生きていくことは、失うことと書いたが怖くはない。
認知機能は、年とともに、失うので子供にもどるらしい。
頭の機能が脳みその細胞の数の死滅により、減るのだからこれは老化。
いちばん、私が失って困ったのは、視力である。
近くがさっぱり見えないので、買い物その他に困る。
老眼らしいが、これが案外不便である。
私も後どれぐらい生きられるのかは、わからないが。
50年もないはずだから、失うことをもっと自覚しながら生きるわけだ。
家族も、友達もうしなってしまったら、さびしいだろうか。
そうでもない、知らないことを日々さがしていき、疑問をといていく作業が暇つぶしになるし。
まんざら、昔よりも頭が古くなった分、落ち着いて物事を理解できるし。
案外、知識は増えるわけだから、体の老化についてあきらめることができるならこれもいい。
失うのは、人間の生きていく時間だから、毎日それを感じながらいきていく。
生きることは、死んでゆく時間にちかずくわけだから、生命を失うことなのだ。
命を失う時間がだんだんと、近くなっても、それは怖いことでもない。
生きるときに、それなりに生きたなら、いつでも肉体の機能が失われて、すべて停止しても怖くはない。
おばあちゃんになり、それまで生きられた、奇跡と偶然に感謝する以外私は、何もないのだ。
ほしいものは今はないが、ひとつほしいものがあるのなら。
このつまらない人生を、生きた証を残す智恵なり、文才があるといいと思う。
何も残せないのなら、せめて生きた道をかいてみたいのだが、その文才がない。
人と違う考え方であり、人と比べない生き方が自分であるから、面白いと感じている。
いまでも、あんまり人と同じ考えでないし、そして人と同じことを幸せとは、感じてはいない。
一人旅がすきだし、人間よりも何よりも、一人で考えて自然のすばらしさを感じるときがすきだから。
4月になれば、自然はすばらしい、新緑になり、必ず生きている木は、真新しい新芽をみせる。
これは、生きている限り、すばらしい今年も新芽を見て、美しい若葉を見ることの必然が、いい。
植物にしても、動物にしても、季節がわかるものだ。
これは、どんなリズムなのかは、わからないのだが、春になれば、新芽を出して緑が美しくなる。
毎年、同じ時期にこの美しい自然を見ることが、私は大好きなのだ。
失っていく能力と、体力の自分にはない、新しい生きている力を見る。
そんな自然が、すごいし、幸せに感じるあたらしく、めばえている緑の力はすごいのだ。
失うことは、怖くはないのだ。
経験値があがれば、おいていく自分が知らないことがなくなり、生きていてたのしくなるのだ。
目が見えなくなり、もし何も見えなくなるのなら、春の香りだけでも楽しいと思う。
もし、私が体が歩けなくなり、そしてもっとおばあちゃんになっても、楽しいと思う。
それなりに、体の機能と、美しい容姿はなくなっていっても、心の豊かさが増えたらいいのだ。
だから、人生の最後に日々ちかずくのだが、それも楽しいことと、感じている。
すべてをうしなったときに、人生の最終で、ご臨終でよいのだ。
だから、日々知らないうちに、何かをうしなっていく。
それを恐れてはいけない。
それが、天国への道へつづくのだから、失わなければ、死ぬこともできないのだ。
そして、100年もいきられないのだから、残されたもので、楽しく生きたらいい。
楽しく生きる智恵は、長生きしたら、身につくから、怖いものではない。
失うことが、何かを見つけることにつながるので、私は老化も楽しみなのだ。
認知機能は、年とともに、失うので子供にもどるらしい。
頭の機能が脳みその細胞の数の死滅により、減るのだからこれは老化。
いちばん、私が失って困ったのは、視力である。
近くがさっぱり見えないので、買い物その他に困る。
老眼らしいが、これが案外不便である。
私も後どれぐらい生きられるのかは、わからないが。
50年もないはずだから、失うことをもっと自覚しながら生きるわけだ。
家族も、友達もうしなってしまったら、さびしいだろうか。
そうでもない、知らないことを日々さがしていき、疑問をといていく作業が暇つぶしになるし。
まんざら、昔よりも頭が古くなった分、落ち着いて物事を理解できるし。
案外、知識は増えるわけだから、体の老化についてあきらめることができるならこれもいい。
失うのは、人間の生きていく時間だから、毎日それを感じながらいきていく。
生きることは、死んでゆく時間にちかずくわけだから、生命を失うことなのだ。
命を失う時間がだんだんと、近くなっても、それは怖いことでもない。
生きるときに、それなりに生きたなら、いつでも肉体の機能が失われて、すべて停止しても怖くはない。
おばあちゃんになり、それまで生きられた、奇跡と偶然に感謝する以外私は、何もないのだ。
ほしいものは今はないが、ひとつほしいものがあるのなら。
このつまらない人生を、生きた証を残す智恵なり、文才があるといいと思う。
何も残せないのなら、せめて生きた道をかいてみたいのだが、その文才がない。
人と違う考え方であり、人と比べない生き方が自分であるから、面白いと感じている。
いまでも、あんまり人と同じ考えでないし、そして人と同じことを幸せとは、感じてはいない。
一人旅がすきだし、人間よりも何よりも、一人で考えて自然のすばらしさを感じるときがすきだから。
4月になれば、自然はすばらしい、新緑になり、必ず生きている木は、真新しい新芽をみせる。
これは、生きている限り、すばらしい今年も新芽を見て、美しい若葉を見ることの必然が、いい。
植物にしても、動物にしても、季節がわかるものだ。
これは、どんなリズムなのかは、わからないのだが、春になれば、新芽を出して緑が美しくなる。
毎年、同じ時期にこの美しい自然を見ることが、私は大好きなのだ。
失っていく能力と、体力の自分にはない、新しい生きている力を見る。
そんな自然が、すごいし、幸せに感じるあたらしく、めばえている緑の力はすごいのだ。
失うことは、怖くはないのだ。
経験値があがれば、おいていく自分が知らないことがなくなり、生きていてたのしくなるのだ。
目が見えなくなり、もし何も見えなくなるのなら、春の香りだけでも楽しいと思う。
もし、私が体が歩けなくなり、そしてもっとおばあちゃんになっても、楽しいと思う。
それなりに、体の機能と、美しい容姿はなくなっていっても、心の豊かさが増えたらいいのだ。
だから、人生の最後に日々ちかずくのだが、それも楽しいことと、感じている。
すべてをうしなったときに、人生の最終で、ご臨終でよいのだ。
だから、日々知らないうちに、何かをうしなっていく。
それを恐れてはいけない。
それが、天国への道へつづくのだから、失わなければ、死ぬこともできないのだ。
そして、100年もいきられないのだから、残されたもので、楽しく生きたらいい。
楽しく生きる智恵は、長生きしたら、身につくから、怖いものではない。
失うことが、何かを見つけることにつながるので、私は老化も楽しみなのだ。