法華寺夏祭りの招待状配布は毎年のことですが、昨年は選挙のために行動をともに出来ませんでした。今年は、自治会長4人も改選をされ初めての方が多く、少しとまどっておられました。日頃付き合いのある企業の方は快く応援(寄付)をしていただきましたが、他府県からの進出企業の方はそっけない対応でした。これらの企業の方達にも地域意識が出来てくれると嬉しいのですが中々そうはいきませんね。
今日はちょんぼをしてしまいました。『フリーダム21』の方には大変失礼をしてしまいました。少しきついスケジュールを組んだのがいけなかったのですが、結局ご迷惑をおかけしました。『申し訳ありませんでした』反映、反省
市民相談や、苦情をお聞きするとどうしても時間を費やしてしまいます。
今読んでいる本『池田大作 行動と軌跡」前原政之著 中央公論新社。
P132 「公明党と国民の公僕」
「創価学会が政治の世界に進出したのは、戸田の時代である。」昭和30年 統一地方選に52人が出馬し51人が当選して以来の歴史が語られている。昭和31年には、国政の参議院選挙に初めて6人が出馬し、3人が当選。
昭和36年に公明党の前進である、『公明政治連盟』が発足。そして3年後の昭和39年11月に公明党が結成された。当時の議員数は、参議院15議席。地方議員1236名。
昭和42年、衆議院に進出し25議席を獲得した。
『衆議院へ進出した当時の心境を、評論家の田原総一朗との対談で率直に明かしている。「本当は私は衆議院には出したくなかったんですよ。それは、戸田会長が[衆議院には出さない方が良いと思う。出すとお前が誤解される]といっていました。しかし、当時の議員たちが[衆参両院なければ本当の政治が出来ない]といいはじめた。だからこれも時代の流れ、社会と人心の動きというものと思い、時代に即応してゆく事が正しいと判断したものです』(中央公論平成7年4月号)
また、作家の松本清張との対談では、
『日本の労働組合でも、政党でも、あくまで大衆庶民のためになれば良いではないですか。本当に民衆がよくなれば公明党がどうなってもかまわない。共産党でも、民社党でも良い。民衆の方が大事だ。労働者が主義主張のため、一部の者の利益のために利用されたりするのは私の一番忌み嫌う事です。そしてまた、かわいそうな人は守りたい』(文藝春秋 昭和43年2月号)
『旅館の女中さんなんか、本当に気の毒ですからね。頼れる組織は何もない。いざ病気にでもなったらどこへいくか・・・・。そこに血の通った慈悲といいますか、政治、それがなくしてなんの民主政治といえますか。今までの政治家は、選挙の時だけ頭を下げる1日政治ですよ。それでいて皆あとからから文句ばかり言っている。今まで為政者たちは、うまいことは言っているが、貧乏人とか病人とか未組織労働者はシャット・アウトしている。手をよごさずいい子になっていた。だがその中を嘲笑を受けながら入っていったのが、私どもの実践だった。』(同前)
では公明党は何を望むのか?
『政治は政治の分野ですから、国民のため、大衆福祉をどれだけ成果をあげたかという事によって、政治のよしあしが決まる。それだけの事です。政党はあくまで政党として、どう国民に評価されるか、これが急所であり、根本です。保守,革新というが、保守にしろ革新にしろ、国民不在で単なるレッテルになりさがっていることだってある。(同前)
『もし公明党がなければ、これだけの庶民大衆のエネルギーは,現在の政治地図の中に,確固たる位置を占めるまでにはいたらなかったはずであります。大部分が政治的無関心層として姿を没してしまったか,あるいは日本の社会に亀裂を深めていく作用をしていたかもしれません。
『その意味で,池田は創価学会員の献身的な支援によって送り出されている議員,とりわけ国会議員には厳しかった。
「議員を,偉い,と思ってはならない。議員は全民衆が使う公僕であり,議員は全国民に仕える者だ。これを勘違いすると,公明党は権力主義に陥ってしまう。将来もこの精神は子孫末代まで伝えてほしい』と強調した事があるが,それは今日も変わらない。
『「特別な待遇を受ける人間は,その分、みんなに奉仕すべきです。なのに、議員になって偉そうな顔をするのは大間違いだ。みんなが手弁当で応援してくれたお陰ではないですか。だから、そうしたみんなの期待を裏切らないよう,しっかりやってほしい。」というのが,池田の持論だ。』
また、『議員は庶民あってのエリートである。最大多数の最大幸福のために働く事です。」(小林正巳著 『池田大作』旺文社)
『議員は大衆の中に入っていって実践の中から自分の手で生きた政策を作っていくようにさせたい。基礎をしっかりする事です。他の政党はすでに何十年という伝統を持っている。公明党はまだ伝統も浅い。生まれたばかりの子も二十年すれば大人になる。公明党も長い眼で見守ってもらいたい。』(同 著)
長い引用になりましたが,公明党の歴史を振り返り,立党の精神を再度自分に言い聞かせるつもりで書きました。
市民に奉仕する議員を更に、めざして頑張っていきます。
今日はちょんぼをしてしまいました。『フリーダム21』の方には大変失礼をしてしまいました。少しきついスケジュールを組んだのがいけなかったのですが、結局ご迷惑をおかけしました。『申し訳ありませんでした』反映、反省
市民相談や、苦情をお聞きするとどうしても時間を費やしてしまいます。
今読んでいる本『池田大作 行動と軌跡」前原政之著 中央公論新社。
P132 「公明党と国民の公僕」
「創価学会が政治の世界に進出したのは、戸田の時代である。」昭和30年 統一地方選に52人が出馬し51人が当選して以来の歴史が語られている。昭和31年には、国政の参議院選挙に初めて6人が出馬し、3人が当選。
昭和36年に公明党の前進である、『公明政治連盟』が発足。そして3年後の昭和39年11月に公明党が結成された。当時の議員数は、参議院15議席。地方議員1236名。
昭和42年、衆議院に進出し25議席を獲得した。
『衆議院へ進出した当時の心境を、評論家の田原総一朗との対談で率直に明かしている。「本当は私は衆議院には出したくなかったんですよ。それは、戸田会長が[衆議院には出さない方が良いと思う。出すとお前が誤解される]といっていました。しかし、当時の議員たちが[衆参両院なければ本当の政治が出来ない]といいはじめた。だからこれも時代の流れ、社会と人心の動きというものと思い、時代に即応してゆく事が正しいと判断したものです』(中央公論平成7年4月号)
また、作家の松本清張との対談では、
『日本の労働組合でも、政党でも、あくまで大衆庶民のためになれば良いではないですか。本当に民衆がよくなれば公明党がどうなってもかまわない。共産党でも、民社党でも良い。民衆の方が大事だ。労働者が主義主張のため、一部の者の利益のために利用されたりするのは私の一番忌み嫌う事です。そしてまた、かわいそうな人は守りたい』(文藝春秋 昭和43年2月号)
『旅館の女中さんなんか、本当に気の毒ですからね。頼れる組織は何もない。いざ病気にでもなったらどこへいくか・・・・。そこに血の通った慈悲といいますか、政治、それがなくしてなんの民主政治といえますか。今までの政治家は、選挙の時だけ頭を下げる1日政治ですよ。それでいて皆あとからから文句ばかり言っている。今まで為政者たちは、うまいことは言っているが、貧乏人とか病人とか未組織労働者はシャット・アウトしている。手をよごさずいい子になっていた。だがその中を嘲笑を受けながら入っていったのが、私どもの実践だった。』(同前)
では公明党は何を望むのか?
『政治は政治の分野ですから、国民のため、大衆福祉をどれだけ成果をあげたかという事によって、政治のよしあしが決まる。それだけの事です。政党はあくまで政党として、どう国民に評価されるか、これが急所であり、根本です。保守,革新というが、保守にしろ革新にしろ、国民不在で単なるレッテルになりさがっていることだってある。(同前)
『もし公明党がなければ、これだけの庶民大衆のエネルギーは,現在の政治地図の中に,確固たる位置を占めるまでにはいたらなかったはずであります。大部分が政治的無関心層として姿を没してしまったか,あるいは日本の社会に亀裂を深めていく作用をしていたかもしれません。
『その意味で,池田は創価学会員の献身的な支援によって送り出されている議員,とりわけ国会議員には厳しかった。
「議員を,偉い,と思ってはならない。議員は全民衆が使う公僕であり,議員は全国民に仕える者だ。これを勘違いすると,公明党は権力主義に陥ってしまう。将来もこの精神は子孫末代まで伝えてほしい』と強調した事があるが,それは今日も変わらない。
『「特別な待遇を受ける人間は,その分、みんなに奉仕すべきです。なのに、議員になって偉そうな顔をするのは大間違いだ。みんなが手弁当で応援してくれたお陰ではないですか。だから、そうしたみんなの期待を裏切らないよう,しっかりやってほしい。」というのが,池田の持論だ。』
また、『議員は庶民あってのエリートである。最大多数の最大幸福のために働く事です。」(小林正巳著 『池田大作』旺文社)
『議員は大衆の中に入っていって実践の中から自分の手で生きた政策を作っていくようにさせたい。基礎をしっかりする事です。他の政党はすでに何十年という伝統を持っている。公明党はまだ伝統も浅い。生まれたばかりの子も二十年すれば大人になる。公明党も長い眼で見守ってもらいたい。』(同 著)
長い引用になりましたが,公明党の歴史を振り返り,立党の精神を再度自分に言い聞かせるつもりで書きました。
市民に奉仕する議員を更に、めざして頑張っていきます。