最近、
「現代人が一日で受け取る情報は江戸時代の人の一生分」
という言葉を目にして、それがずっと心に残っている。
この言葉のどこに反応するかは人それぞれだろうけど。
「江戸時代の人の生活は、同じようなことの繰り返しだった」のだろう。
「同じことの繰り返しの日々」というフレーズは、現代ではマイナスのニュアンスで使われる。
そうなんかな、あかんことなんかな、
って、心に問い続けている自分がいる。
情報をたくさん持っていても不幸な人もいるだろう。
もちろん江戸時代を幸せに生きた人もいるわけで。
ちょっとスマホを触れば、人と会えば、たくさんの情報が流れ込んでくる。
それに対応出来る人はいい。
上手く捌き、取り入れ、学び、批判し、成長し、繋がれるだろう。
でも、そんな人ばっかりじゃないから。
新しい事がわっと入ってくると、キャパ越えしてしまう人もいる。はい、私。
「情報過多によるキャパ越えって、一体なんだ?(汗)」
と自分でも呆れるのであるが、でも実際脳みそがパンクするような感覚になるのだ。
どうして情報を入れると暗い気持ちになるのか考えてみたところ、原因は「焦り」だ。
毎日誰かの一生分の情報が“当たり前に” 流れ込んできたら、そりゃ「あぁ、私にはもっとすべき事があるのに全然出来ていない、私はダメ人間だ」 と思ってしまうのも無理ないよ。
でも冷静に考えようよ。
私は一人。
どうやったって一人分の人生しか送れないんだから、胸を張って一人分の人生を送ればいい。
もちろん、欲張っても良いのかもしれない。
せっかくたくさんの情報を得られる現代に生きてるんだから。
それが出来る人はそうした方が楽しいし、より納得できる一人分の人生を歩めるでしょう。
「どうやらそういう生き方はしんどいみたい(・∀・)」
という私は、情報との付き合い方、情報を得た時に焦る自分との付き合い方を分かっておかなきゃだ。
情報をなるべく入れないように、心に不穏な波を立てないよう意識している私の生活は、周りから見たらひどく単調でつまらなく見えると思う。
でもね、紅茶の味が、天気によって違うんだよ。
道端に落ちている犬の糞が、日に日に微生物に分解されてゆく様子を見て、感動するんだよ。
「こんな所にいたら危ない」と思って移動させた芋虫が、夜に同じ場所で死んでいるのを見て、自責と後悔と人のエゴと虫の一生に想いをめぐらせてるんだよ。
そういうことにいちいち震える自分の心を、私は大切にしたいんだ。
そんな心、他の人の目にはなんにも映らないけど。
でもそこを手放したら、そこの感度を下げたら、私は自分の人生を生きられないと確信している。
情報を“無理して”追って、“無理して”適用しようとして、心の感度を下げるようなことになるなら、私には要らないや。
欲張らずに、自然と自分の手が伸びる情報を手に取って、同じようなことの繰り返しの日々の中で心を震わせて、私の一生を生きたらいい。