コニタス

書き留めておくほど重くはないけれど、忘れてしまうと悔いが残るような日々の想い。
気分の流れが見えるかな。

君汲川流我拾薪

2009-11-10 07:27:34 | 
先日、チームと言う記事を書いた。


私はグループワークが苦手だ。
彦星先生は、チームを作って何かを作り上げる力に長けていて、ブログから学ぶことも多い。最近の、これとか。
なるほどな~、そうだよな~、と思いつつ、自分には出来ん! と思って逃げ出してしまったり……。


現在追い込み中の企画は、去年のICORINの様には行かないかもしれない、と言う心配がかなり現実的になってきた。
まぁ、ICORINが奇跡的だったんだろうけど、それにしても、一つ良い例を知ってしまうと、それが標準になるのが人情というもの。


で、なぜ、心配なのか、と言う話。

“最近の若者”の傾向の一つなのかも知れないんだけど、前からいたようにも思う“指示待ち”。

今はサッカーも盛んだけれど、日本人は野球が好き。
野球は、基本、“指示待ち”のスポーツだ(なんて言ったら多分反論が沢山あるかも知れないけれど)。
サッカーは、一旦試合が始まってしまえば、監督はホントは指示できない。

だから、戦術の“型”をしっかり共有して、あらゆる局面でみんなの身体が一つの意思を持って反応できるようにチームを作る。
その上で“ファンタジスタ”は存在する。

私は、万年補欠だったけれどサッカー少年だった。
だから、と言うのではないけれど、やっぱりバントかヒッティングか、監督の指示が出るまで何も出来ないようなチームに所属したくはない。

その時最善の判断だと思って動いたところに、最善のパスが来る。
最善のパスを出せば、そこに必ず走り込む相棒がいる。

私の考える“チーム”というのは、そういうものだ。


今日の記事の標題は、中学か高校か、漢文というのを習い始めた極はじめの頃憶えて、ずっと気に入っている詩、「桂林莊雜詠示諸生」の一節。廣瀬淡窓ね。

リンク先の解説によると、訓読に異説(と言うか、そっちが公式?)があるらしいが、やっぱり
  君は川流を汲め 我は薪を拾はん。
と読みたい。

指示を待たずに、「私はこれをやるよ」「君、これやってくれる?」と言う呼吸。

ともに暮らし、ともに学ぶチームというのは、そういうことなんだと思う。
この短い詩(この一節だけじゃなくてね)を、私も「示諸生」。
熟読玩味されたし。





おぉ、そして、そんな心配とは無関係に、11月・12月の企画は、もう、イベントを通り越して、事件の領域に入っていると思うのだよね。

見逃す手はないです。

詳細今週中にアップします。
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