様な恵まれた環境から

    母が亡くなり、、、後妻を向かてからの人生は
    放浪の旅の様な運命に出逢ってしまったと、、、
    40歳で亡くなった実母の事を、、、話すとき

   大きな二重瞼が、、、空の遠くを見つめたまま

  動かなかった。

   医師免許所だけを持って、家を出たそうです。
   それからは、、、激動の人生を、、、戦争に翻弄されながら

   富国強兵の時代を、、、日本と戦場の生活だったという事です。

  父は無口の外科医でしたが
   野戦病院での従軍経験がある為
    疎開先の無医村では、、、
  全ての科に振り分けられるであろう患者さんを
  全科にわたって診療するという
   スーパー外科医でした。

   アメリカに占領された日本は
   山間部にまで「ジープ」に乘ったアメリカ兵が来ていたそうです。

   村の診療所には「四角いトタンの様なブリキ缶に
    バターやチーズ、、、マーガリンを配っていったそうです。

  父はそれを、村の人たちや、患者さんに
  そして従業員の皆に、、、惜しげもなく、、配給していました。

  手元に残る家族分だけのバターを
  厨房のおばさんがたは、、大事に使っていました。

  戦後の疎開地は、、、引き上げてきた、、、

  たった一人の医師の激務で、、医療体制は、、最悪でした。

  自前で、村の診療所に医療機械を買って
  月給は、レントゲンの機械代、、
  手術道具や手術場の設備となり

   手元に残った物は
   二階を開放して、、、街から芸能の師匠を呼んで
   疎開中の村人の集える「文化教室?の様な」

  戦争で、うつ状態の夫人や
   村の御婦人とのコミュニケーションの
    芸能お稽古のできる集会に、月給は役立てていました。

   電気のない疎開地に「ダムを造る計画が有りました。」

   小さな集落が水の底になるという「ダム計画」が
  政府と自治体の会議で実行に移されて

   串本が本来の活動の場であった祖父が
   「頼まれ町長」の役を引き受けたのは

   戦場まで行って、、戦場で散る運命の軍医を

  最後の連絡船で連れ戻してきたという
  ダム建設には必須の外科医を、疎開地まで連れてきたという事も

  この村で、、
 校長先生や、、村長さんや町長さんを
  引き受ける回り合わせが来たのかもしれません。

    27歳で西海岸に留学して、アメリカの教育を受けた祖父は

  和歌山県庁との人たちにも
  親類が居て、結構な役に立つ人だったようです。
  ダム建設には、、アメリカで蓄えた物は勿論

   いくつか持っていた山林も、全てダムの建設に
   側面から応援金として出してしまって

   ダムが出来た時には、、、無一文に近くなり
  「政治には、、お金がかかるね~~~」

   ぼやきながらも、、、ダムの為に建てた旅館も、自宅も

   ダム建設が泡ると同時に、、手放して

   東京に帰る父とともに、
   祖父家族も、新規開業の東京の診療所での生活が始まったのでした。

   祖父は「叙勲」されて、、、
   ニコニコと、、皇居に出向いていました時の顔が

   最高の笑顔でした。

   祖父が、、恩給や、年金が有ったと追う事は

   ダム工事や、、村長や、、町長をしながら
   校長先生までして

   戦後の教育を
「アメリカに追いつき追い越せ!精神」に
       焦点を合わせ
   現代、、平成の世で言う「シュウカツ」の
   財産整理が、、、町長とダム建設への貢献で

   疎開地を去る計画だったのかもしれませんね。

誤算は、、娘夫婦でもある「医師夫妻」を
  疎開地のダム建設に巻き込んだための

      蓄財が出来ないまま
        借金開業をした父が
          健康を害してしまい
         54歳で過労死の突然死だったと追う事でした。

    両親も家族も疎開地で診療所をしているとき

  6年生まで10頭の山羊を飼って

    家族や、入院患者さんのミルクをゲットしていた長男が

      中学は、、、たった一人で東京に出ていった事でした。
        一足先に、、、開業予定の旧いお寺に移住したことでした。

  学徒出陣で帰還できた父の弟さん(叔父さん}は28歳から
   早稲田の理工学部に合格して、兄の新住居の旧いお寺に同居していました。

やがて、、学芸大学を卒業した女性教師と結婚して
  疎開地まで、父を訪ねて奥さんになるヒトを伴って
     疎開地で、村人や祖父家族とともに

     結婚式を挙げて、、、その時私は

   初めて「振袖を着せてもらって」

   教会結婚で言うなれば、、、花嫁のベールを持つ少女?

   人の前に出たのは、、、初めてでした。
  多分、、、花嫁さんより緊張していたかもしれません。

   花嫁さん衣なった彼女は
   後に、教頭先生になったような女傑で

   美人で、、のちに東京に出た私が

    高校に通う頃には

    小松川高校の同級せいから、、
   「貴女のおばさんが受け持ちの先生だった、、、」などと聞かされて

   「 縁」の持つ不思議に、しばし、、、返す言葉が有りませんでした。

  いろいろな親戚が東京に居ることがわかり

   明治の晩年の誕生日を持つ多くの日本人は
   戦争のおかげで、、、放浪の人生を余儀なくされたことが
    暗黙のうちに、、解る様な時代を、、

   祖父も父母も生き抜いたのだろう、、、ね。
  東京に来てからは、、、大学生活や
  国の命令で戦地で総合病院の院長をしていた指導医の父は

   開業の様な、、医師以外のマルチ才能は全くない人で

    おりからの「健康保険制度も、難敵で在ったようです。」

  外科医で抗生物質で化膿を回避するにも
   保険制度の決めた日数では
   患者さんの傷が
    膿んでしまう恐れがある為

  自費で使う抗生剤が経済を圧迫していた。

  「外科医」にとっては手術場の器具や機械
   おりからの二重造影の回転式レントゲンを買う事や
設置する「鉛の部屋の改築など」

  元の寺の痕跡が無くなるほど
  増築や改築、、、設備投資に明け暮れて

   居候も、、看護婦さんも、、厨房も、、、女中さんも

  我が家には、、、何人が住んでいるのか??

  ごった返すような、、開業の日々でした。

 「父の体力は持つはずは有りません。」
母は、、子育ても、食事も、、洗濯も苦手な
「音楽大学のピアノ科を卒業したハイカラさんでした。」

  80歳の生涯を、、現役で、音楽教室を主宰していました。」

幼いころに実母を失くした母は
後妻に育てられて、当時は珍しいキャリアウーマンでした。

母親としての、、、優しい母に抱きしまられた経験は有りません。

しかし、、人間として、、私ごときがかなう相手ではないと思いました。

指導力と言えば良いのか、、、人材配置力と言えば良いのか?

 実の娘であっても、、鋭い客観視で、配置されてゆく為

   居候の3姉妹の方が、、レディとして
   母の心を捉えて、、母の娘の位置にしっかりと居ましたね、、、

  小松川高校の制服も一着しか買ってもらえない私。

  杉野ドレメに通わせてもらって
  母のピアノの発表会のドレスをつくる従姉は

 っ葉を銀座のマギーに同行して

  「おばちゃんの次の発表会のdressの生地よ!」

  私にも見せてくれては、、、デザインを考えℬながら
母の笑い声が聴こえました。

  私は、やきもちの心が起きなかったのが不思議だと思うほど
  母が苦手で、、彼女が懐柔してくれていることを
   とても感謝をしていました。
  私も、、彼女のフアンでした。

 彼女は後に、、大病院の末っ子の医師と結婚して
  イタリア料理店を経営しながら

  ゴルフはシングルという
 見事に、、レディの道を全うしました。

  素敵ないとこのお姉さんでしたが

  笑って会釈するだけで
 二人で話した尾いう記憶は有りませんね。

  とにかく、、実家は、、、私の居場所は有りませんでしたね。

当時の女性は「18歳までは責任上、親の家に居ても良い!」

廊下で会うたびに、、、8歳年上の兄から言われましたね。

長男尾権力は絶大で、、弟妹は
  「長男には、、数多の事をしてもらったという事にしなさい!!」

 父は無関係に仕事だけする人でしたが

 母は、自分の弟家族の三姉妹と
  実の蒸庫たち3人を、、
    まるで全員が子供たちのように可愛がっていましたね。

 「お前は、、家から出てゆく人なんだから、、、

    お兄さんがたより、、テストの成績が良かったり
     文化祭で舞台に出るからと言っても
        行く気がしないのよね、、、」

  他に仕事が有りすぎて、、、お前は出ていった後の
  自分が生きる道の仕事を休むわけにはゆかないからね、、」

 兄と母は名コンビで居たのも、、記憶に残っていますね。

   母は、、私の事を愛するという
     母の愛を学びそこなっていることだけは
        確かです。

     幼くして実母を失くした母は、、、、
     母から教わった事は、、、
     ほかの娘たち」のように
     母に甘えた記憶が無いのでしょう。

     義理の中でスムースにゆくことで
     大学卒までやってのけた母にとって

     実の娘の扱いがわからなかったのかもしれません。

   絶えず、、第三者の立場をとって
      「子供が多すぎるのよね、、、」

   何だか、、母の性格や、、音楽をスル人の気持が判るだけに

    私は、、母が気に入る人でなければ


    何事も、、難航するという事だけは心に入れて

    社会で受け入れられる力を付けねばと、、焦る思いの青春時代でしたね。

    父㋐死ぬ前に言ったことで、、、

    「運転免許だけは、母さんに、何と言われようと,、とっておきなさい。」

   父から言われたことは、、、今も聞こえてくるのです。

   その父が、、感動的に話してくれた、、、
   歌舞伎の18番
      「忠臣,、、蔵」

    学生時代に観たそうですが、、、暮れの14日になると

    その話をしていましたね、、、

   本日は、、、5時近くから、、、
   NHK の他局にチャンネルを合わすことにしました。

   NHKに勝てるのは、、、私的には「父の想いで語りの忠臣蔵です」

   何お話をしたかって???

   暮れのNHKの素晴らしい番組を、、、本日は観れませんという

   自問自答でした。

   私はNHKのフアンですからね。

   雪掻きで、、疲れ切った脳ミソが

    昔は雪掻きなかった時代の事を、、、めそめそと

       思い出しながら、、、べそ柿日記でした。

  でも、、TV番組が待ちどうしいのは、、、

       相棒と、、忠臣蔵、、、

     誤字脱字の日記の推敲と、、、訂正は
       雪掻きの疲れが抜けてから、、、

     孫が観てたら、、ガサツな婆ちゃん麻日記を
    自分流にアレンジして、、読んでください。

     
   


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