花鳥風月、、2023年からの第二の日記

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東京女子医大の、イメージ

2025年01月18日 | 日記

吉岡弥生さん、、、、父の時代には、

日本の男尊女卑の社会の情勢の中で

毅然と生きた女医さんということで、

父の言葉の中にも、、、

母の言葉の中にも

娘を教育するに当たって、、、

しばしば、娘には話して聞かせた、、、たくましい女性でした。

親心には

「男」と「女」の世界の男尊女卑につながる分別よりは

「男性」「女性」という、、、

「男女同権」に発展してゆく新しい国際社会への兆しであり

明治の夜明けと同時に、、、女性も学問を志すという

 庶民の女性からも、、、到達しうる「職業婦人」への道!

代名詞のように使われていたのが、、、、吉岡弥生さんだった。

私の祖父は、串本を基盤に、

熊野の山村や、和歌山県知事さん

(当時はオノシンジさんという名前だったと、幼い時代の記憶です。)

はたまた、、、

国会議員さんの早川たかしさんという人など

戦後の復興を、一生懸命に生きた、、

町長さんや、村長さん

   校長先生など、、、歴任していた祖父に、会いに来てくれていました。

選挙で選ばれるというより、

アメリカの生活をしていることと

筑波大学の前身の「師範学校から、ロスアンゼルスに留学したこと」

串本の親戚演者は

「女医の《みどりちゃん》と愛称で呼ばれて

流行っていた女性医師の開業医の縁者や、、

代々の薬を扱う「薬剤師」が

「坂本薬局」の「タダおじさん」「はるみちゃん」、、、

  晴美ちゃんの弟さん

(この人は東京の薬科大学に合格して、、、)

開業していた東京の家に訪ねてきてくれました。

、、家族縁者に薬剤師が多かったということが不思議ですよね。

当時は「町の知識人」という位置のように、、、

「無料相談」に、心底耳を傾けながら、、、

  「エビオス」という、、、酵素のような胃の薬を

    お客さんが買っていたのが記憶に残っています。

「胃の薬が、、、ストレスには好いことは間違いない、、」

「エビオスは,多くの人のストレスからくる胃にはおすすめじゃよ!」

音松おじいさんは、、、

(串本の坂本薬局の一番長老のおじいさんでした。)

、、、笑いながら、、私の頭をなぜてくれながら

コンコンと咳き込んでいた。

あのころのおじいさんには、、、

 ぜんそくの人が結構な数、居たのを記憶している。

 私は、、この薬局が、、

 どれほどの,、等親にあたる親戚なのかは知らないが

 母と串本に行った時も、、

 祖父と串本に行った時も,、泊めてくれた。

 晴美ちゃんという薬剤師は、、

      美人で、性格は男性のようにさっぱりしていた。

はきはきしていて、、、オカッパの薬剤師だった。

子供の私は、、、ニキビのいっぱいできた晴美ちゃんが

如才なく、男の人のようにお客さんに答えて、

  進める薬を

おじいさんのお客も、、、おばあさんのお客も、、

喜んで買ってゆくのを見ていて、、、

当時の社会情勢の

 「男尊女卑」の世の中の風景とは違うので

かなりの影響を受けたのが、、、、串本薬局だった。

 晴美ちゃんが「桟橋」に連れて行ってくれたとき

 ソフトクリームを一緒に食べました。

 疎開地の熊野の山の中でしょうがこうに通っていた私は、

  駄菓子屋さんしか知らなかった!!!

ソフトクリームというものを始めて食べて

   ほっぺたが落っこちそうになるほど、、、おいしかった!!。

この世に、、こんなおいしいものがあるなんて!!!

  晴美ちゃんの顔は、、一生忘れない。

疎開から解放されて、、父の生まれ故郷の東京に

 45歳を過ぎてから、、、初めての開業を余儀なくされた父は、

戦後を生きるには、、、税制優遇で、、、廃墟のような街中に

無料診療覚悟で、、、

陣地後に「掘っ立て小屋で暮らす人々」に

医療を届ける道が、

   戦争からの復興時には

    ごく自然に、国が推奨していたので

      戦後の下町には、医療施設が開かれていったようだった。

「開業は、、一に在宅,、、二に在宅、、、三四がなくて,、、

    五に在宅、、、、」

     あとは、、気長に、、患者さんの言う悩み事を聞いて、、、」

  長い時間を、、、寄り添うための聞き役で、、、

       気が短い医師には、、、できないよね。」

父は、、つまらなさそうだったが、、、

    あっという間に、、

    一日、150人ほどの患者さんが

      下町の開業医の家に、、来るようになった。

  和歌山県の疎開地の時のように、、、

    東京の下町の開業医は、、、

  「羨ましがられる存在ではなかった。」

    中学の同級生の男の子が

    「おまえんち、、、医者だろう?

      医者って、偉そうに思っているんだろうな?」

  「お大臣」って、、このあたりの子供らは呼んでいるの知ってるか?」

  転校してきた私には、警戒心のほうが強くて

    答えようがなかった。

その子は,、続けて言った。

  「僕んちは、、お父さんが慶応大学卒業で、会社なんだ。

    だから、僕も高校も慶応高校行くんだ。」

  その子は、言葉どうり、慶応高校に進学して、

    下町の同級生とは、、

高校に進学してからは会うことはなかった。

   会社ねェ~~~慶応ねエ~~~

    田舎育ちの私には、、、

   男の子が、どういう気持ちで話してくれているのか?

   わからなかった。

   中学を卒業してゆくとき、

   東京には、多くの大学や、付属高校や、、、公立高校や

   国立高校があることが、だんだんわかってきて頃であった。

  昭和30年代の下町のタクシー会社の社長さんの家の子は

   私立の大学までつながった高校に進学した。

   少しずつ、、、東京6大学とか、、、

   進学する社会の状況が、耳に入ってくるのだった。

  私の父は、農学部に行って、、、

   おいしいお米を作りたいと思っていたそうですが

   戦争が続く時代に進学の時代が重なったため

   時代の要求というのか、、、父の実父というのが

  宮内庁勤務だったせいか?

   お国のためにという、指針で生きていたような時代でした。

   外科医になって、西欧の医学を学び

   戦場で、大きな怪我からも、兵士を治療できる外科医になるようにと

   いきなり2年生入学を許可されて、

   卒業してから、4年間ほど

   大学に残って、修行や研究生活の後

   戦場近くの病院に、院長として、自分の名前の付いた総合病院で

   現地の医学生に、イギリス医学を指導したそうです。

    看護婦さんは

       提灯袖のような服で、

          コックさんのようなハットで

    日赤から派遣された毅然とした女性だったそうです。

    この勤務地には、、男尊女卑はなかったようです。

    お座敷に勤務する女性たちも、

     国の雇いという、、、

      「身分はしっかりした女性」たちだったそうです。

    戦乱の時代の、、医師も看護師も、、お座敷で勤務する女性たちも

    命を懸けた勤務地だったのですね。

    「戦場での、お座敷の遊びに見えるひと時も、

      「忠臣 蔵」の遊興さえ、目的のためだったというから

    戦時中のお座敷遊びに見える女性たちの役割も

    命がけのプロ根性がないと,

        請け負えない職場だったのかもしれませんね。

  男尊女卑に見える社会ほど、、、

   プロ根性の女性の職場かもしれないなどと、、、

      田舎育ちの私は、、、医師とか、薬剤師なら

        自分にだって出来るはずだと

    ひたすら勉強を始めたのは、中学校の頃でしたね。

  東京大学を受験したが、、、失敗して泣いたという父は

  慈恵会医科大学の2年生に入学できたそうです。

   、、、早稲田高校、、、慈恵会2年生、、、

   不思議な飛び級の入学が、当時はあったんですね?? 

  開業した下町の、線路の向こう側には

   大学時代の仲良し同級生や、先輩が開業していた。

  手術患者さんが救急の時などは

  同級生の先生らが、、、助けにやってきてくれて

   自分も、、電話がかかってくると、、、

     手伝いにいたりしていた。

   母は 開業したての頃は、、、

     「吉岡弥生さんの話をしてくれながら、、、」

  あなたも,、女医になって、お父さんを手伝うといいね。」

    ある時期には、、、本気で、、ジョイの素晴らしさを説きながら

「日本では、、まだまだ,、女医さんが少ないけど、、、

     おじいちゃんの家族には、

   女医さんがいるのは知っているでしょう?」

  日本が、、進学しない女性ばかりの時に

   吉岡弥生さんは「女医」になって、

      女でも、社会に参加できるという、

            お手本になったのよ、、、

       飯田橋から、、坂道をあがって、、、

      牛込のほうに歩いてゆくと

      毘沙門天があって、、、もっと歩いてゆくと

      東京女子医大がありました。

      そこには、、吉岡弥生さんの「像」がありました。

      昭和30年代の頃ですよね。

     女性の医師とは別に、昭和の初期の時代は

       父は、戦場の近くの病院で、臨床の指導をしていたそうです。

       昭和40年には、、、戦後の疎開地の激務、、、

        40歳過ぎてからの開業、、、

       日本が敗戦する前は

      総合病院の院長だった父にとって

      戦乱の中、、、軍に従軍して、、、戦場での勤務

      自分が院長だった病院ごと、、息子娘の3人を亡くし

      終戦の一年前の夏、、、軍からの帰国命令でした。

      本土決戦に備えて、、、軍医の帰還んが、父の職務だった。

       帰還後、、、疎開地でのダム建設の計画に沿っての

      山中での地域医療に従事、、7か村、、無医村という

      熊野の山中の、、、ダム建設の地域の外科医として

       工事の間に予想される怪我人を手術で治療できる医師として

     イギリス医学の外科を取得していた父に

      現地まで、ダム建設の地域の村長を命じられた祖父が

      敗戦の色濃くなった戦場近くの病院まで、自ら

       娘夫婦の外科医を迎えに、現地入りして

       その場から、、着のみ、、着のまま、、

      リュック一つだけで、、、最後の連絡船で

      日本への帰還がかなったのでした。

       男性医師の、、、厳しくも、、激しすぎる

         激動の人生には、、、胸が詰まりますね。

      戦争だけは、、、

     2度と、、、日本はしてはなりませんね!。

       

     ダムの建設が終了した13年後には、、、

      父は生まれ故郷に帰還できることになりました。

      日本全国で50000人ほどしか居なかった医師の役割は

     働き方改革どころではありませんでしたね。

     54歳で、、前の日に、、、千葉さんという患者さんの

     手術を終えて、、、

     麻酔が冷めるまでの術後管理で、、、うとうとと、、、

     眠りの気分のまま、、、

     父は永遠の眠りに旅立ってしまいました。

     父の激務は

        患者さん側からは、、、

          思いやってくれる余裕はありませんよね!

    自分の命しか見つめる余裕のない患者さんは

      父がどんなに疲れていても、、、、

      明日までは待ってくれません。

     でもね、、、生まれ故郷に帰還出来て、、、

      政府の税制優遇で、廃墟の中で暮らす陣地後に、

      往診などにも応じて、激務の父は

       開業7年で、、過労死、、、医師が少ない時代だったのですね。

     しかも、、外科医は戦場で居なくなった時代です。

     現代のように、、、お金に執着するような

      医療への倫理観がない時代とは違っていましたね。

      父の時代の医師は、、尊敬しています。

     心から、、、あまりの忙しさと、運命に従順すぎた性格と

      周りの医師への理解不足も、

     激務の連続になってしまったのでした。

       父の本籍のあった市ヶ谷の自宅跡には、、

      ホテルや、、ビルが立ち並ぶとき、、、

      自宅近くにあった「東京女子医大」が

      ビル群になって、輝いていたのを知って

       「お父さんは、、お前は女医になるといいと思うよ!」

       目をキラキラさせながら、、、吉岡弥生さんの話を来てくれた。

     しかし、、、「お父さん若いころも、、女医はいたけど、、、」

     「お父さんは、女医さんと組んでの勤務はこりごりだね!」

      もし、、お前が女医になってとしても、、、

         お父さんは、女医さんとの一緒の仕事は断るよね。」

      理由はなぜだかわかりませんが、、、

       「とにかく、、、男性の医師とは、、医療への倫理が違う。」

      吉岡弥生さんは、、女医さんのお手本だけど

       父の若い時に仕事を一緒にした女医さんは

     「医療の相棒としては、、、組みたくない,、、ネ!。」

       子供だった私には謎の言葉として、、、

       父の言葉は今も残っています。

     医師になる心は「謙虚に患者さんから学ぶ力が必要だ」、、、と

     父は、外科医の初めは学術のレベルではなくて

     「アンブレスーパレ」という

      床屋さんが「瀉血」などもしていたといった。

      床屋さんの「青と赤の、、くるくる回っている看板」は

      動脈と静脈だと、、、父は教えてくれた。

      後日、、ヨーロッパの薬剤師交流学会の時

      ウエルカム医療博物館で、

      外科医が誕生までの展示物を見る機会があった。

     一人に医師が生まれるまでには、、、

     「技術」を「学術」にまで発展させた、、、

      苦労の努力を惜しまなかった先祖の努力が

      医療に対しての「医の倫理」となり

      学術の世界の医師の誕生につながるプロセスには

      命の前に、、、ひれ伏した謙虚な考え方があったに違いありません。

     医師は、治療の対象の患者さんからは、、神様のように

     拝まれたり、、尊敬されるかもしれませんが

      多くのほかの職業と同じように、、

      仕事に対する謙虚さが亡くなった時には

      学ぶ力もなくする、、、、と

      父は「パレの話と,女医の話をしながら、、、

      生前は「女医になるといいよ、、、」と、

      吉岡弥生さんの話のエピソードを、、、あれこれと

     話してくれたことが、、、思い出されて、、、

      今回の女子医大の報道には、、、

           目が点になってしまいました。

     振り返れば、、、

      私が高校に入ったころは、、、

      父の体は、、

      戦場で、すでに肝臓腎臓、、

    循環系がダメージを持って帰還したこともあり

     54歳で、、過労死という結末で

       我が家は、、、

    嵐の中に置き去りになった船のように

       全員が、試練の人生となりました。

 

      国立の医学部を目指していた弟は合格。

      父が生きていたら、、、どんなに喜んだことだったろうか?

      私は,女医になるという必然性もなくなり

       家族の協力も冷えてしまい

       短大に行くようにと、、、兄もおじさんも

        勝手に願書を集めてくるという

        私の居場所は、、、父の早逝と同時に

      「短大」の願書の山が、届けられて

      連日、、、帰宅すると、、お見合いの相手が待っているという

     「嫁に行け!!!!!、、、攻撃」で、、まいってしまいましたね。

       吉岡弥生さんの「父母の言葉は、、、」

         父が開業して、、、

      仕事仲間になって手伝いをする医師の仲間に

          家族がなってもらいたいという

      「父と一緒に働ける女性医師が、、娘だったら、、、!

         在宅しかない開業医として

    閉じ込められた人生の「閉塞感」を

        娘が医師になってくれたら、、、、という、、、

     見えない、、「患者時間」で

        「外出できない牢獄」から

             出所できる自由時間が

             娘によって、

            つかの間の息抜きができるのではという

      絶対数、、、50000人前後しかいない医師の時代に

       半数近くは、、

          戦場で散ってしまった医師の数を考えると

       娘が女医になってくれたら、、、手元に置きたいという

      貧者の一灯の、夢が、、、

      吉岡弥生さんの

        「女性でも、、医師に成れた」という、、

    父の束の間の安心休息のできるという    

        心に灯った

     「休息希望のともしびだったのかもしれませんね?」

       父母が、、娘を女医にするには、、、

      我が家は、、、貧しすぎましたね。

       「医師になる」には、、勉強すれば成れても、

         「医師をする!」この現実は、、

          絶大なサポーターが必要です。

      サポーターーのある医師は、、、臨床医になるにしても

       親や,サポーターの協力で、

         「世の中で必要」とされる医師になれるでしょうね!

         病理や、生理学の、基礎医学の研究の費用鵜が出ます。

      内科、外科、 、、、、あまたの科の医師は

       父親が開業医の医師である場合、、、

         「収入の全くない基礎の研究時代」の

         サポートを受けられます。

        大学は、、サポーターのいない医学生は研究するには

       天才的な医学の実績を示して、

      「公のサポーター」がつかないと

       卒業してからの10年間をどう過ごせるかで、、、

       父の時代は、、、

      「医師免許を取得してからが、、、親の力」

    「大学と関連して生きてゆくサテライトの開業医の息子たち」は

      大学にとっても、、、

       歓迎できるコースを進められる生徒だっというのが

       昭和40年代ごろまでの、、、

          私の周りのありようでしたね。

      吉岡弥生さんは、、明治生まれの父母からは

        しばしば聞かれる、、、

       「男尊女卑の時代」を

       実力で、女医になった女傑として語られました、、、が。

      父が亡くなった昭和40年代に入ると、、、

        「女子医大」は、、、

      一般庶民が合格できるところではないという

     お嬢様の受ける「女子医大」として、庶民には高根の花でした。

     東大の医学部の学生たちも、、、

       女子医大との交流日には、、わくわくしながら

             楽しそうに、、、

      「今日は、女子医大で抗議があるんだよ、、、」

      「女子医大で、、研究発表がある日なんだよ、、、」

       大卒後、東京大学に勤めていたころ、、、

      5年生の当代の学生らが、、、研究室の実習を学びながら

      とても、、わくわくしながら、、、

       実験していましたね。

     81歳になろうとしている、、、私の時代は

       東京女子医大というのは、、、

        お嬢様でも、、、社会派の、、、選ばれて、

        ご本人も、、

     世間知らずであっても無関係に通用する、

        親力の有る家の

        お嬢様が進学するという、、、

       選ばれた女子医大だったと

       私なりに、、、認識していた女子医大でしたね。

     その、、輝かしい、、、

        一ランク上位の金銭感覚の存在だと、

         別の世界の人たちだと

        今回の事件を新聞で読むまでは、、、

          心底、、、お金には執着しない

          別の世界のお嬢様ゾーンだと思っていましたね。

      金銭的のことで、、、

        私腹を肥やす人材が出るなどと

                   考えたこともない、、

        別格の金持のインテリゾーンだと思っていただけに

        活字を見るまで、、、信じられませんでしたね。

          「吉岡弥生さん」は、、、

        日本の恥部ともいえる

        男尊女卑を、、、実力で突破して、、、

          女性たちに、、医師の道を指差した、、、女傑ですよね!!

       「唐様で、、、売り家、、、と,、、書く、、、三代目、、、」

     女医の魂の家も、、、

   令和の時代には、、、

     激動の、、私利私欲の嵐が吹きましたね。

       次の時代には、、、きっと立ち直ると

            女性の医の倫理を信じたいですね。

             

      

        

     」

 

      

     

           

 

親類縁者は、明治生まれの女医さんや、明治生まれの薬剤師が

 


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