人の目にはまっすぐに見える道がある。
その道の終わりは死の道である。
笑うときにも心は痛み、
終わりには喜びが悲しみとなる。(箴言14章12,13節)
私は、以前、外国に行く機会がありました。 その時、私の乗った車が高速道路を走ったのですが、その高速道路は、日本と比べると起伏やカーブが少なく、ほとんど、まっすぐに走っているような印象を受けました。 まっすぐな道というのは遠くまで見通すことができます。
父:「お前は、地獄を見てきたのか? 見たこと無いくせに、地獄、地獄と言うな。」
私:「お父さんも、地獄がないということを、確かめて来たわけではないでしょう? 死がそんなに恐ろしいのは、地獄を恐れているからなんですよ。」
父:「いや、違う!未知の体験だから、怖いだけだ。 どうなるかわからないから怖いのだ。」
私:「未知の体験ならば、ワクワクする人もいるはずでしょう?」
さて、そんな人が、いるでしょうか?「ああ、私は、もうすぐ死ぬのだ。 これから、どうなるか、すごく楽しみだ。 ワクワクして眠れない。」・・・。 あなたは、そんな人を見たことがありますか?いいえ、皆、死を恐れています。 それは、地獄の刑罰を恐れているからなのです。
あるいは、こうおっしゃる人もおられるかもしれません。 「私は地獄に行くほど、悪い人間ではありません。」けれども、自分についての公正な判断は、自分自身でするものではありません。 たとえば、ミスユニバースを例えにあげてみましょう。 自分が美人だと思う人が、そのコンテストに応募します。 けれども、どんなに自分が美しいと思っていても、それを判断するのは審査員です。 同じように、わたし達が、どんなに自分が正しいと思っていても、それを評価するのは神様なのです。
残念ながら、神様の前に、罪の無い人は、ひとりもいません。 わたしも罪人です。しかし、あなたも、罪人です。 わたし達の心は、醜いのです。 家族や友人には、優しくできるかもしれません。 人助けもできるかもしれません。 けれども、神様は、私たちの心の中をご存知なのです。 神様がご覧になるわたし達の心は、しみだらけです。 どうか、正直に、自分の罪を認めてください。 神様は完全に聖いお方です。 その神様の前では、すべての人が罪人なのです。
色々な罪がありますが、何よりも大きな罪は、何でしょうか? それは、まことの神様を無視するという罪です。 あなたも、神様のご存在は知っておられるはずです。 しかし、真剣に神様に感謝したことがありますか? 本気で神様を崇めたことがありますか? ただの一度も感謝せずに、生きていませんか?・・・それは本当に、大きな罪なのです。 それなのに、自分の思い通りにならないと、人間は神様に文句を言います。 自分の苦境の時だけ、「神様助けて!」と祈りますが、願い通りの助けが来なければ、「神様など信じるものか!」と怒ります。 中にはもっとひどい人もいます。東日本大震災の時には、本当にたくさんの方が亡くなりました。 ところが、津波が引いた後、多くの死体が横たわる中、略奪している者たちがいたそうです。 中には、指を切断されて指輪を取られた死体もあったそうです。 全くひどい話です。 すると、この話を聞いて、「だから、神なんて信じられない。」と言う人たちがいます。 「こんなにこの世界が悪いのは、神様のせいだ。 」と、その人たちは言うのです。 いいえ、神様のせいではありません。 人間の罪のせいなのです。 けれども、人間は、どこまでも神様に対して反抗的です。
しかし、こんなわたし達に、神様は、救いを用意しておられます。 神様は、誰一人として、地獄に行くことを望んでおられません。 わたし達罪人を地獄から救うために、神様は、救い主を送って下さいました。 その救い主、イエス様が、あなたのために、十字架で死んでくださったのです。 イエス様は、あなたの罪を背負って死んで下さいました。 あなたが地獄で受けるベき罰を、イエス様が全部、代わりに受けてくださいました。 そして、最後、「完了した。」と、おっしゃいました。 罪のさばきが、全部終わったということです。 イエス様は、死後三日目によみがえられ、その後、四十日間にわたって、何度も何度も復活の姿を、たくさんの人に現して下さいました。 この救い主こそが、あなたに必要なのです。 あなたを地獄から救えるのはイエス様だけです。 イエス様を信じるなら、罪が許されるのです。 そして、死を迎えても、天国に行くことができるのです。
あなたには、死に対する恐れがありますか? もし、そうならば、今日はあなたにとってのチャンスです。 どうか、イエス様を信じて下さい。 あなたの心にイエス様を救い主として、今、受け入れてくださいますように。
その道の終わりは死の道である。
笑うときにも心は痛み、
終わりには喜びが悲しみとなる。(箴言14章12,13節)
私は、以前、外国に行く機会がありました。 その時、私の乗った車が高速道路を走ったのですが、その高速道路は、日本と比べると起伏やカーブが少なく、ほとんど、まっすぐに走っているような印象を受けました。 まっすぐな道というのは遠くまで見通すことができます。
さて、この聖書の言葉では、人生が道にたとえられています。 人の目には、まっすぐに見える道があります。 その道の終わりは死の道です。 つまり、人生の最後に、必ず死があるということを語っています。 これに反論する人はいません。
私は、人に、このように話すことがあります。 「あなたにも、いつか死ぬ時が来るでしょう。 それは、100パーセント確実です。 金持ちでも死にますし、有名人も死にます。 誰でも最後は死ぬのです。 死に方もさまざまです。 病気で死ぬ人もいますし、事件に巻き込まれて殺される人もいます。 けれども、われわれ人間に共通していることは、誰であれ、どんな形であれ、最後は絶対に死ぬということなのです。」それを聞くと、多くの人は、「それは、そうだ。」と、同意します。 あなたも、同意されると思います。 人生は、最後、死で終わるのです。
あなたは、死について、意識したことはありませんか?身近な人が死んだ時や、有名人が死んだニュースを聞いた時、いいえ、そうでなくても、ふと、死について考えてしまう時があるかもしれません。 私も小さい頃、「人間は死んだらどうなるのだろう?」と、よく考えました。 そして、考えると必ず恐怖を覚えましたので、すぐに考えることを止めようとしたものでした。
私は、人に、このように話すことがあります。 「あなたにも、いつか死ぬ時が来るでしょう。 それは、100パーセント確実です。 金持ちでも死にますし、有名人も死にます。 誰でも最後は死ぬのです。 死に方もさまざまです。 病気で死ぬ人もいますし、事件に巻き込まれて殺される人もいます。 けれども、われわれ人間に共通していることは、誰であれ、どんな形であれ、最後は絶対に死ぬということなのです。」それを聞くと、多くの人は、「それは、そうだ。」と、同意します。 あなたも、同意されると思います。 人生は、最後、死で終わるのです。
あなたは、死について、意識したことはありませんか?身近な人が死んだ時や、有名人が死んだニュースを聞いた時、いいえ、そうでなくても、ふと、死について考えてしまう時があるかもしれません。 私も小さい頃、「人間は死んだらどうなるのだろう?」と、よく考えました。 そして、考えると必ず恐怖を覚えましたので、すぐに考えることを止めようとしたものでした。
しかし、今日、是非、死について考えていただきたいと思います。 どうか、ごまかさないで下さい。 真剣に向き合ってください。 なぜなら、死は、すべてのものを奪ってしまうからです。 家族からも、離れ離れにされます。 持ち物は全部、手放さなければなりません。 死と言うのは、大きな問題なのです。
もう一度、13節の聖句を見てください。
笑うときにも心は痛み、
終わりには喜びが悲しみとなる。
若い時は楽しくても、歳をとれば死が近づきます。 どんなに楽しんで笑っても、最後は死んでいくのです。 安らかに眠れる平和な日々を送っているかもしれません。 でも、最後は全部を失います。ですから、聖書が死について何と言っているかを聞いていただきたいのです。
「死は、分離である。」と、聖書は語っています。
たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に・・・・
(ヤコブの手紙2章26節)
死というのは、たましいと肉体の分離です。 肉体は、この地上に残ります。 しかし、たましいは、永遠に生きるのです。 そして死後の世界に行かなければいけません。 また、このようにも、書かれています。
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように・・•(ヘブル人への手紙9章27節)
人間が、一度死ぬことが決まっているというのは、ご存知の通りです。 けれども、聖書には、死後にさばきを受けると、はっきりと書いてあるのです。 死後、あなたは、あなたを創られた神様の前に立つのです。 そして、あなたの罪がさばかれ、最後は、永遠の地獄に投げ込まれてしまいます。 これは、作り話ではありません。 聖書にはっきりと書いてあるのです。 地獄が存在するのです。 そこでは、尽きない火が燃えています。 そして、そこでは、水一滴さえ、もらうことができません。 先に、死は分離だと言いましたが、ただ単に、たましいと肉体の分離だけではありません。 神様からも、神様の恵みからも、切り離されてしまうので、ひとつの憐れみも受けることができないのです。 ですから、「水を下さい。」と、言っても、決して、もらうことができないのです。 そして、地獄からは、永遠に出ることができません。 これは、恐ろしい現実なのです。
もう一度、13節の聖句を見てください。
笑うときにも心は痛み、
終わりには喜びが悲しみとなる。
若い時は楽しくても、歳をとれば死が近づきます。 どんなに楽しんで笑っても、最後は死んでいくのです。 安らかに眠れる平和な日々を送っているかもしれません。 でも、最後は全部を失います。ですから、聖書が死について何と言っているかを聞いていただきたいのです。
「死は、分離である。」と、聖書は語っています。
たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に・・・・
(ヤコブの手紙2章26節)
死というのは、たましいと肉体の分離です。 肉体は、この地上に残ります。 しかし、たましいは、永遠に生きるのです。 そして死後の世界に行かなければいけません。 また、このようにも、書かれています。
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように・・•(ヘブル人への手紙9章27節)
人間が、一度死ぬことが決まっているというのは、ご存知の通りです。 けれども、聖書には、死後にさばきを受けると、はっきりと書いてあるのです。 死後、あなたは、あなたを創られた神様の前に立つのです。 そして、あなたの罪がさばかれ、最後は、永遠の地獄に投げ込まれてしまいます。 これは、作り話ではありません。 聖書にはっきりと書いてあるのです。 地獄が存在するのです。 そこでは、尽きない火が燃えています。 そして、そこでは、水一滴さえ、もらうことができません。 先に、死は分離だと言いましたが、ただ単に、たましいと肉体の分離だけではありません。 神様からも、神様の恵みからも、切り離されてしまうので、ひとつの憐れみも受けることができないのです。 ですから、「水を下さい。」と、言っても、決して、もらうことができないのです。 そして、地獄からは、永遠に出ることができません。 これは、恐ろしい現実なのです。
死について考える度に怖くなるのは、地獄に行くのが怖いからなのです。 わたし達人間は、頭では否定していても、心の底で地獄の存在を知っているから、死に恐怖を覚えるのです。
私の父が、イエス様を信じる前の話です。 私が父に地獄の話をした時の、私たちの会話です。
私の父が、イエス様を信じる前の話です。 私が父に地獄の話をした時の、私たちの会話です。
父:「お前は、地獄を見てきたのか? 見たこと無いくせに、地獄、地獄と言うな。」
私:「お父さんも、地獄がないということを、確かめて来たわけではないでしょう? 死がそんなに恐ろしいのは、地獄を恐れているからなんですよ。」
父:「いや、違う!未知の体験だから、怖いだけだ。 どうなるかわからないから怖いのだ。」
私:「未知の体験ならば、ワクワクする人もいるはずでしょう?」
さて、そんな人が、いるでしょうか?「ああ、私は、もうすぐ死ぬのだ。 これから、どうなるか、すごく楽しみだ。 ワクワクして眠れない。」・・・。 あなたは、そんな人を見たことがありますか?いいえ、皆、死を恐れています。 それは、地獄の刑罰を恐れているからなのです。
あるいは、こうおっしゃる人もおられるかもしれません。 「私は地獄に行くほど、悪い人間ではありません。」けれども、自分についての公正な判断は、自分自身でするものではありません。 たとえば、ミスユニバースを例えにあげてみましょう。 自分が美人だと思う人が、そのコンテストに応募します。 けれども、どんなに自分が美しいと思っていても、それを判断するのは審査員です。 同じように、わたし達が、どんなに自分が正しいと思っていても、それを評価するのは神様なのです。
残念ながら、神様の前に、罪の無い人は、ひとりもいません。 わたしも罪人です。しかし、あなたも、罪人です。 わたし達の心は、醜いのです。 家族や友人には、優しくできるかもしれません。 人助けもできるかもしれません。 けれども、神様は、私たちの心の中をご存知なのです。 神様がご覧になるわたし達の心は、しみだらけです。 どうか、正直に、自分の罪を認めてください。 神様は完全に聖いお方です。 その神様の前では、すべての人が罪人なのです。
色々な罪がありますが、何よりも大きな罪は、何でしょうか? それは、まことの神様を無視するという罪です。 あなたも、神様のご存在は知っておられるはずです。 しかし、真剣に神様に感謝したことがありますか? 本気で神様を崇めたことがありますか? ただの一度も感謝せずに、生きていませんか?・・・それは本当に、大きな罪なのです。 それなのに、自分の思い通りにならないと、人間は神様に文句を言います。 自分の苦境の時だけ、「神様助けて!」と祈りますが、願い通りの助けが来なければ、「神様など信じるものか!」と怒ります。 中にはもっとひどい人もいます。東日本大震災の時には、本当にたくさんの方が亡くなりました。 ところが、津波が引いた後、多くの死体が横たわる中、略奪している者たちがいたそうです。 中には、指を切断されて指輪を取られた死体もあったそうです。 全くひどい話です。 すると、この話を聞いて、「だから、神なんて信じられない。」と言う人たちがいます。 「こんなにこの世界が悪いのは、神様のせいだ。 」と、その人たちは言うのです。 いいえ、神様のせいではありません。 人間の罪のせいなのです。 けれども、人間は、どこまでも神様に対して反抗的です。
しかし、こんなわたし達に、神様は、救いを用意しておられます。 神様は、誰一人として、地獄に行くことを望んでおられません。 わたし達罪人を地獄から救うために、神様は、救い主を送って下さいました。 その救い主、イエス様が、あなたのために、十字架で死んでくださったのです。 イエス様は、あなたの罪を背負って死んで下さいました。 あなたが地獄で受けるベき罰を、イエス様が全部、代わりに受けてくださいました。 そして、最後、「完了した。」と、おっしゃいました。 罪のさばきが、全部終わったということです。 イエス様は、死後三日目によみがえられ、その後、四十日間にわたって、何度も何度も復活の姿を、たくさんの人に現して下さいました。 この救い主こそが、あなたに必要なのです。 あなたを地獄から救えるのはイエス様だけです。 イエス様を信じるなら、罪が許されるのです。 そして、死を迎えても、天国に行くことができるのです。
あなたには、死に対する恐れがありますか? もし、そうならば、今日はあなたにとってのチャンスです。 どうか、イエス様を信じて下さい。 あなたの心にイエス様を救い主として、今、受け入れてくださいますように。
(特別伝道集会メッセージより)