日大を卒業する時
「朱色の盃」に金文字で書かれた「真摯」という記念品を戴いた。
結婚する時には、実家に置いてきてしまって、、、
実家を引き継いだ兄は
奥さんが「痴呆」になったとき
実家の開業を閉鎖して
従業員に退職金を払い
夫婦で介護付、、ケア付き老人ホームに移っていった。
其処から勤務医として、現役で勤めている。
貯金は全て、奥さん名義にして
女性の方の長生きに備えて、、、
父の残した東京の260坪は二束三文で売られてしまった。
医療機械の処分。
鉛の部屋の解体
地下カルテ倉庫の土台の撤去、、埋め戻し
鉄筋の医療施設の解体費
コンクリーがれきの運搬、、、
父の残した先代からの東京の実家は
たった一枚の、、、兄の自筆の手紙だった。
こうするより、、、医師を続ける手段を思いつかなかった。
母が亡くなる時、すでに閉院して勤務した兄だった。
新卒で一年間だけ父と一緒に働いた開業は
残された母と、弟妹が独立するまでの日までは
続かなかった。
一家の大黒柱が54歳で亡くなる、、、
母が亡くなる、、、
嫁さんが痴呆になってしまう、、、
何十年も前のことになるが、、、
江戸川区の下町は、父母も、私たち姉弟も
戦後のドサクサを 観た所だった。
開業の当時は畑や公園やお店が有り
貧しい戦後の掘立小屋もここかしこに有った。
陣地と呼んでいたバラックの続くゾーンも
中学校の周りに有った。
パレス、、、と呼ばれる、、、アメリカ在留兵の
日本人妻の、長い二階建ての建物もあった。
金魚の人工養魚所も。
プールの集積地には、「ランチュウ」が
けったいな形の頭を重そうにしながら
ブルドックの後ろ姿の様に
尾びれを揺らして泳いでいた。
小学校の時転校してきた月に
同級生の家族が、、、一家心中して、、新聞に大きく掲載されていた。
戦後の復活の東京の下町は
キャバレーなどもあった。
父が東京に開業してからは、、10年も、、持たなかった。
戦争で、外国に行っていた8年間は
食生活をはじめ、、かなりのダメージで在ったのかもしれないし、、
疎開先での,、見村の激務や、、、ダム工事の為の
怪我人の手術などが、
無医村での唯一の医師に無理がかかったのかもしれない。
54歳と言う若さで、、過労死してしまった。
78歳になって、、ふと、、過去を振り返りながら、、
戦争、、、終戦、、、復活、、、出産、、、子育て
相棒が「医師をすること」だけに、生きていく。
「家内」は一歳の雑用を引き受けて、、、人生はす飛んで行った。
生きるという事の為だけに、、、主婦は頑張れた。
人間という生き物は、、、不思議な生き物だ!
「死んでゆくのも、、いつも他人」
「痴呆になるのも、、、いつも他人」
「家がバラバラになってゆくのも、、、いつも他人」
自分にも番が廻って来るなんて
考えたことも無く
昨日の続を「真摯」に続行してきた。
「自分たちが、
やっとの思いで
ローンを終わらせ獲得したと思った家も、、」
固定資産税という家賃で国から借りている。
街はどんどん開け乍ら、、、
国は世界に向けて善戦してゆく。
しかし、、、78歳になると
全ては「他人事だったことが、、、自分の事としてやってくる。」
「58年前に、、、日大卒業の時にもらった、、盃!!」
「真摯」と書かれた金文字、、、
この年になると、、、「真摯に生きること」
この二文字を自分なりに心に刻み生きてきた。
そして、、これからは、、、「無になる練習を始めるかな?」
無になり切れた時には
他人事だった「死」が
自分にも起きるのだと、、、認識できるのだろう
coronaの第8派が来たせいかもしれない、、、
生への執着も、、、客観的に考えられるようになってきたが
今日を一日、、瞬間瞬間を「真摯」に生きようと、、、
残された時間を、、、数えるのは止そう、、、
真摯に生きて、、、生きてることに、
不安を持つのは、、、
無駄と思い、、、
コロナ対策だけは、、、インフルエンザ対策だけは、、、確実に
朝を信じて、、、確実に正しくコロナ対策をして
皆❕!、、きっと又!!、、会おうね!
「朱色の盃」に金文字で書かれた「真摯」という記念品を戴いた。
結婚する時には、実家に置いてきてしまって、、、
実家を引き継いだ兄は
奥さんが「痴呆」になったとき
実家の開業を閉鎖して
従業員に退職金を払い
夫婦で介護付、、ケア付き老人ホームに移っていった。
其処から勤務医として、現役で勤めている。
貯金は全て、奥さん名義にして
女性の方の長生きに備えて、、、
父の残した東京の260坪は二束三文で売られてしまった。
医療機械の処分。
鉛の部屋の解体
地下カルテ倉庫の土台の撤去、、埋め戻し
鉄筋の医療施設の解体費
コンクリーがれきの運搬、、、
父の残した先代からの東京の実家は
たった一枚の、、、兄の自筆の手紙だった。
こうするより、、、医師を続ける手段を思いつかなかった。
母が亡くなる時、すでに閉院して勤務した兄だった。
新卒で一年間だけ父と一緒に働いた開業は
残された母と、弟妹が独立するまでの日までは
続かなかった。
一家の大黒柱が54歳で亡くなる、、、
母が亡くなる、、、
嫁さんが痴呆になってしまう、、、
何十年も前のことになるが、、、
江戸川区の下町は、父母も、私たち姉弟も
戦後のドサクサを 観た所だった。
開業の当時は畑や公園やお店が有り
貧しい戦後の掘立小屋もここかしこに有った。
陣地と呼んでいたバラックの続くゾーンも
中学校の周りに有った。
パレス、、、と呼ばれる、、、アメリカ在留兵の
日本人妻の、長い二階建ての建物もあった。
金魚の人工養魚所も。
プールの集積地には、「ランチュウ」が
けったいな形の頭を重そうにしながら
ブルドックの後ろ姿の様に
尾びれを揺らして泳いでいた。
小学校の時転校してきた月に
同級生の家族が、、、一家心中して、、新聞に大きく掲載されていた。
戦後の復活の東京の下町は
キャバレーなどもあった。
父が東京に開業してからは、、10年も、、持たなかった。
戦争で、外国に行っていた8年間は
食生活をはじめ、、かなりのダメージで在ったのかもしれないし、、
疎開先での,、見村の激務や、、、ダム工事の為の
怪我人の手術などが、
無医村での唯一の医師に無理がかかったのかもしれない。
54歳と言う若さで、、過労死してしまった。
78歳になって、、ふと、、過去を振り返りながら、、
戦争、、、終戦、、、復活、、、出産、、、子育て
相棒が「医師をすること」だけに、生きていく。
「家内」は一歳の雑用を引き受けて、、、人生はす飛んで行った。
生きるという事の為だけに、、、主婦は頑張れた。
人間という生き物は、、、不思議な生き物だ!
「死んでゆくのも、、いつも他人」
「痴呆になるのも、、、いつも他人」
「家がバラバラになってゆくのも、、、いつも他人」
自分にも番が廻って来るなんて
考えたことも無く
昨日の続を「真摯」に続行してきた。
「自分たちが、
やっとの思いで
ローンを終わらせ獲得したと思った家も、、」
固定資産税という家賃で国から借りている。
街はどんどん開け乍ら、、、
国は世界に向けて善戦してゆく。
しかし、、、78歳になると
全ては「他人事だったことが、、、自分の事としてやってくる。」
「58年前に、、、日大卒業の時にもらった、、盃!!」
「真摯」と書かれた金文字、、、
この年になると、、、「真摯に生きること」
この二文字を自分なりに心に刻み生きてきた。
そして、、これからは、、、「無になる練習を始めるかな?」
無になり切れた時には
他人事だった「死」が
自分にも起きるのだと、、、認識できるのだろう
coronaの第8派が来たせいかもしれない、、、
生への執着も、、、客観的に考えられるようになってきたが
今日を一日、、瞬間瞬間を「真摯」に生きようと、、、
残された時間を、、、数えるのは止そう、、、
真摯に生きて、、、生きてることに、
不安を持つのは、、、
無駄と思い、、、
コロナ対策だけは、、、インフルエンザ対策だけは、、、確実に
朝を信じて、、、確実に正しくコロナ対策をして
皆❕!、、きっと又!!、、会おうね!
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