1933年2月1日生まれ(2022年現在89歳現役プレーヤー)
宇都宮・渡辺電機工業所の5人兄弟の次男坊として生まれる。
父は、元薩摩琵琶の演奏家。
ちなみに、妹はジャズシンガーのチコ本田(夫はジャズピアニスト本田竹曠・2006年没)、弟はジャズドラマーの渡辺文男、娘は絵本作家の渡辺眞子。
空襲で自宅全焼。1945年8月(12歳)終戦。
終戦後はラジオで進駐軍の流す、明るい陽気なアメリカ音楽、ポップス、ジャズ、ハワイアン、ヒルビリーに衝撃を受ける。
1948年(15歳)映画「ブルースの誕生」で少年の吹くクラリネットに惹かれ、上映期間中は毎日通って、横から入れてもらって観る。かっこいいクラリネットに憧れ、中古のクラリネットを買ってもらう。
近所の駄菓子屋の主人が、無声映画の伴奏でクラリネットを吹いていたという事で、
教えてもらう。その後、教則本で猛練習する。
1949年(高校生16歳)地元の山内楽団に入団する。
進駐軍のバンドの報酬
やがて、進駐軍の仕事が来るが、演奏するにはA~Dランクの審査評が必要。
1950年(当時高校生17歳)の頃の渡辺貞夫氏の入っていた地元のラテンバンドは、下手すぎてランク外でしたが、鰻の接待攻勢で、辛うじてEというランク外の審査評を得まして、何とか進駐軍バンドとして出演できたそう。
その時のバンド報酬は一人一晩300円ですって、今の9千円。
ちなみにAランクは、2千円(6万5千円)
1951(18歳)で、家との約束で2年間は自由にさせてもらう、という事で上京。東京世田谷・三宿で下宿生活。
仕事は新宿などで沢山あり、腕を磨くために、1か月ごとにバンドを変わっていた。
昼はデパ地下のダンスホールで、夜はクラブやキャバレーで、月収はサラリーマンの倍以上稼いでいた。
この頃アルトサックスを4万円(130万円)で購入、警察に目を付けられ、父が家までくる騒ぎ。
進駐軍将校専用の高級クラブ・フォリナーズクラブ。
日本の一流ミュージシャンが出演している店。
毎日、店外で立ち聞きしていた。
ある日、我慢できなくなって、飛び入りでジャムセッションに参加、その演奏が認められ、新バンド、榎本オクテットのサックス奏者に向かい入れられる。3人のサックスのリーダーに抜擢されるも、譜面が読めない為、Tpの仲間からやめさせられそうになる。
2週間待ってください!と言って先手を打ち、下宿に楽譜を持ち帰り必死に楽譜を読む訓練をして、寝る間も惜しんで楽曲を練習し、1月後には、リーダーとして認められる。
家との約束の2年間は間近に迫っていたが、家には帰らずにジャズの街・横浜に行く。
1953年(20歳)で、自分のバンド「ジャフロ」結成する。
「ハーレム」というGI専門のクラブでリズム&ブルースを演奏する。
そこで、秋吉敏子氏と出会う。
その秋吉さんの新バンド「コージーカルテット」に向かい入れられる。
パーカーの曲・ムースザムーチの楽譜をいきなり敏子氏より渡された貞夫氏は2,3小節しか吹けなかった。それを見た秋吉敏子氏は、あなたプロなんでしょ!譜面をちゃんと読めなきゃダメじゃない!などと言われ、ショックを受け、必死に練習する。
音楽に妥協しない秋吉敏子氏のジャズ演奏は、ダンスには向かないので、首になったり、ギャラが300円とか100円とかになった時もあった。
更に音楽にどん欲になっていった渡辺貞夫氏は、フルートに興味を持ち、林りり子先生に指導を受ける。
秋吉敏子氏がバークリーに留学することになり、23歳で「コージーカルテット」のリーダーになる。
1957(24歳)で、ジャズ喫茶で知り合った、貢子(みつこ)さんと結婚。
この頃進駐軍が撤収し、ジャズクラブも閉鎖され、仕事が激減する。
そんな時、ジョージ川口氏より声がかかる。
1958(25歳)で新バンド「ビッグ4プラス1」に加入する。娘誕生。
最初の仕事が、四国松山でエンディングのジョージ川口氏と白木秀雄氏のドラムバトルの最中に、ステージの裏で興行師が銃で撃たれ死亡する。
バンドメンバーも危険なので逃げてくださいと言われ、港まで連れていかれ、そのまま蒸気船で広島まで逃げる。
この年、初リーダーアルバム「渡辺貞夫」を発売。この中には、奥様と娘さんの頭文字をとってつけた曲、「M&M」も入っている。
1961年、28歳になったナベさんに、5年ぶりに帰国した秋吉敏子氏から、バークリー行きを進められる。
妻も背中を押してくれたので、バークリー行きを決意する。
1962年、29歳で月謝が全額免除になる、フルスカラーシップを利用し、バークリーに行く。
ニューヨークに着くと、秋吉敏子氏宅に荷物を置いて、彼女の仕事先であるファイブスポッツへ連れてかれ、演奏していたチャールズ・ミンガスにいきなりステージに呼ばれ演奏する。知らない曲なので、ミンガスは、演奏中にコードネーム、Ebマイナー7とか、Ab7とか教えてくれるのだが、その時にはもう次の小節に行っていたというエピソード。一緒にいたエリックドルフィーの音圧に圧倒される。
ミンガスから一緒にやらないか?と声をかけられるが、バークリーで学びます。と言って辞退する。
バークリー音楽院では、最上位のクラスに編入される。
所持金は200ドル(7万2千円)だったが、1か月で底をつき、学友の紹介で、ボストンのジャズクラブ「コノリーズ」で講師らとバンドを結成し演奏する。
週125ドル(4万5千円)だった。
10か月で千ドル溜まったので、家族(奥さんと娘さん)を呼び寄せる。
生活は、昼は、バークリーで学び、夜はクラブのライブで午前2時までやり、朝は娘を幼稚園に送ってから、バークリーに行く。
バークリーでは、自分が日本でこれまで、レコードを何回も聞いて独学して演奏してきたことが、全て理論づけされて、今までやってきたことが間違っていなかったことが証明され自信を付ける。
1965年32歳
ニューヨークのゲイリー・マクファーランドのバンドに入り、ボサノバを知り夢中になる。
10週間のウェストコースト(西海岸)ツアーに参加するも、家族は一時帰国していて、疲弊感や孤独感が募り、日本に帰りたくなる。
1965年11月9日のニューヨーク大停電で、我慢できなくなり、直ぐバスでボストンのバークリーまで行き、日本に帰ります!と言って、翌日帰国する。
日本に帰国した翌日、銀座のジャズクラブに招かれプロも多くいる超満員の中で演奏する。
1967年34歳でアルバム「ジャズ&ボッサ」発売。2万枚のベストセラーになる。
White Waves(白い波)