2010年5月5日(水)午前中の忍野村や山中湖からの富士山や花の都公園を散策した後、私達は国道138号を河口湖方面へ愛車を走らせていく。
この時点は、行先をはっきり決めているのではなく、ただ、ひたすら、愛車を走らせて車窓からの景観を楽しんでいた。
河口湖へ行く道中の車窓からの富士山
その時、昨年も河口湖を訪れた時に、行くことが出来なかった「太宰治の御坂峠」が頭に浮かんでくる。
そうだ、御坂峠に行ってみよう! と思い、中学か! 高校の国語の教科書の中に出てくる富岳百景の一節の中で、河口湖と富士山の光景を「風呂屋の・・・・」と、見下した文面から、位置を判断して、国道138号から河口湖大橋を渡り、国道137号を北上して進んで行く。
すると、途中に「天下茶屋」方面と書かれた標識が見え、それに従って進んで行く。
ヘヤピンーカーブのある険しい道路を登って行くと、10分ほどで御坂峠天下茶屋に到着する。
御坂峠からの河口湖と富士山 太宰治は最初にこの光景を「まるで風呂屋の・・・」と言って見下していたが、
桜の花が満開の太宰治が滞在した御坂峠にある「天下茶屋」
天下茶屋は、国道137号の御坂(みさか)トンネル河口湖側に建つ昭和9年創業の茶屋である。
富士の眺めの素晴らしさから「富士見茶屋」、「天下一茶屋」などと呼ばれていたが徳富蘇峰が「天下茶屋」の名で新聞に紹介し、その名が定着したと言われている。
昭和13年頃、作家・太宰治が滞在し、小説『富嶽百景(ふがくひゃっけい)』を執筆した場所で知られている。
現在の建物は3度目の再建だが、2階には太宰の執筆当時を再現した太宰治記念室があり、愛用の机や花瓶などが展示されている。
1階では、名物の甘酒など食堂や売店があり、休憩も可能である。
また建物の前には『富嶽百景』の名文句、「富士山には月見草がよく似合ふ」の文学碑も立てられている。
文化財の指定を受けている 御坂トンネル
富嶽百景で知られ、太宰治も歩いたであろうこの峠は、旧国道8号線(現県道河口湖御坂峠)で、昭和5年10月着工、翌年11月就労人員述べ36万人余を動員して竣工する。
双方の入口から出口は見えず、暗闇の中、土工達は景気よく唄いながらセメントを練った云われている。
全長396m、幅員6m、高さ4mに及ぶこの御坂トンネルは、国の貴重な文化財の指定を受けている。
天下茶屋からの河口湖と富士山を望む
天下茶屋からの富士山は、残念ながら頂上付近に雲がかかり見ることが出来なかったが、太宰治が見下した河口湖と富士山の景観をを評した 「風呂屋の・・・」は、時代背景がかなり違うことから、ある角度からの見方であるが、毎日のように富士山を見ていて、太宰治も、その魅力に惹かれていった状況が手に取るように理解できる。
富士山には不思議な魅力があり、私をはじめ、多くの写真家や旅行者などを虜にしているようである。
御坂峠からの河口湖や富士山の景観を楽しんだ後、天下茶屋内に入っていった。
数人の方が訪れて休憩をとりながら、ここからの眺望を楽しんでいる。
二階の「太宰治文学記念室を見たい」と、店の人に話しをすると、気軽に通してくれ、入館料はとらなかった。
木造の階段を登っていくと、真ん中に廊下があり、両側には部屋が作られて、現在では資料展示室として利用されている。
御坂峠からの河口湖と富士山
太宰 治(記念文学室より)
明治12年6月19日、青森県北津軽郡金木村に生まれる。戸籍名は津島修治。津島家は、県下屈指の大地主であった。青森中学、弘前高校を経て、昭和5年東京帝国大学仏文科に入学した。
昭和11年に第1創作集「晩年」を出版。以後、昭和23年6月14日、39歳でこの世を去るまで、「斜陽」、「人間失格」「桜桃」「走れメロス」など約200編に及ぶ作品を遺した。
山梨県との関係も大変深く、昭和13年9月13日から11月16日までの約3ケ月間、御坂峠天下茶屋に滞在する。当時の天下茶屋は 外川政雄・八重子夫妻が経営しており、井伏鱒二等の多くの文化人が滞在している。
この間、甲府の石原美智子と見合いをして、よく14年1月、井伏鱒二氏の媒酌により結婚、甲府市御崎町(現、朝日5丁目)に8月まで滞在した。
山梨県に関わる作品としては、天下茶屋滞在の様子を執筆した「富嶽百景」をはじめ、「新樹の言葉」、「畜犬談」、「美少女」、「薄明」などがある。
なお、山梨県内には三基の太宰治碑があり、毎年6月の桜桃忌に、太宰治を偲ぶ会が開かれている。
天下茶屋内にある「太宰治文学記念室」 太宰治
二階にある太宰治文学記念室の廊下
太宰治に関する多くの写真や資料が展示されている展示室
興味深い写真や資料が見られる 資料展示室
太宰治と石原美智子の結婚式 (昭和14年1月)
太宰治と強い絆があった井伏鱒二氏
太宰治が使用した机や椅子が置かれている。
太宰治が使用した部屋からの光景・河口湖と富士山が望める。
太宰治が滞在した部屋からの景観は、何時までたっても飽きることのない富士山と河口湖の眺望である。
太宰治が滞在したのは、9月から11月までの約三ヵ月間である。
わたしが訪れた春の景観と比較して、太宰治が訪れた秋の景観は、真青な空や月見草、それに紅葉した樹木などと、雪化粧した富士山に透き通った河口湖などのコントラスが一体となって、素晴らしい眺望を見せていたことが容易に想像される。
それに、娘さんの、通りかかった花嫁に対する描写から、人間模様を感じさせられる。
このような、人間味を描写していることが、太宰文学の人気の高さを誇っているのだろうか!
富嶽百景で出てくる「娘さん」 1000年の文学者の人気ランキング(朝日新聞=2000年6月29日)
上記でも少しふれたが、写真の娘さんは、太宰治が滞在していた折に、働いた女性で、「花嫁を乗せた乗用車が御坂峠で休憩する。 その折に、娘さんが花嫁があくびをするのを見て、娘さんは 「きらい」といった。
太宰は その光景と娘さんの言葉から 「私は娘さんが美しいと思った」 書いている一節が、この娘さんの写真から思い出されてくる。
「この1000年「日本の文学者」読者人気投票の結果が掲載されている。
この記事は、2000年6月29日付けの朝日新聞で掲載されたもので、第一位が夏目漱石の「草枕」、第二位が紫式部の「源氏物語」、第三位が司馬遼太郎の「坂の上の雲」と続き、太宰治は「走れメロス」で第7位にランクされている。
堂々たる著名な文学者の中で、太宰治が十位以内にランクされている。
太宰治文学には、人を引きつける魅力が高いのだろうか、私も通りかかりに太宰治文学を思い出して、たまたま訪れた御坂峠であるが、日頃から太宰治文学に惹かれて、作品を読んでいるのではなかった。
ただ、ここに出てくる「走れメロス」は、短編集であるが、曇りひとつない人間性を現した素晴らしい文学である。
御坂峠からの景観や天下茶屋内にある「太宰治文学記念室」を見学した後、元来た道を下り、河口湖や精進湖などの富士五湖方面に向かって行った。
この時点は、行先をはっきり決めているのではなく、ただ、ひたすら、愛車を走らせて車窓からの景観を楽しんでいた。
河口湖へ行く道中の車窓からの富士山
その時、昨年も河口湖を訪れた時に、行くことが出来なかった「太宰治の御坂峠」が頭に浮かんでくる。
そうだ、御坂峠に行ってみよう! と思い、中学か! 高校の国語の教科書の中に出てくる富岳百景の一節の中で、河口湖と富士山の光景を「風呂屋の・・・・」と、見下した文面から、位置を判断して、国道138号から河口湖大橋を渡り、国道137号を北上して進んで行く。
すると、途中に「天下茶屋」方面と書かれた標識が見え、それに従って進んで行く。
ヘヤピンーカーブのある険しい道路を登って行くと、10分ほどで御坂峠天下茶屋に到着する。
御坂峠からの河口湖と富士山 太宰治は最初にこの光景を「まるで風呂屋の・・・」と言って見下していたが、
桜の花が満開の太宰治が滞在した御坂峠にある「天下茶屋」
天下茶屋は、国道137号の御坂(みさか)トンネル河口湖側に建つ昭和9年創業の茶屋である。
富士の眺めの素晴らしさから「富士見茶屋」、「天下一茶屋」などと呼ばれていたが徳富蘇峰が「天下茶屋」の名で新聞に紹介し、その名が定着したと言われている。
昭和13年頃、作家・太宰治が滞在し、小説『富嶽百景(ふがくひゃっけい)』を執筆した場所で知られている。
現在の建物は3度目の再建だが、2階には太宰の執筆当時を再現した太宰治記念室があり、愛用の机や花瓶などが展示されている。
1階では、名物の甘酒など食堂や売店があり、休憩も可能である。
また建物の前には『富嶽百景』の名文句、「富士山には月見草がよく似合ふ」の文学碑も立てられている。
文化財の指定を受けている 御坂トンネル
富嶽百景で知られ、太宰治も歩いたであろうこの峠は、旧国道8号線(現県道河口湖御坂峠)で、昭和5年10月着工、翌年11月就労人員述べ36万人余を動員して竣工する。
双方の入口から出口は見えず、暗闇の中、土工達は景気よく唄いながらセメントを練った云われている。
全長396m、幅員6m、高さ4mに及ぶこの御坂トンネルは、国の貴重な文化財の指定を受けている。
天下茶屋からの河口湖と富士山を望む
天下茶屋からの富士山は、残念ながら頂上付近に雲がかかり見ることが出来なかったが、太宰治が見下した河口湖と富士山の景観をを評した 「風呂屋の・・・」は、時代背景がかなり違うことから、ある角度からの見方であるが、毎日のように富士山を見ていて、太宰治も、その魅力に惹かれていった状況が手に取るように理解できる。
富士山には不思議な魅力があり、私をはじめ、多くの写真家や旅行者などを虜にしているようである。
御坂峠からの河口湖や富士山の景観を楽しんだ後、天下茶屋内に入っていった。
数人の方が訪れて休憩をとりながら、ここからの眺望を楽しんでいる。
二階の「太宰治文学記念室を見たい」と、店の人に話しをすると、気軽に通してくれ、入館料はとらなかった。
木造の階段を登っていくと、真ん中に廊下があり、両側には部屋が作られて、現在では資料展示室として利用されている。
御坂峠からの河口湖と富士山
太宰 治(記念文学室より)
明治12年6月19日、青森県北津軽郡金木村に生まれる。戸籍名は津島修治。津島家は、県下屈指の大地主であった。青森中学、弘前高校を経て、昭和5年東京帝国大学仏文科に入学した。
昭和11年に第1創作集「晩年」を出版。以後、昭和23年6月14日、39歳でこの世を去るまで、「斜陽」、「人間失格」「桜桃」「走れメロス」など約200編に及ぶ作品を遺した。
山梨県との関係も大変深く、昭和13年9月13日から11月16日までの約3ケ月間、御坂峠天下茶屋に滞在する。当時の天下茶屋は 外川政雄・八重子夫妻が経営しており、井伏鱒二等の多くの文化人が滞在している。
この間、甲府の石原美智子と見合いをして、よく14年1月、井伏鱒二氏の媒酌により結婚、甲府市御崎町(現、朝日5丁目)に8月まで滞在した。
山梨県に関わる作品としては、天下茶屋滞在の様子を執筆した「富嶽百景」をはじめ、「新樹の言葉」、「畜犬談」、「美少女」、「薄明」などがある。
なお、山梨県内には三基の太宰治碑があり、毎年6月の桜桃忌に、太宰治を偲ぶ会が開かれている。
天下茶屋内にある「太宰治文学記念室」 太宰治
二階にある太宰治文学記念室の廊下
太宰治に関する多くの写真や資料が展示されている展示室
興味深い写真や資料が見られる 資料展示室
太宰治と石原美智子の結婚式 (昭和14年1月)
太宰治と強い絆があった井伏鱒二氏
太宰治が使用した机や椅子が置かれている。
太宰治が使用した部屋からの光景・河口湖と富士山が望める。
太宰治が滞在した部屋からの景観は、何時までたっても飽きることのない富士山と河口湖の眺望である。
太宰治が滞在したのは、9月から11月までの約三ヵ月間である。
わたしが訪れた春の景観と比較して、太宰治が訪れた秋の景観は、真青な空や月見草、それに紅葉した樹木などと、雪化粧した富士山に透き通った河口湖などのコントラスが一体となって、素晴らしい眺望を見せていたことが容易に想像される。
それに、娘さんの、通りかかった花嫁に対する描写から、人間模様を感じさせられる。
このような、人間味を描写していることが、太宰文学の人気の高さを誇っているのだろうか!
富嶽百景で出てくる「娘さん」 1000年の文学者の人気ランキング(朝日新聞=2000年6月29日)
上記でも少しふれたが、写真の娘さんは、太宰治が滞在していた折に、働いた女性で、「花嫁を乗せた乗用車が御坂峠で休憩する。 その折に、娘さんが花嫁があくびをするのを見て、娘さんは 「きらい」といった。
太宰は その光景と娘さんの言葉から 「私は娘さんが美しいと思った」 書いている一節が、この娘さんの写真から思い出されてくる。
「この1000年「日本の文学者」読者人気投票の結果が掲載されている。
この記事は、2000年6月29日付けの朝日新聞で掲載されたもので、第一位が夏目漱石の「草枕」、第二位が紫式部の「源氏物語」、第三位が司馬遼太郎の「坂の上の雲」と続き、太宰治は「走れメロス」で第7位にランクされている。
堂々たる著名な文学者の中で、太宰治が十位以内にランクされている。
太宰治文学には、人を引きつける魅力が高いのだろうか、私も通りかかりに太宰治文学を思い出して、たまたま訪れた御坂峠であるが、日頃から太宰治文学に惹かれて、作品を読んでいるのではなかった。
ただ、ここに出てくる「走れメロス」は、短編集であるが、曇りひとつない人間性を現した素晴らしい文学である。
御坂峠からの景観や天下茶屋内にある「太宰治文学記念室」を見学した後、元来た道を下り、河口湖や精進湖などの富士五湖方面に向かって行った。
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