まんじろう日記

まんじろう(ボストンテリア、2009年8月1日生まれ)とのんびり更新しています。

Hooked Rugの歴史 4

2010年03月29日 | 歴史
 19世紀にはいり、フックドラッグはアメリカの主婦たちのホームワークとして定着し、19世紀後半には商品としての出現を見るようになります。

1868年にE.S.Frostがフックドラッグのパターンを売り出し、大変なヒット商品になりました。その2年後にはパターンを部分的にカラープリントして売り出します。そのパターンは他の繊維製品のデザインにも大きな影響を与えることとなりました。
 E.S.Frostのデザインと型紙は、長い間アメリカで流行し、750種の型紙と、180種のデザインを有し、最低3配色から最高80配色を使いこなしていました。




彼の型紙の多くが、現代、ミシガン州ダーボーンにある、ヘンリー・フォード博物館のグリーンフィールド・ビレッジ・コレクションの中に残されています。

 19世紀後半、フックドラッグに関するもう一つの重大な出来事が、オハイオ州トレドで起きました。
Evenezer Rossが現代のフックキング・マシンの原型ともいえる最新型のシャトルタイプのマシンを開発しました。


 このシャトルタイプマシンの開発によって、彼は56種類のパターン(この中にはFrostのポピュラーパターンも含まれている。)と原材料のカーペットヤーン(パイル糸)と彼の開発したシャトルタイプマシンをセットにして、ホームワークを楽しむ主婦たちに販売しました。


このマシンの開発によって、フックドラッグを生産する工場を促すことになります。
 機械の進歩と共に、各地域で主婦たちをコントロールして家庭内で生産し、他の地域に販売しようとする者が現われます。19世紀後半になって商品としてのフックドラッグの出現を見るようになります。

 20世紀に入りフックドラッグは大きな変貌をとげることになります。
 1902年、Lucy Thomson(アメリカ・インディアン モチーフの専門家)によって、マサチューセッツ州ベルチャータウンにアメリカで最初のフックドラッグ工場が設立されます。また、ニューハンプシャー・コミュニティがHelen Albeeによって設立され、同じようなコミュニティがボストン、テネシー、ノースカロライナ、ケンタッキー、ヴァージニア等の諸州でも設立されてきました。
 コミュニティとは、デザインパターンと原材料を支給し、各家庭で商品が生産され完成品をコミュニティ組織を通じて販売するというもの。オークションで売買されることもありました。
 各家庭に支給されるデザインパターンはFrostの物が多用されていたようです。なかには、特別にオリジナルデザインの物を注文してくる人々もいたようです。
この生産システムは1960年代まで続いていました。いまでもペルシャ絨毯などはこのようなシステムで生産されています。
 アメリカ東部の博物館や個人のコレクションをみますと、その製品の品質や工芸性は年々質の高いものになってきています。