○ 深まる謎
東西の金砂神社トレッキングを終えて数日してから、一つ気になる事が頭の中で膨らん
でしまいました。旧水府村を流れる「山田川」上流域に東金砂神社が、旧金砂郷町を流れ
る「淺川」上流域に西金砂神社が建立されています。それぞれの川は、それぞれが「久慈
川」に流れ込んでいるものと思って、それを前提に今回のトレッキングシリーズを書きま
した。さらにその上で、いろいろと身勝手な推論を展開してしまいました。
「山田川」と「久慈川」の合流点は、常陸太田市の水郡線の河合駅付近にあり、私自身
何度も確認していますが、「淺川」と「久慈川」の合流点は、確認した事がありません。
何となくそう思い込んでいました。まぁ、そんなに力む事ではないんですが、それぞれの
神社が、ほぼ同条件、同格で建立されたのではないかと推論している私にとっては、もし
浅川が山田川の支流であるとちょっと困る状況になりますので、気になっちゃいました。
そんな訳で、トレッキングも兼ねて確認する事としました。
8月某日、本当にクソ暑い日の昼前に確認しに行きました。
そして、確認しました。
淺川と久慈川「合流点案内板」
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間違いありません。淺川は、久慈川に注ぎ込んでいます。
現常陸太田市(旧金砂郷町)の中野十文字近く、栄橋下流約1kmぐらいのところで、間
違いなく、久慈川に合流しています。
合流点です。
淺川と久慈川「合流点」
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確認しました。
このためだけに、15kmぐらい歩きました。
これで、ぐっすりと眠れます。
ほんのちょっとした違いなんですが、私にとっては大きな違いですので、ホッとしまし
た。
ただ私が抱いている謎は、まだまだあります。
1. なぜ、ほぼ同時期に、ほぼ同じ祭神を東、西と分けて祭る必要があったのか ???
一方が廃れても一方が後世に生き残る保険的な意味合いなのか。
また、このエリアから約30kmぐらい西に「鷲子山上神社」(先日歩いてきまし
た。)がありますが、この神社は東西の金砂神社建立から後れること1年の西暦807
年に建立されています。
2. 茨城・県北のこの広いともいえない地域で古代のほぼ同時期に、何故三つの神社が建立されたのか ???
また、その三つの神社は、今日までそれぞれ隆盛だったかどうかは別にして営々と存続
しています。
3. その反映を裏付ける富を、どのようにしてこのエリアが生み出し続けることができたのか ???
不思議で不思議でたまりません。謎が深まるばかりです。
まぁ、時間はたくさんありますので、気長に考えて行きたいと思います。
次回に、つづく。
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でしまいました。旧水府村を流れる「山田川」上流域に東金砂神社が、旧金砂郷町を流れ
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川」に流れ込んでいるものと思って、それを前提に今回のトレッキングシリーズを書きま
した。さらにその上で、いろいろと身勝手な推論を展開してしまいました。
「山田川」と「久慈川」の合流点は、常陸太田市の水郡線の河合駅付近にあり、私自身
何度も確認していますが、「淺川」と「久慈川」の合流点は、確認した事がありません。
何となくそう思い込んでいました。まぁ、そんなに力む事ではないんですが、それぞれの
神社が、ほぼ同条件、同格で建立されたのではないかと推論している私にとっては、もし
浅川が山田川の支流であるとちょっと困る状況になりますので、気になっちゃいました。
そんな訳で、トレッキングも兼ねて確認する事としました。
8月某日、本当にクソ暑い日の昼前に確認しに行きました。
そして、確認しました。
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間違いありません。淺川は、久慈川に注ぎ込んでいます。
現常陸太田市(旧金砂郷町)の中野十文字近く、栄橋下流約1kmぐらいのところで、間
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合流点です。
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ほんのちょっとした違いなんですが、私にとっては大きな違いですので、ホッとしまし
た。
ただ私が抱いている謎は、まだまだあります。
1. なぜ、ほぼ同時期に、ほぼ同じ祭神を東、西と分けて祭る必要があったのか ???
一方が廃れても一方が後世に生き残る保険的な意味合いなのか。
また、このエリアから約30kmぐらい西に「鷲子山上神社」(先日歩いてきまし
た。)がありますが、この神社は東西の金砂神社建立から後れること1年の西暦807
年に建立されています。
2. 茨城・県北のこの広いともいえない地域で古代のほぼ同時期に、何故三つの神社が建立されたのか ???
また、その三つの神社は、今日までそれぞれ隆盛だったかどうかは別にして営々と存続
しています。
3. その反映を裏付ける富を、どのようにしてこのエリアが生み出し続けることができたのか ???
不思議で不思議でたまりません。謎が深まるばかりです。
まぁ、時間はたくさんありますので、気長に考えて行きたいと思います。
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