狭き門より入れ

スペイン在住クリスチャン。聖書にある救いとは?罪の赦しとは? 礼拝などから、福音メッセージを載せています。

やっぱり、日本人

2020年10月19日 | 生活
少し前まで、暑い暑いと言っていたのが、すっかり秋らしくなり、朝晩は、寒く感じるようになりました。 それにしても、この夏の暑かったこと!
朝は、氷を入れたアイスミルクティーと、トーストの朝食でしたが、今月の始めあたりからホットに変更。 最初は、まだ、暑くはなくても、寒くもないので、違和感があったホットミルクティー。 けれども、ここ数日は気温が下がって、何とも美味しく感じるようになりました。
そんな、ある朝、ホットミルクティーを一口飲んで、思わず、こう、呟いた自分にビックリ!!!

“あー、五臓六腑に、しみわたる~。“

日本暮らし22年、スペイン暮らし34年目、この頭のどこに、こんな日本語が、隠れていたのでしょうか…? ちなみに、五臓六腑、言えたのは、四臓のみ。 六腑は自信がないので挑戦せず。
たま~に、こんな現象があって、自分はやっぱり日本人だと、実感します。
それにしても、毎日、朝食を美味しくいただける健康が与えられていることに、感謝です。

semakimo.


終わりの日

2020年10月18日 | 聖書
“増え続ける暴虐、
地上にはびこる多大な悪、
愛は死んでしまったのか。
狂気が人間を支配する。

壊れていく若者たち、
捨てられる子供たち、
これらが快楽のために払われた代償、
利益だけを求めた結末。“
(Marcos vidal のシングル “buscarme vivireis "の歌詞より)

神様も聖書を通して、このように言っています。

“終わりの日には困難な時代が来ることを、承知していなさい。
そのときに人々は、自分だけを愛し、金銭を愛し、大言壮語し、高ぶり、神を冒涜し、両親に従わず、恩知らずで、汚れた者になります。
また、情け知らずで、人と和解せず、中傷し、自制できず、粗野で、善を好まない者になり、人を裏切り、向こう見ずで、思い上がり、神よりも快楽を愛する者になり…“ (2 テモテ 3:1-4)

やがて、神様は、この世界を裁かれます。

“しかし、今ある天と地は、同じみことばによって、火で焼かれるために取っておかれ、不敬虔な者たちのさばきと滅びの日まで保たれているのです。“ (2ペテロ 3:7)

けれども、神様は、こんな私たちを愛し、救いの手を差し伸べて下さっているのです。

“主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。 だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。“ (2ペテロ3:9)
冒頭の歌のタイトルは、“Buscarme, vivireis"、日本語に訳すと “ 私を探しなさい。そうすれば生きるのです。 “と、なります。

みなさん、どうか、神を求め、永遠のいのちを得て下さいますように。

Semakimo


罪の中で死ぬ

2020年10月17日 | 聖書
「•••もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」(ヨハネ8-24)

「•••主にあって死ぬ死者は幸いである。」(黙示14-13)


罪の中で死ぬか?

主にあって死ぬか?

上の二つの聖句は、死を前にして

の、二つの道を示しています。

「罪の中で死ぬ」とは、神により提供

されている救いを拒絶する人々の唯一

の道であり、神を前にして、自分が犯

してきた罪の責任をとらなければなり

ません。 聖書は「神の怒り」は、神の

御子を信じない者たちの上にとどまる

と宣言しています。また、「•••人間に

は、一度死ぬことと死後にさばきを受

けることが定まっている•••」(ヘブル

9-27)とも、言っています。このさば

きの判決は、神との最終的な決別で

す。すなわち、永遠の地獄で苦しむこ

となのです。けれども、今、悔い改め

て、イエスキリストを信じる全ての人

に、この問題への解決である神の許し

が、提供されているのです。

「主にあって死ぬ」というのは、イ

エス様を信じる信仰のうちに眠り(死

に)、天国で目覚めることです。

しかし、この「主にあって死ぬ」幸

いな人びとは、「罪の中で死ぬ」人び

とより、罪が少なかったのでしょう

か?それとも、まじめな良い人間だっ

たのでしょうか?

いいえ!そうではありません。

彼らは、ただ、その生涯のある時点

で、イエス様が自分の罪の罰を受けて

十字架で死んで下さり、そして甦られ

た唯一の救い主と信じたのです。聖書

の言葉を単純に信じ、神に信頼したの

です。

「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネ3-36)

こうしてふたつの死に方があると同じ

く、ふたつの生き方があります。

ひとつは、神を無視し、神と関わり

なく生きる生き方です。もうひとつ

は、祈りと聖書を読むことによって、

神との交わりの中に生きる生き方で

す。

神は、神との交わりの中に生きる者

の人生を、豊かに祝福してくださいま

す。

(Buena semilla より)



主の御名を呼び求める者は

2020年10月16日 | 聖書
「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。(ローマ10章13節)

イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしととも
にパラダイスにいます。」(ルカ23章43節)


 人生の最後に悔い改めて、イエス様を救い主と信じ、永遠の地獄から救われることがあります。聖書には、まさに、死の直前ぎりぎりで救われた人の話がひとつ記されていて、そういったケースもあり得ることが証されています。ただし、聖書に記されているのは、たったひとつだけです。と、いうのは、こういうことは、まれであること、そして、この例が救いを受け入れることを先送りにする言い訳とされないためです。

 イエス様が十字架につけられた時に、ふたりの犯罪人が、イエス様の右と左にひとりずつ十字架につけられました。そのふたりの犯罪人は、最初は、見物人と一緒になって、イエス様を、ののしっていました。
「イエスと一緒に十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。」(マタイ27章44節)
  
 けれども、その後、そのうちのひとりが、イエス様を救い主と信じたのです。その変化は、とても早いものでしたが、と、同時に、深く、完全な変化でした。彼のことばの一言一言は人が本当の救いに至るまでの段階をよく表しています。

1) 神様に敬意を示す。
一緒に十字架にかかっていたもう一人の犯罪人がイエス様に悪口を言うのをたしなめた。

「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。・・」
(ルカ23章40節)


2) 自分の罪を認める。

「・・・われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。・・・」(ルカ23章41節)

3) イエス様は、無罪であることを断言し、完全に正しい方であることを認める。

「・・・だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」(ルカ23章41節)

4) イエス様に助けを求め、信頼する。

「・・・私を思い出してください。」(ルカ23章42節)

5) イエス様こそが、復活し、再臨される主であることを信じる。

「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、・・・」(ルカ23章42節)

 
 イエス様の答えは、彼の希望をはるかに上回るものでした。

「・・・あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23章43節)

 彼は、未来の救いを求めたのですが、イエス様は、彼をその日にパラダイスに連れて行って下さると約束してくださったのです。このように、イエス様を、自分の罪の罰を受けて下さった救い主と信じて世を去るものは、罪を許され、天国に行くことができるのです。

(Buena semilla より)

        




多数に従う?

2020年10月15日 | 聖書
“狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。
いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出だす者はわずかです。“(マタイ 7:13-14)

都市の横断歩道では、歩行者たちのグループが、信号が緑色に変わるのを待っている様子をよく見かけます。 信号がまだ赤なのに、誰かが横断歩道を渡り始めると、ほとんどの場合、何人かの人々が、その人に続いて渡り出します。 彼らにとっては、信号機が何を示しているかよりも、他の人たちがどうするかが大切なのです。

人生において、同じことが、しばしば起こります。 私たちは、公正または真実に基づいてではなく、主に他の人の行動に基づいて自分の行動を決定します。

前述の歩行者たちは、赤信号で横断したために、事故で死ぬ可能性があります。 霊的、道徳的な分野においても、“他の人々がしているから。“ という理由だけで何かをすることは、同じように危険です。なぜなら、その決断には、私たちの永遠の未来がかかっているからです。

イエス•キリストは、この、神に通じる道を、十字架での死と復活により、切り開いて下さいました。

“わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。…“(ヨハネ14:6)

神に至る道は、多くの人が行く広い道ではなく、狭い道です。 その狭い門を通り抜けるには、悔い改め、自分の罪を認めなければなりません。 また、その狭い道を進むには、神が私たちの人生の所有者であると認め、神のみを信頼する必要があります。 この道を選ぶ人はほとんどいませんが、いのちにつながるのはこの道だけなのです。

神を見つけるためには、特定の規則に従う必要はなく、また、他の大勢に倣う必要もありません。 私たちは謙虚に、そして信仰をもって、ひとりで、イエス•キリストの御前に行くのです。 そうすれば、私たちは、神が私たち、すなわち神の子供たちに期待すること、“神が聖霊を通して私たちに与えてくださる愛を表すこと“ が、できるようになるでしょう。

(Tomasのショートメッセージより)