木のぼり男爵の生涯と意見

いい加減な映画鑑賞術と行き当たりばったりな読書によって導かれる雑多な世界。

『コズモポリス』

2014-01-31 23:12:31 | 日記


「コズモポリス」 ドン・デリーロ


真っ白な超ハイテクリムジンを、移動するオフィスとして活用する金融マン。
若くして巨万の富を築いた男、エリック・パッカー。
今日も誰かが億を稼ぎ、もしくは破滅し、あるいは暗殺される。
飽くことなく欲望を満たし、狂おしく刺激を求める日々。
彼は、今日、床屋に行きたいのだった─。


先に映画を観てからの原作読書。

映画版は、
あるひとつの経済体制が終焉する予感、を描いてる印象。
いくつもの死が語る哲学。
世界のバランスを考える思想。
王女様のローマの休日ならぬ、金融マンの富豪の平日。
どっちもボディガードが居ないと、自由を感じるらしい…

リムジンのハイテクぶりがクールなのと対象的に、
街並みが普通で、ダイナーや床屋さんは庶民派。
この対比が、なんだかSFチック。

全てを手に入れたいが、全てってなに?
生きる目的ってなんだっけ?
妙な倦怠感を漂わせながら、日課をこなすも。
冷め切った感情に、刺激と興奮を与えないではいられない。

生きている実感が欲しくて無茶をする。


精神と経済それぞれの混乱とバランス、そして崩壊。
暴力とSEX。
『ファイト・クラブ』(1999年)的なんだけど、全く違う映画。
両作品とも、なんとなくゲーム感覚なところが、現代らしさか。


エリックが最初に銃をぶっぱなすシーンの驚きが激しかったので。
原作には細々と心理描写があるのかと期待しつつ。

原作を読むとエリックの心理が、より詳細に。
不眠症ぶりや、高級マンション内の様子など。
眠れないまま部屋から部屋へと徘徊し、明け方に窓から下界?を眺める姿。
専用のエレベーターで降下、居並ぶリムジン。
そして、ニューヨークを高級車で移動。
移動って…結局浮遊してる訳?
夜は住処内を徘徊、昼はNYを徘徊?
秒単位で変動する相場そのものの、この落ち着きのなさ!

新妻との三度の食事も、まるで行きずり。
原作では、映画撮影のシーンがあり。
それホントに奥さんですか?状態。


傲慢な男が、己の生き方に対する疑問を振り払うように、
ごり押しした取引によって破産し、
最後に残った自らの命を、嬉々として賭ける。

存在価値がゼロになり、生きる熱意を失った男。
皮肉な事に、唯一の希望は彼の死に意味を見出す復讐者。

この復讐者についても、原作読むと色々判ります。
捨てられてた机を引きずってきたもんね自慢が激しいのが可笑しい。
超ビンボーなりに、持ってる物自慢してるあたりが、なんとも。
執着心のみで生きてる姿が痛いが。

せっかく果敢に立ち向かった相手がコレかよ!
エリック的には、なんとなく物足りないのか?
とんだお笑い草な盛り下がりを感じる手応え。
更に、復讐者なりにエリックを研究、理解してます的な話しぶりに。
ウググ~。
お腹がチクチクする。
血管がピクピクする。
なんかもう、バカバカしい。
生きる熱意、欲しい。。。

かくして、死亡時には、ただの破産した男。
バランスこそ重要と追求してきた男が、
前立腺が非対称、左側だけ散髪、片手に穴。
見事にバラバラな状態での最期。


惑星に植民できるほどの金額を儲け~
って、そもそもそんな天文学的数字のお金を、
どうやって実感するんだ?
画面に並ぶゼロの連続を見るしか方法がないんじゃないの?
札は用意出来ないだろうし、金塊でも用意できないだろうし。
で、結局はお金を使うことでしか実感できない…とか言わんでくれ。
惑星に、移住しちゃいなよぅう!
って、生憎、欲は有るが夢は無いもんで。

ひとりの男のエゴが、世界経済に混乱をもたらすさま。
ちなみに設定は‘二〇〇〇年四月某日’、出版は2003年。

またしても、答えを探しまくって読んだ結果。
本自体の魅力に気づかず。。。

クローネンバーグ監督がカンヌの記者会見で。
原作の文章の美しさ、特に会話が美しいので、脚本でもほぼそのままにした。
とか発言したもんだから。
慌てて、もう一度読んでみる─。

あ~あーあー。
傲慢さが美しい!!
文もセリフも短めで、簡潔かつ美しい。

“~。スクロールするように明けていく夜明けに向かって長い散歩に出たりはしなかった。
電話をする友人もいなかった。深夜の電話で煩わせてやろうと思うほど愛している友人は。
喋ることなどあるだろうか?それは沈黙の問題だ、言葉ではない。”

“彼はエレベーターで大理石のロビーまで降りた─サティの音楽がかかっているエレべエーター。
彼の前立腺は非対称だった。彼は外に出て、街路を渡った。それから振り返り、自分が暮らしているビルを見上げた。”

行動を述べながら、いきなり、さらりとカミングアウト?を入れるあたり。
なんかよくわからんがスゴいんですけど。


そして、車に居る理由を聞いた部下との会話。
“どうしてそれがわかるんだ?オフィスではなく車にいるって?”
“その質問に答えようとすると”
“どういう前提に基づいているんだ?”
“たいしたことは言えませんが。ほとんどは浅薄で、おそらくはあるレベルで不正確なことになってしまうでしょう。
そうしたら、あなたは私が生まれてきたことを憐れんでくれるでしょうね”

なんちゅー会話じゃ。
数学の証明問題みたいな事になっとる。
しかも、こんな返答どっから沸いてくるんすか?


“彼はトーヴァルが自分のことをミスター・パッカーと呼ばなくなったことに気づいていた。
トーヴァルは今では彼の名前を呼ばない。この省略は、ひとりの男が歩いて通れるほど大きな欠落を自然界に開けていた。”


ロスコ・チャペルを買いたいという彼。
“チャペルごと売ってもらえれば、それを完全な形で保存できるじゃないか。
そう話してくれ”
“どこに完全な形で保存するの?”
“俺のマンションだよ。スペースは充分にある。もっと広くすることもできる”
“でも、みんながそれを見たいのよ”
“見たきゃ買えばいいのさ。俺よりも高い金を払ってな”
“こういう生意気な言い方を許してもらいたいんだけど、でもね、
ロスコのチャペルは全世界のものなのよ”
“俺が買えば俺のものさ”

おっしゃる通りなんすけど、炎上間違いなしの発言ですな。


そして新妻との会話。
“俺は太陽系の惑星のひとつひとつで自分の体重が何キロになるか計算してみた”
“それって素敵。気に入ったわ”と彼女は言い、彼の頭の脇にキスをした。
少し母親的なキス。“科学とエゴがこんなふうに一緒になるなんて”。~


エリックの論理担当主任曰く。
“~。すべての富は、富のための富になってしまった。~”
“~。だって、資産にはもはや重量や形状がないから。問題になるのはあなたが払った金額だけ。~”

そして、同じような大金持ちが暗殺される度に、満足をおぼえるエリックに。
“あなたの才能と敵意はいつでも百パーセント結びついてきたのよ”
“あなたの精神は他人への悪意を糧に成長するの。~”
この一連の会話で出てくる【後ろめたい幸福感】という言葉。
思わしくない相手の不幸に対するストレートな感情。
肯定しちゃいけないんだけど~。
存在は否定出来ないという痛いトコついてます。


金融界に対する抗議行動のひとつとして、炎に包まれる人とか。
ラップミュージシャンの死に対してさえも。
何かしら期待してしまう【後ろめたい満足感】とでも言えるようなもの。
メディア的な考えというか、下世話な感覚というか、なんとも否定したくなる感情の記述。
金持ちは、えげつない存在かもしれんが、世間も十二分に下品。
いや~~。それ言わんといてーな現実。


復讐者がエリックと対峙し、言う。
“俺が何者だと思うか言ってみろよ”
 相手の欲求の激しさ──自分が何者か気づかれたいという、半ば媚びるような期待。

勝ち組も負け組みも、かつて勝ち負けた組も。
結局はエゴに縛られている─現実。
いや~。それ言わんといて~。

“「でっかい野心。軽蔑。いくらでもリストアップできるぜ。あんたの貪欲さ、あんたに関わった人々。
ある者を酷使し、ある者を無視し、またある者を虐待する。その自己完結性。
良心の欠如。それがあんたの才能だよ。」と男は悲しげに言った。
そこには皮肉っぽさはなかった。”



彼が死んでも、彼は終わらないだろう。世界が終わるのだ。


傲慢さの最終極点とも言える記述。
この世界観。
否定されがちな、エゴの美しきエクスタシー。


「コズモポリス」 ドン・デリーロ

《ホーリー・モーターズ》

2014-01-25 23:23:05 | 日記


『ホーリー・モーターズ』 (2012年仏・独)

気ぃ抜いて観てたら、
冒頭から何が起こってんのか把握しそびれる。

で、気合を入れて姿勢を正すも。
思考も気持ちも右往左往。。。


夢の中で、秘密の扉を開けると。
そこでは、不思議な映画が上映されていた─。
変装道具でいっぱいのリムジン。
そこに乗り込んだ男は、依頼書通りのメイクと衣装で降り立つと。
与えられた役柄を演じ始めるのだった。
誰が何の為に依頼をしているのか─?


リムジンで移動する裕福な男の職業が‘演じること’なのか?
いわゆる観客に対してではなく、
その風景を完璧なものにする為に雇われて、その場に存在する。
現実の世界に更なるリアルさを与える役目を果たしてるんか?
となんとなく把握したところで。

特撮の現場。
って、これは商業としてのプロの仕事な訳だからぁ…
現実と媒体の境目なく働く役者?

で、メルド氏、登場─。
これがまたややこしさ倍増。
かつて一度演じた役を再び演じさせる…
『TOKYO!』(2008年仏・日・韓)でドニ・ラヴァンが演じたメルド氏。
『ホーリー・モーターズ』のドニ・ラヴァン演じる登場人物が、メルド氏を演じる。
パ~ニ~ック。
なに?なんなの?
知恵熱出るって。
これはきっと深~い理由や意味が有るはず!
って、
メルド氏の格好のまま重箱弁当つついとるやないですか!
その横に置いてあるのん、間違いなくみそ汁ですなぁ。
遊び心あり過ぎやろ。
前回、東京で大暴れした草食系メルド氏が、
日本食の弁当食べてる姿(さすがに鬘は外してるけど)とか、お茶目すぎるってば。


で、次々と演じられる死。
殺人。
演じる仕事をしている同業者たち。

世間に刺激を与える為に雇われているのでは?と勘ぐりだすも。
加害者も被害者もドニ・ラヴァンが演じてる人物なので、現実には不可能だし。
シナリオを逸脱したハプニングによって、流れが変わるのか?と思わず身構えたり。
どこからどこまでが、‘演じること’なのか解からなくなったり。
やたらとリアルな状況の為、本来の人格、私生活なのか?と戸惑ったり。

解かったよーな気がしかけたら、スルリと逃げる展開。
時々あるよね、こういう‘どじょう掬いムービー’
って無いから!そのカテゴリー!
まんべんなく困惑の波が押し寄せるサーフムービー!
ってそれ、使い方違うから!


確かなのは、登場人物たちが‘何重にも演じている’ことだけ。


まー、そりゃ、現実生活でも何かしらの役割を演じて生きてるもんですけど。
しかも、相手にこう思われたいから演じるという、相手が居るから演じる事が発生するのか。
自分はこうなりたいという思いから、演じるという状況がうまれるのか。
心理的、社会的に掘り下げるべき問題で、根は深い?
その事実を監督に突きつけられたんか─?

“演じること、それ自体の美しさの為にやっている─”

この、たった一行のセリフによって、
監督が何かを突きつけるつもりなんて無いらしい、と悟る。



そんでもって、この作品の特筆すべき点。
映画として、素晴らしいシーンがあるっつーこと。

まず、映画史を彷彿させるシーンの数々。

愉快なチンパン?猿の惑星のパロディか?
車+しゃべる=カーズ!ま、まさかのピクサーネタか?
エイリアンの濃厚ラブシーンにアバターも真っ青!あ、もともと青いわ。ごめん。ごめん。

と、茶化してんのか?疑惑が頭をもたげるも。
ゴダール哲学とフェリーニ趣味、監督自身の作品へのオマージュ。
子供の時に観た映画だったり、教科書に載ってた絵画だったり、ニュースで見た映像だったり。
何かしらの記憶によって導かれる新たなるイマジネーション。

CG撮影シーンの強烈さ。どうしていいか分からなくなる凄さ。
間奏曲のシーンの興奮。なんか知らんが、血流が良くなる充実の幕間。
ミュージカル・シーンでのゾクゾクする感じ。
カイリー・ミノーグがハンパなく素敵+歌が良い+カメラワークとの相乗効果で信じられないくらいすんばらしい場面。

映画に対する憧憬と愛情なくしては、無理なシーンたち。

インタビューでは、必ず誰かが‘映画についての映画ですか?’って聞いてたみたいですが。
それも頷けるし、聞きたくなるのもトーゼン。
質問される度に、監督が‘違います’って答えてるのも、よく解かりますけど。
認めちゃったら、その時点でこの映画が死んじゃうもんなぁ。
ムービーマジックが消えちゃうのよーん。
不思議な事に、映画を理解しようとした結果、映画の可能性を奪っちゃうという─。
観客泣かせの身悶え映画。

文化、技術が遺産であり、呪縛でもあるという人類独自の課題。
芸術の呪縛と解放、そして不安を描いてるのかもしらんが。


何よりも嫉妬すべきは、監督と役者の関係でしょうー。
監督からまる投げ?された脚本を見事に膨らませて人物に命を吹き込むドニ・ラヴァン。
監督から役者へのラブレターですな。
解明するのではなく、嫉妬するのが、この映画への賛辞にふさわしいように思える今日このごろ。

映画に身を任せたくなった時に観たい一本。


『ホーリー・モーターズ』 (2012年仏・独)
監督・脚本・出演:レオス・カラックス、撮影:カロリーヌ・シャンプティエ、イヴ・カペ、
セットデザイン:フロリアン・サンソン、編集:ネリー・ケティエ、
出演:ドニ・ラヴァン、エディット・スコブ、エヴァ・メンデス、カイリー・ミノーグ、
エリーズ・ロモー、ミシェル・ピッコリ

《ジョージー・ガール》

2014-01-09 19:30:23 | 日記


『ジョージー・ガール』(1966年イギリス)

でたぁ~。
“幸せって何?映画”


近所の子供達にお遊戯を教えるジョージー。
少々ガサツで、かなり色気が無い彼女の親友メレデスはスリム美人。
メレデスは妊娠を機に、恋人ジョスと結婚するも。
妊婦姿にもベイビーにも、うんざり。
出産を待ちわびるジョスとジョージー(なんせ子供好きなもんで)にもイライラの日々。
そんな中、ジョスはジョージーの魅力に気づくのだが…


大人になれない大人、というよりも成長途中の若者たち。
それぞれ人生の次の段階に進もうとするも。
食い違ってきたり、気づいたり、挫けたりと様々。

元気いっぱいで面倒見の良いジョージー。
おしゃれが苦手で、恋愛は超オクテ。
大雑把具合、不器用さ加減がリアル。
ハンサムな王子様を夢見るも。
現実では、リッチなオジさんにお小遣いを貰ったり、
愛人にならないか?と契約書を見せられる始末。

パーティーでヤケになって歌を披露するも、
誰も喜ばず、盛り上がらず、褒められず、の痛~い感じ。
場違い含め、勘違いっぷり、トンチンカンぶりがハンパない。
そして、唯ひとり、感銘を受けるのが、金持ちのオジさん、て。
どういうこと?
ま、妻が病気がちで陰気なもんで。。。
生命力溢れるジョージーに夢中。
惚れ込んでもらえるのは満更でもないけど。
私の幸せって、この延長線上にしかないんか?
とスゴイ疑問を感じるジョージー。


メレデスの自己中ぶりも甚だしく。
世界は自分中心に回っている事を夢にも疑わない─
ま、確かに世界は美人で回ってる──って一理あるけど、さ。

注目される事、モテる事が当たり前で、それを大いに満喫していたメレデス。
妊娠、結婚で、それが当たり前ではなくなったとき。
出産後にまた男の眼をクギヅケに出来るのが嬉しくって仕方がない姿。
彼女にとって生きるって、こういう事な訳なので。
家庭を築くという向き不向きというよりも、今現在、家庭が欲しいかどうか?
─の周りじゅうを巻き込んだ学習法。


外見にばかり眼を取られて、メレデスとイチャついた結果、結婚するジョス。
彼女の血も涙もないヴィッチぶりに、ようやくジョージーの愛情深さに思い至る。
で、追い掛け回す。
は?
ある意味、超ポジティヴ・シンキング・ストーカー。
‘アイ・ラヴ・ユー’と連呼しながら、街中追い掛け回す姿。
仕舞いにゃ、服を脱ぎだすという求愛行動に発展。
人類の発展に真っ向勝負な心意気。
濃ゆ~いアラン・ベイツが大迫力で迫ってくるぞぅ~。
ナマハゲに泣く子供の気持ちが、分る!分るわぁ~!
って、このシーン、見所のひとつでっせ。

ジョージーと暮らし始めるも、赤子最優先な彼女。
まだまだ彼女の一番で居たいジョス。
ジョージーの愛情の配分の問題か?
ジョスが父親になるには、早すぎただけか?
見事にすれ違い、上手くいかなくなるふたり。


そして、結局、子供の為にお金持ちとの結婚を選ぶジョージー。
愛の無い結婚?
そもそも子供に愛情注ぎ過ぎて、他に注げる愛情なんて残ってないもんで。
幸せになるぞ!気合と期待でいっぱいな夫そっちのけで。
ベビーのほっぺにスリスリするジョージー。

………。。。
幸せってなに?


ジョージー役のリン・レッドグレーヴの野暮ったい動きの演技が、実にイイ感じ。
アラン・ベイツの若さ弾ける迫力が、見応えあり。
シャーロット・ランプリングのキュートさ!だけどヴィッチな堂々たる姿。
なんせ三人の若さが画面いっぱいに焼き付けられてる、お宝映画。
そしてジェームズ・メイソンの幸薄そうな顔が対照的。
好意ある強引さをここまで不気味に出来るのはメイソン氏ならでは。


誰得?とか考える自分が卑小な生き物に思えてくる一本。


『ジョージー・ガール』(1966年イギリス)
監督:シルヴィオ・ナリッツァーノ、原作・脚本:マーガレット・フォスター、脚本:ピーター・ニコルズ
出演:リン・レッドグレーヴ、ジェームズ・メイソン、アラン・ベイツ、シャーロット・ランプリング、
レイチェル・ケンプソン、ドロシー・アリソン