花鳥風月、、2023年からの第二の日記

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本当の社会は 私には、、見えないのです。

2023年11月08日 | 日記
明治生まれの医師の娘として育った私にとって
移動する人生が余儀なくされて、、

いつも、、、「よそ者」「お客さん」「暗黙の差別の関わり、、」
転校生の気持を、、充分に味わいながらの、、一生でしたね。

お祭りの仲間になって、、、参加で来たら面白い人生だったかもしれませんね。

戦時中の「富国強兵政策で、、特攻隊の日本では、、、人間が兵器だった時代がある。」
「肉弾三銃士」と言って、、爆弾抱えて敵に突っ込む、、紅顔の青年たち、、、

物心ついたころは、、、
  あ~~おば(青葉)茂れる桜いの~~と
  軍歌を歌いながら、、、意味も解らず
    お手玉していた小学生だった。

      南紀の、、山奥の小学校は、先生の資格の有る担任の先生は少なかった。

お寺の和尚さん、、とか、、、
 先生の奥サンとか、、、
  インテリの環境で育った、、物知りの大人が先生だった。

  私のお爺ちゃんは、現代の⁽筑波大学」「そのまえは「教育大学」、の前身にあたる

  東京の師範学校を卒業して、、27歳で、アメリカに留学している。

  帰国してからは、、、いろいろのことを、、方々から依頼されて

   幼かった私が、、認識できる事だけでも

     町長、、村長、、中学校校長先生、、、小学校校長先生兼任、、

      お爺ちゃんの奥さんにあたる女性は、、
         18歳ぐらいで、、、学校の「お裁縫の、先生」をしていたというから

  山奥の田舎では、、、私の母なども、、、音楽の先生の、、先生をしてたが
   学校側の依頼なので、、、月給らしきものなどは、一切もらっていなかった。

  お爺ちゃんは、、晩年南紀の洪水に流される家や田畑を救いたいと

  町長や村長をしていた時、、、ダムの建設の計画に,、、加わっていた。

    戦時中でもあり、、、敗退に敗退を余儀なくされ始めた戦場に居た

     娘夫妻を、、、単身、、、戦場まで迎えに行って、、、

  着のみ着のまま、、の家族を最後の連絡船に、間に合わせて、、帰国させている。

    娘の夫の外科医の腕が、、「ダムの建設現場には不可欠だったのだそうだ。」

   そのころは、、あたり七か村は、、無医村で、、、
   戦場の軍医の経験のある、、何でもできる「外科医」が
    山奥にやってきたのだから、、、

   ニワカニ山村は、にぎやかになった時代であった。

    村の診療所が出来てからは、、、今までに縁のなかった人々が
    行き来することとなり,、、人口も,、ニワカニ、、、3000人が住む村落となった。

    疎開には、、、診療所のある村へと、、、終戦まじかの疎開家族が

    診療所の近くに、、、住みついて行った、、、。


   いま世界では、、、病院を狙って、、爆弾が
                     落されている

    もう、、人間は、、人間の心を失ってしまったのかもしれない。、、、

     

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