横浜に残る高低几号標めぐり。
お三の宮日枝神社さまは、関外(吉田新田)総鎮守。横浜開拓の守護神。
このあたりは江戸時代までは海だった。
およそ350年ほど前に埋め立てが始まり、請け負ったのが江戸の石材材木商の吉田勘兵衛。それで吉田新田。
当時の技術で海を埋め立てるのだから難工事。約12年の歳月と巨額の費用を投じて寛文7年に吉田新田は完成した。
勘兵衛が、新田鎮守に寛文13年に大岡川と中村川の分岐点に江戸の日枝神社さまを勧請したのが、お三の宮日枝神社さまの始まり。
横浜は関東大震災と第二次世界大戦で大きな被害を被った。
本牧の妙香寺さま同様にお三の宮日枝神社さまにも倒壊したりした石塔等が残る。
でもこちらは新しい。東日本大震災の爪痕。
末社の堰神社さまに行く前に寄ったら、午前中は宮司さまがお留守で高低几号標が刻まれている鳥居の柱の保管場所の鍵を開けて見学してもらっていいかどうか判断できないとの巫女さまのお話で、午後に再びたずねた。
宮司さまは気さくなお人柄のお方のようで巫女さまが万事心得ましたと開けてくださった。ありがとうございましたm(_ _)m
お三の宮日枝神社さまの高低几号標は横たわる鳥居の柱に刻まれていた。
今の神楽殿はかつて稲荷神社だったという。
だからたぶんあそこ。
今もお三の宮日枝神社さまの裏手に大岡川と中村川の分岐がある。
中村川に架かる吉野橋はかながわの橋100選にも選定されてる。
明治の廃仏毀釈で古い神社仏閣はかなりの敷地を削られた。
高低几号標を使って測量した頃はどんな風だったのかな。