狭き門より入れ

スペイン在住クリスチャン。聖書にある救いとは?罪の赦しとは? 礼拝などから、福音メッセージを載せています。

人の目にはまっすぐに見える道がある

2020年10月23日 | 聖書
人の目にはまっすぐに見える道がある。
その道の終わりは死の道である。
笑うときにも心は痛み、
終わりには喜びが悲しみとなる。(箴言14章12,13節)

 私は、以前、外国に行く機会がありました。 その時、私の乗った車が高速道路を走ったのですが、その高速道路は、日本と比べると起伏やカーブが少なく、ほとんど、まっすぐに走っているような印象を受けました。 まっすぐな道というのは遠くまで見通すことができます。
さて、この聖書の言葉では、人生が道にたとえられています。 人の目には、まっすぐに見える道があります。 その道の終わりは死の道です。 つまり、人生の最後に、必ず死があるということを語っています。 これに反論する人はいません。
私は、人に、このように話すことがあります。 「あなたにも、いつか死ぬ時が来るでしょう。 それは、100パーセント確実です。 金持ちでも死にますし、有名人も死にます。 誰でも最後は死ぬのです。 死に方もさまざまです。 病気で死ぬ人もいますし、事件に巻き込まれて殺される人もいます。 けれども、われわれ人間に共通していることは、誰であれ、どんな形であれ、最後は絶対に死ぬということなのです。」それを聞くと、多くの人は、「それは、そうだ。」と、同意します。 あなたも、同意されると思います。 人生は、最後、死で終わるのです。

 あなたは、死について、意識したことはありませんか?身近な人が死んだ時や、有名人が死んだニュースを聞いた時、いいえ、そうでなくても、ふと、死について考えてしまう時があるかもしれません。 私も小さい頃、「人間は死んだらどうなるのだろう?」と、よく考えました。 そして、考えると必ず恐怖を覚えましたので、すぐに考えることを止めようとしたものでした。
しかし、今日、是非、死について考えていただきたいと思います。 どうか、ごまかさないで下さい。 真剣に向き合ってください。 なぜなら、死は、すべてのものを奪ってしまうからです。 家族からも、離れ離れにされます。 持ち物は全部、手放さなければなりません。 死と言うのは、大きな問題なのです。
もう一度、13節の聖句を見てください。
 
 笑うときにも心は痛み、
 終わりには喜びが悲しみとなる。


 若い時は楽しくても、歳をとれば死が近づきます。 どんなに楽しんで笑っても、最後は死んでいくのです。 安らかに眠れる平和な日々を送っているかもしれません。 でも、最後は全部を失います。ですから、聖書が死について何と言っているかを聞いていただきたいのです。
「死は、分離である。」と、聖書は語っています。

たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に・・・・
        (ヤコブの手紙2章26節)

 死というのは、たましいと肉体の分離です。 肉体は、この地上に残ります。 しかし、たましいは、永遠に生きるのです。 そして死後の世界に行かなければいけません。 また、このようにも、書かれています。

そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように・・•(ヘブル人への手紙9章27節)

 人間が、一度死ぬことが決まっているというのは、ご存知の通りです。 けれども、聖書には、死後にさばきを受けると、はっきりと書いてあるのです。 死後、あなたは、あなたを創られた神様の前に立つのです。 そして、あなたの罪がさばかれ、最後は、永遠の地獄に投げ込まれてしまいます。 これは、作り話ではありません。 聖書にはっきりと書いてあるのです。 地獄が存在するのです。 そこでは、尽きない火が燃えています。 そして、そこでは、水一滴さえ、もらうことができません。 先に、死は分離だと言いましたが、ただ単に、たましいと肉体の分離だけではありません。 神様からも、神様の恵みからも、切り離されてしまうので、ひとつの憐れみも受けることができないのです。 ですから、「水を下さい。」と、言っても、決して、もらうことができないのです。 そして、地獄からは、永遠に出ることができません。 これは、恐ろしい現実なのです。
死について考える度に怖くなるのは、地獄に行くのが怖いからなのです。 わたし達人間は、頭では否定していても、心の底で地獄の存在を知っているから、死に恐怖を覚えるのです。

私の父が、イエス様を信じる前の話です。 私が父に地獄の話をした時の、私たちの会話です。

父:「お前は、地獄を見てきたのか? 見たこと無いくせに、地獄、地獄と言うな。」

私:「お父さんも、地獄がないということを、確かめて来たわけではないでしょう? 死がそんなに恐ろしいのは、地獄を恐れているからなんですよ。」

父:「いや、違う!未知の体験だから、怖いだけだ。 どうなるかわからないから怖いのだ。」

私:「未知の体験ならば、ワクワクする人もいるはずでしょう?」

 さて、そんな人が、いるでしょうか?「ああ、私は、もうすぐ死ぬのだ。 これから、どうなるか、すごく楽しみだ。 ワクワクして眠れない。」・・・。 あなたは、そんな人を見たことがありますか?いいえ、皆、死を恐れています。 それは、地獄の刑罰を恐れているからなのです。

 あるいは、こうおっしゃる人もおられるかもしれません。 「私は地獄に行くほど、悪い人間ではありません。」けれども、自分についての公正な判断は、自分自身でするものではありません。 たとえば、ミスユニバースを例えにあげてみましょう。 自分が美人だと思う人が、そのコンテストに応募します。 けれども、どんなに自分が美しいと思っていても、それを判断するのは審査員です。 同じように、わたし達が、どんなに自分が正しいと思っていても、それを評価するのは神様なのです。

 残念ながら、神様の前に、罪の無い人は、ひとりもいません。 わたしも罪人です。しかし、あなたも、罪人です。 わたし達の心は、醜いのです。 家族や友人には、優しくできるかもしれません。 人助けもできるかもしれません。 けれども、神様は、私たちの心の中をご存知なのです。 神様がご覧になるわたし達の心は、しみだらけです。 どうか、正直に、自分の罪を認めてください。 神様は完全に聖いお方です。 その神様の前では、すべての人が罪人なのです。

 色々な罪がありますが、何よりも大きな罪は、何でしょうか? それは、まことの神様を無視するという罪です。 あなたも、神様のご存在は知っておられるはずです。 しかし、真剣に神様に感謝したことがありますか? 本気で神様を崇めたことがありますか? ただの一度も感謝せずに、生きていませんか?・・・それは本当に、大きな罪なのです。 それなのに、自分の思い通りにならないと、人間は神様に文句を言います。 自分の苦境の時だけ、「神様助けて!」と祈りますが、願い通りの助けが来なければ、「神様など信じるものか!」と怒ります。 中にはもっとひどい人もいます。東日本大震災の時には、本当にたくさんの方が亡くなりました。 ところが、津波が引いた後、多くの死体が横たわる中、略奪している者たちがいたそうです。 中には、指を切断されて指輪を取られた死体もあったそうです。 全くひどい話です。 すると、この話を聞いて、「だから、神なんて信じられない。」と言う人たちがいます。 「こんなにこの世界が悪いのは、神様のせいだ。 」と、その人たちは言うのです。 いいえ、神様のせいではありません。 人間の罪のせいなのです。 けれども、人間は、どこまでも神様に対して反抗的です。

 しかし、こんなわたし達に、神様は、救いを用意しておられます。 神様は、誰一人として、地獄に行くことを望んでおられません。 わたし達罪人を地獄から救うために、神様は、救い主を送って下さいました。 その救い主、イエス様が、あなたのために、十字架で死んでくださったのです。 イエス様は、あなたの罪を背負って死んで下さいました。 あなたが地獄で受けるベき罰を、イエス様が全部、代わりに受けてくださいました。 そして、最後、「完了した。」と、おっしゃいました。 罪のさばきが、全部終わったということです。 イエス様は、死後三日目によみがえられ、その後、四十日間にわたって、何度も何度も復活の姿を、たくさんの人に現して下さいました。 この救い主こそが、あなたに必要なのです。 あなたを地獄から救えるのはイエス様だけです。 イエス様を信じるなら、罪が許されるのです。 そして、死を迎えても、天国に行くことができるのです。

 あなたには、死に対する恐れがありますか? もし、そうならば、今日はあなたにとってのチャンスです。 どうか、イエス様を信じて下さい。 あなたの心にイエス様を救い主として、今、受け入れてくださいますように。

(特別伝道集会メッセージより)

神が語る時

2020年10月19日 | 聖書
人が聞くとき、神は語ります。
これは、とても重要なことです。 聞くこと、それはその創造者に対する被造物の敬意の表れのひとつではないでしょうか? これは、ただ単に聞くよりも、もっと強い意味で、注意深く聞くことを意味します。
聖書を通して、私たちは、私たちの魂の救いに関しての神様のことばを聞くことができます。
それは、“私たちは罪人であり、しかし、神のひとり子のイエスキリストが、十字架で私たちの身代わりに、私たちが受けるべき罪の罰を受けて下さったので、自分が罪人であることを認め、イエスキリストを救い主として受け入れる者は、罪を許され、死後、永遠の天国に行くことができる。 “ と、いうことです。
“聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。“ と、預言者イザヤは、書き残しています。

また、イエスキリストを信じて、新しいいのちを受けたとき、私たちは、主を喜ばせるために、すべてにおいて、新しいいのちを受けた者としてふさわしく行動したいという願いが与えられます。

“主にふさわしく歩み、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる良いわざのうちに実を結び、神を知ることにおいて成長しますように。“ (コロサイ 1:10)

ですから、聖霊に導かれて、正しい方向に進むことができるように、神の言葉が私たちに明らかにすることに耳を傾ける必要があるのです。

道には罠が散らばっていて、人の敵である悪魔が私たちをつまずかせようとします。 イスラエルの偉大な王ソロモンは、若い日に、彼の祈りの中で、自分の責任を果たすことが出来るように、「聞き分ける心」を神に求めました。 私たちも彼のこの祈りに倣いたいものです。

“善悪を判断してあなたの民をさばくために、聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、この大勢のあなたの民をさばくことができるでしょうか。“(1列王記 3:9)

また、使徒ヤコブがこのように言っています。

“人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。“( ヤコブ 1:19)

人が聞くとき、神は話します。それに反して、彼の言うことを聞きたくない人は、私たちの魂の敵(悪魔)の声を、聞くことになるでしょう。
みなさん、神様のことばを聞くために、聖書を読むことを心からお薦めします。

(Buena semilla より)

悪者の道は暗闇のようだ

2020年10月19日 | 聖書
 悪者の道は暗やみのようだ。
 彼らは何につまづくかを知らない。(箴言4章19節)


何年か前に、スペインのパルセロナでテロ事件がありました。 主犯は22才のモロッコ人だったと記憶しています。 その事件についての報道で、犯人グループの青年たちを教えたことのある先生が書いた、一通の手紙を見ました。 その手紙は、犯人を弁護するのものでも、事件に対する個人的な意見でもなく、その先生の目に映った教え子だった彼らの姿でした。 彼らは、環境に順応した、ごく普通の青年たちだったそうです。 そして、その手紙の最後で、この先生は、「私たちは、一体何を間違ってしまったのでしょうか?」と訴えていました。

 悲惨なテロ事件は相次いでいますが、この世で起こっている悲惨な事件はテロだけではありません。 残念なことに私たちの周りでも、家庭内暴力、校内暴力、いじめなど、悲惨なニュースは増える一方です。 そして、それらについて、「何を間違ったのか?」「何がつまづきとなったのか?」というコメントが集まります。 すると出てくる答えは、「教育が、管理が行き届いていなかった。」「教育方法が間違っていた。」「もっと、教育の予算を増やすべきだ。」などなのです。 しかし、どんなに、力を注いでも一向に改善に向かわないのが現実です。

 一体、何が間違っているのでしょうか? 聖書に答えがあります。あまりに簡単な答えなので、人々は見過ごしていますが、答えは、「人間が、神を無視して生きているため。」です。 人間が、それぞれ自分の思い通り、好き勝手に生きていることが原因なのです。 私たちは、神を無視して、物事を決めます。 神を無視した行動をとります。 どんな決断をするにしても、どの道を行くにしても、神様の意向を無視しているのです。 「神なんて必要ない。」「神なんて、役に立たない。」[もう少し努力をすれば・・・。」「もっと調査して研究を重ねれば・・・。」「もう少し予算をアップすれば・・・。」

 いいえ、どんなに努力を重ねても、どんなにお金をつぎ込んでも、問題は解決しません。 なぜなら、この世の中のすべての悪の原因は、人間の「罪」にあるからです。  

 それは、決して他人事ではありません。 「罪」は、あなたにも、わたしにも、すべての人間の中に宿っているからです。

私たちは、罪人なのです。 わたし達も、それぞれの人生で、神を無視し、自分たちの思い通りに生きているのではないでしょうか? そして、自分の思惑通りにいかないことがあると、「何を間違ったのだろう?」と考えます。 そして、「もっと努力が必要だ。」「もっと勉強が、もっと研究が、もっとお金が、もっと時間が・・・」と、神以外のあらゆるものに、答えを見つけようとするのです。 決して、「神様は、どう見ているのか、どう思っているのか、何とおっしゃっているのか?」と、聖書を開こうとしないのです。

 もう一度、最初のみことばを見てみましょう。

 悪者の道は暗やみのようだ。

 この「悪者」ということばは、「罪人」と置き換えることができます。

 罪人の道は暗やみのようだ。

 私たちは、暗やみの中、行き先さえ知らずに歩いているのです。 思いのままの方向に行き、壁に当たれば後戻りし、方向を変え、再び進んで、「まあ、明日は何とかなるさ。」と考えます。 けれども、どの方向に行っても同じ暗やみなのです。

あっちに行ってはつまづき、こっちに行ってはつまづき、の繰り返しです。 私たちは、一番重要なものを忘れているのです。 暗やみに必要なもの、それは、光です。


 すべてのものは、この方によって造られた。 造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

 この方にいのちがあった。 このいのちは人の光であった。

 光はやみの中に輝いている。 やみはこれに打ち勝たなかった。(ヨハネ 1章3~5節)
 
 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。(ヨハネ 1章9,10節)

この光とは、イエス・キリストです。
神の御子イエス・キリストは、今から約二千年前に、人間の姿をとってこの世に来られ、私たち人間のすべての罪をその
身に背負って十字架にかかり、私たちの身代わりとなって、罪の刑罰を受けてくださいました。 そして、死後三日目によみがえられました。
だれでも、悔い改めて、このイエス・キリストを、自分の罪のために死んでくださった唯一の救い主と信じるならば、すベの罪が許され、神の子供とされ、永遠の天国へ行く者とされるのです。

そして、イエス様は、私たちの光となって、私たちひとりひとりを忍耐と愛を持って導いてくださるのです。

日曜礼拝メッセージより)


最後の蝉

2020年10月19日 | 生活
今日の日中は、温度が28度まで上がりました。 昼過ぎに我が家の老犬を散歩させていると、頭の上から蝉の声が聞こえました。なんとまあ、遅生まれの蝉でしょう! 仲間が死に絶えた今頃になって、弱々しく鳴いているのです。 朝晩は冷えるし、どれだけ生き延びれることか…。
私は複雑な思いになり、しばらくそこを動けませんでした。
いつ生まれるのか、どこに生まれるのか、何日生きるのか、この蝉は選べません。けれども、その時、その場所で、ただ鳴き続ける。 その与えられた使命を全うしている…。 偉いなあ…。 なんて、胸が熱くなってしまったのは、秋ゆえの感傷のせいでしょうか。

semakimo






神は唯一です

2020年10月19日 | 聖書
神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。(テモテ第一2章5節)

知り合いの牧師から聞いた、クリスチャンになった彼のおばあさんの話です。このおばあさんは、クリスチャンになる前は、熱心な仏教徒だったそうで、1日三回、毎日欠かさず、仏壇に祈っていたそうです。時には、おばあさんに、釈迦の幻が現れて、「今日は、どこそこで事故があるから、近づくな。」などと、アドバイスをして、おばあさんを助けてくれることもあったそうです。その牧師は、おばあさんにイエス様の話をしたのですが、おばあさんは、「私には、釈迦がいるから。」と言って、なかなか真剣に話を聞いてくれなかったそうです。

時が経ち、おばあさんも年を取っていき、ある年には、「もう、今年中に、死ぬだろう。」と自分で言うほど、体調が悪くなっていました。そして、おばあさんは、だんだん死に対して恐怖を覚えるようになりました。それと同時に、以前は聞いてくれなかったイエス様の話をまじめに聞いてくれるようになったのです。

・天地を創造されたまことの神様がご存在すること。

・人間も神様の愛の対象として神様の創造物であること。

・ところが、わたし達人間は神様の前に罪人であり、このまま死んでしまうと、死後、生前に犯したすべての罪を神様に裁かれて、地獄に送られてしまうこと。

・けれども、私たちを愛する神様は、人間を永遠の地獄から救うために、ひとり子のイエス様をこの世に送ってくださったこと。

・罪の無いイエス様は、わたし達すべての人間の罪を背負い、十字架にかかって、父なる神様からの罰を私たちの身代わりとなって、受けてくださったこと。

・そして、神である証拠に、死後、三日目によみがえり、多くの人の前に現れてから、天に昇られたこと。

・わたし達が罪を悔い改めて、イエス様が、自分の罪の身代わりに死んでくださった唯一の救い主と信じれば、罪が許され、永遠の天国に行けるようになること。


おばあさんは、イエス様の救いについて、完全に理解できました。けれども、おばあさんには、大きな迷いがありました。それは、イエス様を信じて救われたいけれども、今まで、おばあさんを助けてくれた釈迦を裏切れないと言うことでした。本当に、真剣に悩んでいました。そして、「どうすれば、どちらが本当の神様だとわかるの?」と、たずねたそうです。そこで、孫である牧師は、こんなたとえ話をしたそうです。

ある家が火事になりました。何階かの窓から、小さな子供が顔を出して叫んでいます。その家の前に、二人の男がやって来ました。ひとりは、窓の子供に向かって、何やら注意しています。もう一人の男は、迷うことなく燃えている建物に飛び込んで子供を助けに行きました。さて、この二人のうち、どちらがこの子の父親でしょうか?

この話を聞いたおばあさんは、考え込んでしまいました。けれども、その翌日、「昨晩、イエス様を信じた。」と、牧師に報告したそうです。牧師は、そのときのおばあさんの顔は、実に晴れ晴れしていたと、語っていました。

さて、あなたが慕っているものは、本当に神様ですか?そして、あなたが信じる神様は、どんな犠牲を払って、何から、あなたを救ってくれるのですか?
 
あなたの永遠のために、どうか、もう一度、よくお考えになってみてくださいますように。

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
わたし達が神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(ヨハネ第一4章9,10節


(特別伝道集会メッセージより)