花鳥風月、、2023年からの第二の日記

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時が飛んでしまっていた 

2024年02月21日 | 日記
いつも話していた。。。と思いこんでいた。

   電話を   よく。。。くれる、、、だから、、、

        孫が産まれたと聞いて、、、

             千葉まで、、、飛行機と電車で乗り継いで

                お爺ちゃんになった弟を。。。
          「え~え^^ほんとに??、、じいちゃんになったって??」

   私まで嬉しくなって、孫を抱く爺ちゃんを写真にとって、、、
        パソコンで、上等のプリン年にプリントして、、、送ったのは

            昨日のように思っていた。

                 

         久しぶりに札幌に来たというので、、、会いに行きました、


           ホテルのクロークの前の
              ラウンジの大きなクッション椅子に座った。


                隣りは70歳ぐらいのお婆さんで

                 前は白髪の御爺さんではあるが

             アメリカの紳士のように、、、
           全体からくる感じは、、銀髪の紳士のような感じがした。

           そのお隣には、、、これまたおじいさんが、、、
                魔法使いのような顔で、誰かを待っていた。


            私は、、、この方たちの様子では、、、ココから携帯かけても

            「うるさい!、、」と思う人はいなさそうだと、、、思いながら


             「もしもし、、、お姉ちゃんだけど、、、今クロークの前に居るんだけど、、、」

            「え~~??」
             「僕もクロークの前に居るんだよ、、、」

             「見回してるんだけど、、、??。。。??」

             「 お姉ちゃんも、、探すから、、、」

             立ち上がったとたん、、、電話を掛けていた前の紳士が、、言いました。

            「え~~~?もしかして、、、お姉ちゃん??」



            「「え~~~ェ、、、もしかして、、、チャーちゃん?。。」


              二人は立ち上がって、、、びっくりしてしまいました。

              まるっきり、、、わからなかったのです。


                カウンターの前の席に移動して、、、

                  10時ごろから、、、午後の1時前まで、、、

                    積もる話で、、、食事に行くのも、、、もどかしくって

                  コーヒー一杯で、、、夢中でお話ししましたね、、、。


             子供のころから、、、受験期のころ、、、
                青春時代の千葉大学の頃、、、下宿の仲間の寮を訪問したことが
                    昨日のようですね。、、、

             そして、、、すっかりお爺さん医師になって、、、内視鏡の指導医だった兄貴も

                          リハビリ―の医師をしているとか、、、

                両国高校が100人くらいの生徒を、、、東大に入学ささていた時代。

               日比谷、、両国、、、麻布...開成高校、、、と

              両国10番以内に居た長男は、、、東大を目指して、、合格できると信じて、、、
               2年間も、、無駄にした。、、、東大受験で得た教訓は

                    絶対合格すると信じて粘った二年間という

                     青春を失っただけではなく、、、背中合わせの「敗北感が彼の性格を変えてしまった。」

              もともとは、、、何百年間も江戸に住んでいた父と、和歌山の、、、南朝を守って生きたルーツの母が

              東京の大學時代に出逢っていた縁で、、医師だったっちは、、、

              廻りまわって、、、受験期には子供に東京の教育を受けさせたいと、、
              戦争で疲れ、、、疎開で疲れ、、、時代の川に流されながらも
              終戦の跡の、、未だバラックだらけの、、、稀故郷に戻って来たのは
                昭和25年ぐらいの時に、、中学生の長男を、、一人で東京に戻し
                  昭和29年ごろに、、次男の兄と、、私と、弟が

               東京の小学生として、、、疎開地から、、父の故郷の東京に、、、戻ってこれたのでした。

              当時のことは、、、昨日のことのように覚えている。

              和歌山県の山奥の疎開地から、、、、小学生の二人にとって
                  東京に帰ると言われても、、、まだ見ぬ父の故郷の東京は

                期待と、、不安と、、、冒険の重なった、、、ストレスでもあった事を思い出す。

               電話ではあまり話さない、、、
               親戚兄弟の、老人になりっぷりを聴かせてもらいました。

             「お姉ちゃんは、、未だいいよ、、、若い感じがするから

                 お婆さんって感じまだしないよ、、、」

                 褒めてくれて、、若返らせてくれました。

             弟は、仕事をバリバリやっているので、、、
                     白髪が、銀髪に見える外国人の若いオジサン??
                        仕事が、、看板医なる歳だけに、、、ストレスも多かろうと、、、

               ひたすら、、弟のペースに合わせて、、、
                  私は、、自分なりの、、、
                          時代の川の流れに沿っての捉え方で
                            本音で応答できるのは、、、
                    何年経っても、、、父母の地を分けた兄弟は、、、

                       他人ではないという安心感で、、、

                           日ごろのストレスが、、、だんだん抜けてゆき
                  若返ってゆくような、、話に夢中になれるという、、パワーをもらえた。
                     

             「真ん前に居て、、、気が付かないなんて、、、?」

              「ほんとだね、、お互いに、、、毎月、、、電話しているのにね、、、!(笑い)」

                月日の速いのには驚かされましたね。
                       

               弟は、、団塊の世代で、、、戦後の破壊されてしまった日本を、、、立てなおした年代です。」

                 もうすぐ後期高齢者だと思うのですが、、
                         、肌艶も、、青年のように皺が無くて

                全身から感じる緊張し続けて生き抜いてきた
                      団塊の世代の、、、
                             日本の、、、最後の男達、、、
                                     という

                                  歳をとってゆくのが、、、不思議に思えるのだった。


               戦後の、、破壊されたバラックを、、、元に戻していった気迫の年代ですね、。。。


                姉ちゃんの方が、、、早く、、オリオン座に行って、、、待ているかもしれないが

                 無理を重ねて生き抜いた「団塊の世代の男たち」は

               全身が緊張感でしゃきっとしているが、、、
                            老後の人生を、
                                   どのように生きてゆくのだろうか??

                凡人の私には、、、戦後を支えた男たちが、、、

                      一世に老人に向かって、、、風雨の中でも

                         その貴重な実績の看板は、、、人を動かす力がある、、、
                 
                      coronaで、、3年間、、、

               何処にもと腕をしなかった私が、、、

                「弟の、、札幌駅の近くのロビーで待ってるから、、、」この一言で

                    3年ぶりで、、、札幌駅周辺を観たのでした。

                子供のカラ、、変りのない,、姉弟のまま、、、
                  お爺さんと、、お婆さんになって

                   初対面のように、、、お互いにわからなくなった、、、老人になっても、

                 冬の札幌駅まで、、、外出してきた、、、80歳になる、、姉でした。

                 弟の話を聴きながら、、、

                  最先端の時代を未だに、、走っているように思えて。。

                緊張の人生であったろうと、、、思いましたね。

              スマホの話になると、、、

               「スマホは、、日本の物理学、、世界の物理学が産んだ、、物理学の集積だね、、、」

                 弟は、、笑いながら、、、まさにITが造ってゆく時代に入ったね。

                 パソコンが無ければ出来ないのがスマホだろうな~~~」

                「ITに時代の欠点は、、、「後戻りできないという事だよ。。。」

               あと、、僕に残された仕事は、、、

                母親が、、お産をする、、、
                  赤ん坊が、、必死に産道をくぐって、、、

                    生の世界に突入するように
                    

               お姉ちゃんも、、、僕も、、、お産と同じような、、、エネルギーで

                死ななくてはならにという時代が来るんだから、、、


                  生まれるのも、、一人で頑張るしかない、、、

                   死んでゆくのも、、、仕事の傍ら、、、就活して、、、

                 人生最後には「死ななければならないという、、、お仕事が待っている。」

               人間は、、そういう意味では、、、死を持って「観な平等」なのかもしれないね。

                

                  これからは、、お姉ちゃんは、、人のことを考えないで

                    自分にとって一番良いことが、、、「正解」だと思って

                      自分に目を向け始めて、、、
               「もうひと頑張りいる時代」に突入だね、、、

                   、、、というように、、受け取れる様な、、、お話で、、、

                 お互いに、、、自分への、、、ご褒美を忘れていたね、、、と。

                疲れる暇のない、、、休む暇のない、、、戦後の日本だったね。

              来し方の、、、夢中に頑張っただけの時間を、、、愛おしく振り返る時間を持てましたね。

             世の中で、、、心から油断できる時間を持てるのは

                   兄弟姉妹と思いましたね。

                お父さんの「命日」だったから、、、

                   弟と会えたのですね、、、


  

               弟も、、「会えてよかったよ、、、お互いに、真向いに座っているのに、、、

                      判らなくなっていたなんて、、、笑えないよね、、、」
            



                    国立がんセンターは、、、
                  千葉大が立ち上げて、、、千葉大がCTや、、、MRI,,,

                     早期がんの発見や、研究検診の土台をつくり上げて、、、

                    東北から、、、、来た先生が、、、50周年の栄誉の記念式典をする前に

                    50年の間の同朋たちを、、、退去させてしまい、、、

                      来年からは、、、新顔の先生との仕事が始まるのかと、、、思っていても、、、

                        がんセンターを総入れ替えした先生は、、、もとの東北にお帰りになった。

                   愛知の方の大學に総入れ替えになったという、、、
                      かかりつけだった患者の立場の私には

                    見知らに先生ばかりになったので、、、あの時以来、、、検診は何処にも行っていませんね。

                  いつの間にか、、、東大の、、、がんセンターになっていますね。

                  千葉大学の、、一大傑作だった、、、二重造影時代から、、、

                  弟の開発研究診断にかかわって来た、、、ヘリカルCTも、、

                      今は、、医学の天下餅は、、、東大が築地を動かしているという

                       医療情報が、、、あちこちのサイトで観えますが、、、

                      

                    弟は「さすが東大だね、、、東京都に、、、がんセンターが在る以上、、、

                         世界のがんセンターに育てる役割は、、、千葉大が果たし

                             出来上がった段階で、、、東大が、うごかしていくんだね、、」

          

                  私立大学の勇者と言えそうな、、、慶応大学から、、院長が出たこともあったが、、、

                    東北から、、、北先生に、、、追い出されて、、、その先生も

                 一年後には、、東北にかえってゆかれ、、、

                   ドサクサに「国立がんセンター」は。。

                         「独立法人」に、、子機率ではなくなった、、、。

                   野党が政権をとった短時間に、、変貌して、、、

                    おりからの定年まじかの弟は、、、

                          定年前に

                   勤務先を変えた仲間は、、、「退職金○○円」貰って良かったのだが

                 一年医おくれた退職劇の為に、、
                        「退職金が、、、半分人減らされたんだよ、、、」と

                    ぼやいていたのは、、、もう、、10年以上も前の事になったんですね
                    世間の有名度や、、マスコミに出る花ある人生とは、、また別で
                   70歳過ぎてもローンで、、税金に追いかけられている人生から

                       やっと解放されそうだと、、、しずかな、、、気持ちでつぶやいた。
           
                  私も,、就活する前に、、教授から、、
                    自分の恩師の東大の薬理に行ってほしいと言われて

                      2年後は、、母校の職員になれるという約束で、、、

                         私には、、むつかしすぎるのではと、、、

                        勤務することなど、、考えもしなかった、、東大に、、勤務したのは

                      昭和42年でした。

                     朝日文化賞を受賞された「江橋先生や,、、酒井先生、、、大月外科学の息子さんお時代に入っていた。

                   名物の「高橋」先生が、、、意外な事に、、漢方の大家も顔負けするような

                     漢方ツウでいらっしゃった頃ですね。


                      寿退職するはずの、、、江橋研の職員が、、、急遽、、

                      退職しないことになり、、、3ヶ月の公務員だった私は

                      研究生に変更になり、、、月給が20000円に下がってしまい。

                    生活できないので、(父が19歳の時に急逝して自活中でしたので)

                    研修中の演題が一段落して、、提出した後、、、

                     臨床薬剤師として「東京医科大学」に移籍しました。

                      東大の先生方も、何人か、、、教授になって来られているので

                     事情を話すと、、スムースに移籍できました。
                

                     東大の、、東京における、、すごい力は、、、この時も見ているので、、、

                   千葉大が立ち上げて、、、軌道にのせて、、、すったもんだがあったけれど、、、

                   愛知の、、よそから来た先生に、、、がんセンターを渡さなくても

                    天下の東大が、、後を引き受けてくれれば、、、

                    娘が、、大店に嫁いだと思えば、、、いいよね、、、!」


                    私も、、、愛知の、、知らない大学が入ってきて、、、

                      弟ががんセンターに、、何尾ゆかりも無くなったときは

                        寂しかったのですが、、、

                    東大が、、運転してゆくなら、、、私立大悪の慶応よりは

                     事、、生死に関する「がんの早期発見早期治療ですから、、、

                  国の応援尾確かな東大が東京都内に於いて運転してゆけば、、、

                     千葉大学の市川先生も、、その愛弟子の弟も、、、

                       在る納得が在りますよね。

                        雨嵐吹いて、、、国立叛センターの創始者も

                     それを引き継いで、、世界のがんセンターにした

                       団塊の世代の、、、弟たちも、、、

                    東大に引き渡せたのなら、、、

                  美智子妃殿下時代の思い出も

                    そのまま「東京の病院」の
                    「御国の大事な人をお守りする」という
                   役割を果たせたという自分の人生の歴史になって、、、
                    心のアルバムに、、緊張も、、やりがいもあった人生だったと

                   時代を流れる川が、、、いつか流れてゆくうちに

                        東京の東大の、、がんセンターになって、、、

                            初代病院長の市川先生が、、、像増になればいいね、、、

                          千葉大学卒業の、、初代、、国立がんセンターの院長さん。

                     あの方は、、、院長さんの時代でも、、、

                   小学生に、、癌という、、早期発見すれば一緒に生きられる腫瘍の事を

                        判りやすいものに置き換えて、、、昼間のTVで講義しているのを

                   私はみておりました、、ね。

                   東大の先生方のような、、、帝王学に秀でたタイプで、、人をあっという間に

                      動かしてしまうタイプでは無かったようですが

                     子供の時代から、、主体的に、、医療界の入って来れるような

                     大人の私も聞き惚れる、、心のある授業でしたね。

                   国立がんセンターは、、、弟の時代から

                   マスコミには出ない縁の下で、、、

              日本の安全御為にも、、、必要だというVIPの 顔の管理をしていた記録が

                     医療新聞でもしばしば目にしました。

                   「 もう、、、お産のように、、、

                    人は、、最後に、、、モウシゴトあるという、、、80歳に、、お姉ちゃんは成ったね、、」

              弟いう、、面白いキャラクターの兄弟が居たおかげで、、、

                    北海道で雪を搔きながらも、、、いつも、、頭の中に

                       時代の川のながらの先端が見えて、、、

                        NHKと、弟には、、、呆けから救ってもらった人生でしたね

                    ありがとう、、、会えてよかった、、、

                        本当に、、、会えてよかった、、、

                             80歳のなる歳に、、、お父さんの命日に

                               肉親の弟にあえて、、、

                             昼食も忘れて、、コーヒーだけで2時間以上も反したことは


                       もう、、目の前の居たら,、おたがいに

                              兄弟だと、、、すぐに解るよね、、

                       札幌、で、、兄弟が会えたことは、、、、、お父さんも会いに来てくれた!

                          2月20日、、、これからは電話で、、話していても、、、

                               今日の姿を弟として、、、アップデートしておきますね。

                              姉より、、、

                          




        

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