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秋吉敏子のバークリー行きは宣伝用だった!

2022-10-19 07:21:38 | 音楽・ライブ・楽器・演奏・芸術・文化


秋吉敏子・バークリーが身元保証人に、学費免除、飛行機チケット付。

1953年11月に、米国のノーマングランツ(プロデューサー)率いるJATP(オスカーピーターソンやベン・ウエブスターやレイ・ブラウンやエラ・フィッツジェラルドなど総勢14人)が来日公演しました。
『Perdido』J.A.T.P. in TOKYO 1953 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Ph-OgD86KPw

その時に、テネシーコーヒーショップの昼の部に出演していた秋吉敏子を聞きにオスカーピーターソンが訪れ、夜はどこでやっているかを聞きます。クラブ・ニュー銀座で自分のバンド、コージーカルテットで秋吉敏子氏が演奏していると、聴いていたオスカーピーターソンが、明日話があるからホテルに来るようにと言います。翌日ホテルで、ピーターソンがグランツに、敏子氏のピアノを絶賛し、ぜひレコードを出すべきだ!と提言します。グランツは君が言うのならという事で即承諾、レコーディングが決定!
1週間後には、ラジオ東京(現TBS)の有楽町スタジオで、Gtハーブエリス、Bsレイブラウン、DsJCハードで収録し、このアルバムは、グランツの経営する米国のレコード会社から発売された。
敏子はアメリカへ行きたい気持ちが強くなる。

ボストン出身のギタリストから、バークリー音楽院に手紙を書いてみたら?と勧められたので、早速入学の手紙を書くも返事は無かった。

しばらく時が経ち、ノーマングランツから写真を撮ってくるようにとのことで、カメラマンが敏子氏を訪れる。
数か月後、グランツから、音楽誌「メトロノーム」が送られてきて、その中に2ページの特集記事で写真とともに敏子氏の紹介文が掲載されていた。

それから間もなくして、バークリーから、入学許可と学費免除と学校が身元保証人になる旨の手紙や、ボストン行きの飛行機チケットも届く。
敏子氏は破格の厚遇だったので、願ってもない話だった。
早速、アメリカに行く。
だが、実はそれは、学校の宣伝用に呼ばれたことを後日知った。

1956年1月、ボストン到着の日の夜に、早速ジャズクラブ「ストーリーヴィル」に行ってみると、自分のアイドルだったバドパウエルが出演していた。
共演のDsが日本で知り合った、エドシグペンだった。奇遇を喜んだエドシグペンは、敏子をパウエルに紹介する。ステージに上げられ演奏した敏子氏を聴いたパウエルは手を叩いて大喜びしたという。
東洋の小娘がパウエルそっくりに弾いていたので、驚き、うれしかったようだ。
敏子氏はボストン初日にパウエルと共演できたことは、運命的なものを感じる。と後日語る。

秋吉敏子氏は今年12月で93歳になり、いまだに現役で活躍されてますね。今後も、旦那のルー・タバキン氏(82歳)と共に末永くご活躍されることを祈念いたします。


参考:
1953年11月4日、7日、8日の東京公演が「JATP・イン・トーキョー ライヴ・アット・ザ・ニチゲキ 1953」(Pablo)としてレコード化されています。
参加ミュージシャンは……ロイ・エルドリッジ、チャーリー・シェイバーズ(tp)、ビル・ハリス(tb)、ベニー・カーター、ウィリー・スミス(as)、フリップ・フィリップス、ベン・ウェブスター(ts)オスカー・ピーターソン(p)、ハーブ・エリス(g)、レイ・ブラウン(b)、J・C・ハード(ds)、ジーン・クルーパー(ds)、レイモンド・チュニア(p)、エラ・フィッツジェラルド(vo)


ノーマングランツのレーベル・ヴァーブ

JATPの成功によって金銭的に余裕ができたグランツは、ライヴ録音だけでなく、設備の整ったスタジオでのレコーディングも手掛けるようになりました。1953年、レーベル名も自分の名前を冠した「Norgran」と改め、スタジオ録音盤を矢継ぎ早にリリースします。

1956年、12インチLP時代をむかえ、12インチLP化する計画を決行。 同時に、エラ・フィッツジェラルドと専属契約を結び、「Verve」レーベルを新たに立ち上げます。

Verveは、トラディショナル中心の1000番台(約30枚)、オスカー・ピーターソンを中心としたポピュラー系の2000番台(約160枚)、ブルース系の3000番台(8枚)、エラ・フィッツジェラルドのソングブック・シリーズを含む4000番台(約70枚)、ステレオ録音の6000番台(約170 枚)、大物ジャズメンを起用した8000番台(約850枚)……これら膨大な数のレコードを、レーベルがMGMに売却される1960年12月までの僅か5年の間に次々とリリース、Jazzの名門レーベルと急成長しました。

西田浩著・秋吉敏子と渡辺貞夫、ほかより

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