今年1月から3月にかけて「神はサイコロを振らない」というTVドラマが放送された。10年前に行方不明になった旅客機が、時空のゆがみが原因で現在に忽然と出現して、過去から現在に降り立った乗客と現在を生きる人々が再会するというストーリーだ。「神はサイコロを振らない」の意味は、運命ははじめから決められていて、神はサイコロのように確率で未来を決めないということだ。ドラマの筋書きはその考えに従い、理論どおり10日後に時空のゆがみが再び発生して、せっかく戻ってきた飛行機と乗客は過去に戻されてしまうという結末。ちょっと寂しい。
ニュートンという科学雑誌が今月で創刊300号を迎えた。この記念号では「量子論:みるみる理解できる78ページ」と題して、20世紀の物理学の発展の基礎となった2大理論のひとつを特集している。ちょうど「ゼロから学ぶ量子力学」を読み始めていたところなので、何かの縁を感じる。量子論では「観測することによってはじめて、確率的にさまざまな状態が共存している状態から、物事が1つの現実に決定する。」とされているのだが、まさに量子論を勉強しはじめた僕が書店に行った行為が、この特集記事を現実化させたような錯覚を覚える。本当は偶然にすぎないのだが、ひとつの思いにとらわれていると、何でもそれに結び付けて考えがちなものだ。
量子論の核心となるのは、電子や光が粒子としての性質と波の性質の両方を同時に兼ね備えていることだ。不思議なのはたった1つの電子でさえ、粒子と波の性質を同時に持ち、それはある瞬間に1箇所にあるのではなく、複数の箇所に同時に雲のように存在することだ。原子や電子などのミクロの世界ではこのように気持ち悪いことが起きるのだ。
この電子の不確定性は、電子の位置を確率的にしか求めることができず、さまざまな不思議な結論を導く。「シュレディンガーの猫」や「物事は観測することによって始めて現実となる。」などだ。
ニュートン力学や相対性理論に従えば、電子を含めすべての物体の運動は方程式によって完全に決定できる。つまり始めの状態と速度、その他の物理条件さえ与えられれば、未来は完全に予測できる。物質の化学反応であっても、それは原子や水素の結合や分離によるわけだから物理的な法則に従う。宇宙がはじまってから終わるまでに起きるすべてのことは(人間の歴史やミジンコの生活も含めて)すべて最初から決められているのだ。例えてみれば宇宙に存在するすべての原子や電子が、無数のビリヤードの球のように運動法則に従い、初期条件が同じであればその後のすべての動きが1通りに決まるようなものである。だからそこに確率のように不確定なことはおきない。「神はサイコロを振らない」というのはアインシュタインが量子論への反論として用いた有名な言葉だ。アインシュタインによればサイコロでさえ、投げるときの持ち方、投げる角度や速度、床の位置、空気の揺らぎなどすべての物理条件を厳密に同じにしておけば、出る目は必ず同じになるという。
ところが量子論の立場に立つと、1個1個の電子の不確定性や確率的挙動によって、すべての運動は量子論の波動方程式で表現される。つまり、ある出来事の次に起きる結果は確率的にしか決められない。ある特定の電子の次の挙動は1つに決められないのだ。このことは、宇宙のはじまりから終わりまで宇宙を構成するすべての原子に対して言えることで、原子でできている人間の運命というものはあらかじめ決定されてなくて、確率的に変動し得るものである。わずか電子1個の振る舞いの変動が未来に決定的な違いをもたらすこともあるのだ。このように神はサイコロを振るわけである。また、1つの電子が複数の場所に同時に存在できるという事実は、宇宙で発生するすべての現象は「それが起きる場合と起きない場合が同時に共存している」ことに帰結される。変なたとえであるが、太っている自分と痩せている自分、生きている自分と死んでいる自分、優等生の自分と劣等性の自分が、共存しているのだ。観測されることによってはじめてどちらかの自分が現実となるわけだ。
このように量子論はにわかに信じられないような理論であるが、この理論のおかげでエレクトロニクスが進歩してきた。量子論が成り立たないとトランジスタやダイオードなどは働かない。毎日パソコンや携帯電話、テレビなど、さまざまな電子機器を使っているというのは、実は量子論が正しいことを証明している行為なのである。
というわけで今月のニュートンの「量子論特集」はものすごく知的好奇心をかきたて、存在するということの不思議、運命とは何か、人間の意志や決定によって未来は変わるのかなど、いろいろなことを考えるきっかけになるのでぜひ読んでみてほしい。
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ニュートンという科学雑誌が今月で創刊300号を迎えた。この記念号では「量子論:みるみる理解できる78ページ」と題して、20世紀の物理学の発展の基礎となった2大理論のひとつを特集している。ちょうど「ゼロから学ぶ量子力学」を読み始めていたところなので、何かの縁を感じる。量子論では「観測することによってはじめて、確率的にさまざまな状態が共存している状態から、物事が1つの現実に決定する。」とされているのだが、まさに量子論を勉強しはじめた僕が書店に行った行為が、この特集記事を現実化させたような錯覚を覚える。本当は偶然にすぎないのだが、ひとつの思いにとらわれていると、何でもそれに結び付けて考えがちなものだ。
量子論の核心となるのは、電子や光が粒子としての性質と波の性質の両方を同時に兼ね備えていることだ。不思議なのはたった1つの電子でさえ、粒子と波の性質を同時に持ち、それはある瞬間に1箇所にあるのではなく、複数の箇所に同時に雲のように存在することだ。原子や電子などのミクロの世界ではこのように気持ち悪いことが起きるのだ。
この電子の不確定性は、電子の位置を確率的にしか求めることができず、さまざまな不思議な結論を導く。「シュレディンガーの猫」や「物事は観測することによって始めて現実となる。」などだ。
ニュートン力学や相対性理論に従えば、電子を含めすべての物体の運動は方程式によって完全に決定できる。つまり始めの状態と速度、その他の物理条件さえ与えられれば、未来は完全に予測できる。物質の化学反応であっても、それは原子や水素の結合や分離によるわけだから物理的な法則に従う。宇宙がはじまってから終わるまでに起きるすべてのことは(人間の歴史やミジンコの生活も含めて)すべて最初から決められているのだ。例えてみれば宇宙に存在するすべての原子や電子が、無数のビリヤードの球のように運動法則に従い、初期条件が同じであればその後のすべての動きが1通りに決まるようなものである。だからそこに確率のように不確定なことはおきない。「神はサイコロを振らない」というのはアインシュタインが量子論への反論として用いた有名な言葉だ。アインシュタインによればサイコロでさえ、投げるときの持ち方、投げる角度や速度、床の位置、空気の揺らぎなどすべての物理条件を厳密に同じにしておけば、出る目は必ず同じになるという。
ところが量子論の立場に立つと、1個1個の電子の不確定性や確率的挙動によって、すべての運動は量子論の波動方程式で表現される。つまり、ある出来事の次に起きる結果は確率的にしか決められない。ある特定の電子の次の挙動は1つに決められないのだ。このことは、宇宙のはじまりから終わりまで宇宙を構成するすべての原子に対して言えることで、原子でできている人間の運命というものはあらかじめ決定されてなくて、確率的に変動し得るものである。わずか電子1個の振る舞いの変動が未来に決定的な違いをもたらすこともあるのだ。このように神はサイコロを振るわけである。また、1つの電子が複数の場所に同時に存在できるという事実は、宇宙で発生するすべての現象は「それが起きる場合と起きない場合が同時に共存している」ことに帰結される。変なたとえであるが、太っている自分と痩せている自分、生きている自分と死んでいる自分、優等生の自分と劣等性の自分が、共存しているのだ。観測されることによってはじめてどちらかの自分が現実となるわけだ。
このように量子論はにわかに信じられないような理論であるが、この理論のおかげでエレクトロニクスが進歩してきた。量子論が成り立たないとトランジスタやダイオードなどは働かない。毎日パソコンや携帯電話、テレビなど、さまざまな電子機器を使っているというのは、実は量子論が正しいことを証明している行為なのである。
というわけで今月のニュートンの「量子論特集」はものすごく知的好奇心をかきたて、存在するということの不思議、運命とは何か、人間の意志や決定によって未来は変わるのかなど、いろいろなことを考えるきっかけになるのでぜひ読んでみてほしい。
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