今朝、コーヒーの豆を挽こうとして、
豆のパッケージについている「炭焼きマンデリン」という
シールに気づいた。
そして、自分がマンデリンを飲んでいるということを、
なんだかとても新鮮に感じた。
そんな自分に、もう一人の自分が、
「あなた、自分で買ったんでしょ」と、
呆れたように突っ込みを入れる。
そう、昔は、たとえば大学生の頃には、
コーヒーの種類の違いをああだこうだと言っていた。
どこのパン屋のクロワッサンがどうのこうの、と言っていた。
日本酒を飲みながら、どの銘柄は辛いの甘いのと言っていた。
まるで批評家のように。
当時のボーイフレンドは「僕はキリマンジェロが好きなんですよ」
と言っていたっけ。
「キリマンジェロってどんな味?」と思った私は、
ちょっと調べてみて、それが酸味の強めなマメだと知って、
けっこうがっかりしたのを覚えている。
私は、苦みの強い方が好きで、酸味の強いコーヒーは好きではない。
それは今でも変わらない。
でも、その後、夫となったその彼氏は、
今では「僕は、コーヒーは飲まない」とか言って、紅茶をすする。
そしてある日突然、以前から飲んでいた紅茶を
「これ、おいしい紅茶だね。どうしたの?」なんて言っている。
「この紅茶は、○○ちゃんがロンドンのお土産にくれたものよ」と、
缶を見せる私。
「ふーん」と言って、缶を眺める夫。
でも、二人とも、明らかにそのラベルにある名前を読もうとも、
覚えようともしていない。
たぶん、グレーで円筒形だということくらいは
認識するのだと思うけれど。
それでも、飲んでいるコーヒーはおいしいと思うし、紅茶もおいしい。
なんか違うと思えば次回は豆を変えてみようと、
避けるべきものの名前を頭に刻む。
その時は、少しだけ頑張って覚えるか、メモをする。
どうしても同じものが欲しいときも、そうするだろう。
子どもたちには、モノの名前をうろ覚えのままで話していると、
「また、このいい加減さ」と指摘されたりするのだけれど、
そうやって暮らしていても、十分、おいしいものを味わえるし、
十分幸せだと思っている。
そして、どんな高級レストランのお料理より、
家で食べるいつもの普通の手料理が、
なんだかずっとおいしいと感じるようになった。
私が、本当に高級なものを知らないからなのかもしれない。
モノの覚えが悪いだけなのかもしれない。
エネルギーが枯渇して来たので、
必要最低限の使い方をしようとしているのかもしれない。
もしかすると、人生を諦めているのかも(?)しれない(笑)
「最上志向」という資質が、ボトムの方なのかもしれない。
でもね、十分それで幸せなんだと感じるんだよね。
歳をとるって、こういうことなのかな、と思った朝でありました。