新編 辺境の物語 第二巻 カッセルとシュロス 中編 7話
第五章【偵察員ミユウ】①
カッセルの城砦ではミユウのことを怪しむ者はいなかった。
凱旋して勝利に沸いている城砦に、バロンギア帝国の偵察員がメイドに化けて潜入しているとは誰も想像しないことである。メイドなので兵舎の中は自由に出入りできた。むしろ偵察活動としては深入りし過ぎたかもしれないくらいだ。仕事上、顔を覚えられては差し支えるので、守備隊の幹部や隊員にはあまり近づかないよう慎重に行動した。
その幹部だが、凱旋のどさくさに紛れてカッセル守備隊の隊長が交代した。というよりは凱旋部隊の副隊長補佐だった者が新隊長の座を奪い取ったのだ。しかし、新しい隊長は人望がなく兵士からはアリスと呼び捨てにされていた。
他には、自分は王女様だと言い張る娘がいて、周囲からはお嬢様と持ち上げられていた。お嬢様は見習い隊員でありながら個室を与えられている。勤務初日にミユウが覗いた二段ベッドの部屋に住んでいたのだったが、もっと大きい部屋に移った。引っ越しの時にはお嬢様のドレスを運ばされた。百合の花の刺繍が施されたみごとなドレスだった。確か、ルーラント公国の王室の紋章は「白い百合」だったはずだ。王室の紋章を使うのを許されているとなると、それなりに地位の高い貴族の出身であろうと思われた。
守備隊を仕切っているのは司令官のエルダだ。これも指揮官から司令官に昇格した。エルダは煌めくような美人だった。透き通る白い肌、高い鼻筋、理知的な瞳。髪はきっちりショートカットにしている。その美しさに、敵ながら思わず惹きつけられそうになった。
司令官に近づくのは慎重しなければと思い、先輩のメイドから情報を集めた。聞き込みを続けたところ、守備隊の人事を刷新したのは司令官の意向だった。前の隊長を解任して監獄に押し込んでしまったのだ。勝ったからといってやりたい放題、何でも好き勝手に振舞っているようだった。
司令官も気になるが、それよりも大事なのはシュロス月光軍団の捕虜の安否である。
捕虜になったのは二人で、月光軍団副隊長のフィデスと配下のパテリアだった。牢獄に押し込められているのではと案じたが、そうではなくて兵舎の一室に軟禁されているようだった。
とりあえず捕虜が無事だと判明したのは朗報である。潮時を見てカッセルを抜け出しシュロスの城砦の月光軍団に報告することにした。
だが、せっかく兵舎の奥深くまで潜り込んだのだから、偵察だけで済ませるわけにはいかない。守備隊の幹部を、できれば司令官か隊長を殺害して月光軍団の仇を討ちたい。
しかし、ミユウは偵察は得意だが暗殺となると不得手だった。士官学校では暗殺の方法までは教えてくれなかった。というより、変装には熱心だったが、格闘技の訓練はサボっていただけだ。
ミユウはパンとジャガイモをのせたトレイを運んだ。監獄にいる囚人、三人分の食事だ。囚人とは守備隊の前隊長たちである。古参のメイドがこの仕事を嫌がったので新入りのミユウが届けることになった。
獄舎の入り口で足を止めた。奥の方から言い争う声が聞こえる。囚人たちが揉めているようだ。
鉄格子の中で監視兵が囚人を蹴飛ばしているのが目に入った。外の廊下にも一人立っていて逃げられないように見張っている。投獄されているとはいえ前隊長たちなのだから、もう少し丁重に扱ってもよさそうだがと思った。
倒れた囚人の頭を踏み付けたまま監視兵が振り返った。
「おっ・・・」
それはカッセル守備隊の司令官エルダだった。
「ロッティーは外にいろって言った・・・」と言いかけてメイドだと気が付いた。
エルダは両手を腰に当てた。
「メイドか」
靴は倒れた女の頭に乗せたままだ。暴行しているのを見られたにもかかわらず、隠そうともしない、むしろ誇示しているかのようだ。
「食事を届けるように言われました」
「見かけない顔ね」
エルダにはまだ顔を覚えられてはいなかった。
「初めてお目に掛かります。つい最近、雇われた者です」
「新入りに運ばせたのか。まあ、古くからいるメイドが、こんなところを見たらビックリするだろう」
驚いたのはミユウの方だ。図らずも敵の司令官と遭遇してしまったのである。
エルダが牢獄に入れと言った。ミユウは念のため廊下に立っている見張りに視線を送ってから、トレイを抱えて鉄格子の中に入った。それとなく見回して位置を確認する。捕らえられているのは三人、頭を踏まれているのが一人、他の二人は縛られて部屋の隅の壁際にいた。
「名前は・・・」
「はい、ミユウと申します」
「エルダ、ここの司令官よ」
エルダはミユウが持っているトレイをひったくるように奪い取り、
「ありがたく食べなさい」
そう言ってトレイを床に叩きつけた。パンは転がりイモは潰れた。
「あらら、手が滑っちゃったわ。コイツらには残り物でも食わせておけばいいのに、パンとイモなんてもったいないなあ」
エルダはケラケラと笑っている。投獄されているのは元の上官たちだ。食べ物を床に投げつけるとはいくら何でも酷い扱いではないか。ミユウは床に落ちたトレイを拾い上げて小脇に抱え、転がったパンに手を伸ばした。
「余計なことはするんじゃない」
一喝された。言い方もキツイがエルダの表情が険しくなった。
「私たちを戦場に置き去りにして逃げたんだもの、コイツらは裏切り者、卑怯者なのよ」
足元に倒れているのが前隊長のリュメック・ランドリー、縛られているのは副隊長のイリングと部下のユキということだった。これが戦場から逃亡した者の成れの果てだ。
「廊下にいるのはロッティー」
エルダが指差した。
「元は隊長の仲間だったの。だけどリュメックに見放されて一緒に戦場に置いてけぼりにされたわけ」
ロッティーという見張りの兵は前隊長の配下だった。
「良かったでしょう、私たちの仲間になって。ロッティー、本当だったら、あんたも一緒に監獄に入っていたんだよ。それが今では城砦監督にしてあげたんだもの。感謝しなさい」
やはり人事はエルダが好き勝手に決めているのだった。
「監督の仕事は囚人の見張り番だけどね」
詳しい事情は知らないが、ロッティーという隊員にしてみれば幹部職に就いているのは幸運と言うべきだろう。その仕事が元の上官の監視役であったとしてもだ。これもエルダがその役目を押し付けたのに違いない。ミユウはますますエルダが残忍な女に思えてきた。
「隊長さん、おっと、前の隊長さん。お腹空いてるでしょう、早く食べなさいよ」
司令官のエルダはリュメックを痛め付けることに嬉々としている。しかも、ミユウに背を向けていて無防備な状態だ。
襲撃のチャンスだ。背後から襲いかかって司令官を殺害し、拘束された囚人を自由にする。そのあとで味方同士での闘いが始まるだろう。
しかし、見張りのロッティーが邪魔だった。
その時、
「エルダ、死ねっ」
副隊長のイリングがエルダに飛び掛かった。
ミユウはとっさに手にしていたトレイで防いだ。
自分ではなくエルダを守った。
ガツン
ミユウが差し出したトレイが顔面に当たりイリングがひっくり返った。
「やったわね」
エルダはイリングに跨って右手を首に押し付けた。
「ギャン」
イリングが弾かれて壁際まで飛んだ。目には見えなかったが、まるで指先から稲妻が発射されたかのようだった。
「バカ、ぶっ殺されたいのか」
エルダは右手を振っていたがミユウに気が付くと、
「ちょっとした魔法よ」
と言った。
「ありがとう、ミユウ、あんたのおかげで助かったわ」
「お怪我はありません・・・か」
語尾が掠れた。
こともあろうに、バロンギア帝国の偵察員ミユウはカッセル守備隊の司令官を助けてしまったのだ。
<作者より>
本日もお読みくださり、ありがとうございます。
ミユウとエルダの初対面の場面です。今回を境に、物語の中心がカッセルからシュロスへと移り変わっていきます。ミユウはこの先、第五巻までずっと長く活躍します。