「なぜこれをやらなければならないのか?」
という質問を教室で時々受けます。苦手な九九やたし算の暗唱の繰り返し、面倒くさい英語の学習手順、初めての単元で答えを出さないといけない時などです。
本当に知りたいんだな、と思う時には、待ってもらってでも付き合いますが、面倒くさい事をやりたくないから言っている(と、顔に書いてある)場合には、「いいからとりあえずやってみて。やったらなぜかわかるよ。」
という返事をする事もあります。
「なぜ?」
という質問がとても増えたように思います。その質問が受け入れられる土壌が整っていること自体は、とても良い事だと思います。疑問に思う事は「出来る子になる」ための重要な第一歩です。
でも、実は「面倒くさいけど理由を聞いて理解できたらやってもいい」時の「なぜ?」は理由を聞いても理解できません。頑張って出来るようになったA(+)君は頑張る前のA(-)君とは別人なので、A(-)君にはその利点を理解する能力がないからなのです。
どうしてこんな「なぜ?」が増えたのか?
それは私たちが幼いころから「消費者」として育ってきているからだ、と内田樹さんが「下流志向」という本の中で述べておられます。幼いころからお小遣いを何に使うか考える。この商品は払うに見合うだけの価値があるか、絶えず考える癖がついている。お金だけでなく、努力や時間もそうです。だから、
「これは自分の努力に見合うだけのものか?」
と考えて、見合わなさそうだったら、最初から努力しない。努力して新しいステージに行かないと、その価値はわからないにもかかわらず。入学試験を突破しても良い事なさそう、のんびり暮らした方がいい。上司に叱られて仕事を覚えるよりも、簡単なアルバイトでも生きていける。そうかもしれませんが、頑張った先に見えてくる新しいステージを見るチャンスは、永遠に失われます。下流に、下流に人生を選んでいくことになるわけです。
「四の五の言わずにやりなさい!!」と言われてきた自分の子ども時代と比べると、今の子どもたちは、ずいぶん丁寧に「なぜ?」に付き合ってもらっているように感じます。でも、それは本当によい事なのか、と思うことがあります。
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